カテゴリ:歴史・本など・・
(2017年11月7日の記事です)
先週の金曜日は、文化の日で天気がよいという絶好の行楽日和。 こんな「危険」な日に、ふたたび京都国立博物館(国宝展)へ行ってまいりました。 理由は、他にありません。やっぱり神護寺三像が見たくなったのです。 (入館チケット、1500円で、3作品は高いかもしれないけれど、一作品500円としても、イタリアの教会で、2ユーロ入れないと電気がつかない絵画を5点見るのと、ほぼ同じだと思えば高くないか? ) まあ、国宝展は、今、絶対混むから、夕方だと、マシかと、中途半端な時間行ったんですけど、入場まで50分くらい並んだ。いや、夕日に浮かぶ博物館の門のシルエットが綺麗でしたね・・・・って負け惜しみ? 中に入ると、まあ、混んでいたけれど、このⅢ期の展示は、金印や、曜変天目に人が群がっていたので、三階一階はすっとばしました。 神護寺三像はデッカイ(等身大)ので、「顔」はよく見える。時間をかければ、間近で観賞できるので、これはよいですね。何分たっても電気も消えないし♪ 実物を見れば、本当に大きさが実感できる。俗人肖像画として、これほど大きいものは確かに類はないかも。大きな絵画としては当然、仏画などもありますけれど、概して、仏様を含め、人物像は、顔や姿はこれほど大きくないですね。 そして今やこれらの画像が、それぞれ、足利直義、足利尊氏、足利義詮に比定されているのは、さまざまな論争があって、なんとなく落ち着いたかな・・などという気がしていますが、今回の展示には、この論争の片鱗も紹介されていないんですけれど、まあ、最初に、国宝認定した文化庁の美術史の立場と、江戸時代から、頼朝像と伝承してきた神護寺の立場からすると、たとえ「伝」とついても、従来の名称は外せないのかも。 この問題を最初に提起したのは、平凡社の「絵は語る」のシリーズで、 「源頼朝像ー沈黙の肖像画」(米倉迪夫・平凡社)。 それを応援するというか、補強しつつさらに、詳細な論理展開をしているのが 「国宝神護寺三像とは何か」(黒田日出男・角川選書)。 実はこれを最初に読んだので、ものすごく面白かった♪ いや、この先生の本は「黒田節」と言われているようですけれど、本当に面白いんです。 詳細な研究史や、原典引用がめんどくさいと思う人もいるらしいですけど、これこそが、この本の面白さで、研究史なんて、たどろうと思えば本当にめんどくさいし、時間がかかるんですよ。ここまで、詳細に並べられると、あとは周辺を当たればいいわけで、ラクなんじゃないかなあと思います。 そして、絵は語るシリーズは図版が綺麗ので、読みやすいから、あらためて、沈黙の肖像画の方を読んでみたら、これもよく分かって、なんだか、すごく納得した気分になったんですね。 この説が出た当初は色々あったらしいんですが、私はこの米倉説を読まずに、先に知った鈴木敬三説の装束からの説明が、すごくふにおちたというか、そうか・・・、これは平安末、鎌倉初期ではありえないかも・・と思ったわけです。 つまり、冠の形・・というか冠の笄と纓の形。 勿論この黒田本にも説明されているんですが、束帯を著用した時にかぶる公家の冠は、後ろにびらびら(纓)が、下がっていて、髷を串刺しにして冠を固定する笄がついているんですが、平安末から鎌倉初期の頃の纓は、根元からすぐ垂れて下がっており、笄は2本で左右から差す形なので、横一に見えることもあれば曲がって見えることもあるのですが、これが南北朝あたりから一本の長いものになる。 「頼朝像」は、どう見ても、長い一本の笄と、根元が立ち上がって空中で折れ曲がって垂れる、現代にもつながる纓ですね。この時代考証を、疑う方もいるそうですが、たとえ、南北朝のころの風俗で描かれているからと言って、この人物が頼朝ではないということは言えない・・・・という説もある。 勿論それもありですけどね。この絵には、どこにも、「名前」が書いてないから、誰を描いたかわかりませんし、南北朝のころに、誰かが頼朝の絵を描いたかもしれないですけど・・ 装束の考証としては、あと、伝藤原光能像が、伝平重盛像とよく似た鐙唐草の地紋の袍を着ているのですが、これが、公卿に出世していなかった藤原光能が着ることのできない衣装だという説もあるのですけれど、後世の画家ならそれはあまり考えないかもしれませんね。 