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カテゴリ:旅行
ツーリングではないのですが、、、。
僕の故郷奈良にある明日香に行ってきましたのでブログにアップします。上の子供の5年生になりぼちぼち歴史を勉強し始めています。ならば歴史の舞台を見せてあげようと思いたち行ってきました。 僕が子供時代を過ごしたのは奈良市なので明日香とは1時間ぐらいの距離があります。椿井小学校というところに通っていましたが、この小学校、校区に興福寺があって子供時代は「五重塔の前に集合な!とか「南円堂の水飲みまで待ち合わせしよう!」とか普段の生活に国宝文化財が馴染んでいました。東大寺、春日大社もとほ10分ぐらい。自転車でよく遊びに行きました。 でも明日香は古墳時代から飛鳥時代の国で僕のホームグラウンドより更に前です。まさに国のまほろば。大和政権が力をつけ国家として成立してきた時代。神話と記録としての歴史が混ざり合う不思議な世界なのです。 子供がわかりやすいようにと蘇我氏と聖徳太子、大化の改新というストーリーで、石舞台、橘寺、飛鳥寺、蘇我入鹿首塚、(明日香ではないですが)斑鳩の法隆寺と回ってきました。 まずは石舞台です。 仏教と新道を巡って争っていた蘇我氏と物部氏。物部氏は軍事を受け持つ武力派。「大連」ですね。磐井の乱も鎮圧しています。 物部氏と蘇我市の争いが顕著になりだしたのは物部尾輿と蘇我稲目の時代です。蘇我氏は「臣」。天皇の補佐役的な役割ですね。蘇我氏は朝鮮半島から来た部族と言われておりいろんな知識を持っていたのでしょうね。大陸由来の仏教を推すのも頷けます。一方の物部氏は明日香土着の部族。この2氏の争いは仏教と神道という争いの他に大陸系と土着系の有力部族の争いという側面もありました。 さて石舞台古墳ですが、これは蘇我稲目の息子である馬子の墓と言われています。もともと土が持ってあったのですがそれがなくなり中の岩がむき出しになったようですね。最も稲目の墓とも言われています。 wikiでは『封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されている。また、一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83メートル、東西81メートル)をめぐらした壮大な方形墳であるという。』とあります。 下の画は教科書でも有名ですね。 明日香という場所はとっても不思議なところで、街に入るとそれまでの風景とは情景が一変します。 なだらかな平地が開けますがあっちこっちに古墳では?と思うような形の山があり、あちこちに遺跡があります。石舞台も道を走っていると突如現れます。 これは少し珍しいかもしれませんね。入り口です。羨道がありその奥が玄室です。 そもそも盗掘にあっており中には何もありません。見つかったのは棺のかけらだけ。。 よく考えてみれば天皇ではない臣下の墓が最大級の方墳というのもすごいですね。当時天皇を凌駕する力を持っていた証かもしれません。それが大化の改新のきっかけにもなるわけです。 内部から入り口を振り返ります。 蘇我氏は天皇を親戚とするいわば外戚をしたわけですが、大化の改新で活躍した中臣鎌足がそれを見ていたんではないでしょうか?その後藤原氏は同じ手法で絶大な権力を得ることになります。 歴史は温故知新と言いますが、歴史を学ぶことは未来をのぞく手法なのかもしれません。 子どもたちにはひとしきり予習させていたので非常に興味深かったようです。 日本人なら一度入ってみたい「明日香」です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 18, 2018 03:24:44 PM
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