ただ、この三像に関しては、同時に制作されたものではなく、伝光能像だけが画家が違い、顔料も違うので、伝尊氏像の姿に似せて、後の時代につくられたもので、ある可能性があるというのはもっともです。 で、(南北朝時代に描かれた)伝頼朝像と伝平重盛像が、セットであるとすれば、この二人の関係は何か? 今、伝頼朝像が保存状態がよく(特に顔の部分)、ネームバリューでも、鎌倉幕府を開いたという意味では有名なので、圧倒的にこっちがインパクトがありますが、並べて、単純に、どっちがえらいかというと、伝重盛さんが絶対偉い人です。 ♪二人並んですまし顔♪ という場合、古来、向かって右にいる人の方が身分が上です。 お内裏様も、関西では、古来の伝統に従って天皇が向かって右、皇后が向かって左です。 そして、この二人の画像を比べた場合、どちらも同じような衣装ですが、来ている束帯の袍の生地に違いがある。これはよくよく見ないとわからないのですが、織りだしてある柄が、伝重盛像の方が大きくて込み入っており、伝頼朝像の方が紋様が小さい・・つまり、伝重盛の方が上等の袍を着ているのです。 で、この二人が足利直義(伝頼朝のほう)、足利尊氏(伝重盛のほう)とされる根拠は、米倉、黒田説の「足利直義願文(東山御文庫・神護寺文書)」に、足利直義が、康永4年(1345年)神護寺に、尊氏と、自分の肖像画を奉納したとの記載。 つまり当初は、足利尊氏、直義二人の肖像画だけだった(ちなみに、当時尊氏40歳、直義39歳)のを、観応の擾乱!で、尊氏は一時引退し、息子の義詮が直義と政務をとっていた時期があるので、その時に、急遽、尊氏と同じ姿をした足利義詮の絵が追加で描かれたのではないか。 しかし、その後、ごたごたは続き、足利直義は失脚し、まもなく死ぬ。(兄尊氏によってか、あるいは甥の義詮によってか、「毒殺」されたという説が、ドラマに、必ずなる)。 ということで、神護寺に、直義の祈願で奉納された3人の肖像画は、とても「縁起の悪いもの」になって、庫の奥深く、しまわれたまま長年、忘れられていたのではないか・・。 そして観応の擾乱から250年、関ヶ原に勝利した徳川家康は、いよいよ京都に上って、征夷大将軍になりたがっていたんですが、そもそも、征夷大将軍になるためには源氏の棟梁という肩書がほしい。 しかし、一時、藤原を名乗ったりしていて、新田氏に無理やりつなげて源氏の系図を作っていたけれど、なにかこう、インパクトが欲しい家康殿。 そこで、文覚上人に縁があり、源頼朝が肩入れしていた神護寺に、ものすごい寄付をして、寺を荘厳復興しているんですね。その翌年にとうとう念願の征夷大将軍になった。このあたりから、神護寺の頼朝の肖像画が有名になって来た。 神護寺側としては、この時、家康から援助を受けるために、倉庫にしまわれていた直義の絵を引っ張り出し、「源頼朝」の肖像画として、見せたのではないかと言うのが、黒田先生の説ですが、もしそうだとすれば、家康さんが、幕府の開祖、源氏の棟梁の頼朝公の御降臨に感動して、ポンと大金を出したとすれば、この肖像画の威力はすごかったということですよね。 以後、この絵をもとに、同じような「頼朝像」が作られて行き、明治時代になって、この神護寺の三像が「国宝」になり、教科書に載り、「いい国作ろう鎌倉幕府」のキャッチフレーズ?とともに、「頼朝さん」は全国デビューを果したのです。 黒田説は、とても刺激的で面白いのですが、この三像が、直義の時代からどのようにかけられていたか・・・・また、この図像のなりたちや、描線・・・・なんてのにも、興味あるので、この話はまだ続きます。 【中古】 源頼朝像 沈黙の肖像画 絵は語る4/米倉迪夫(著者) 【中古】afb 国宝神護寺三像とは何か (角川選書) [ 黒田日出男 ] こちらもよろしく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.09.07 21:04:36
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