カテゴリ:歴史・本など・・
最近、ブームの室町時代ですが、個人的にいろいろ読んでいたものなどで、足利直義という人物をめぐる怪異についてまとめておこう・・。
「観応の擾乱」(これもブームです)について、当時の人たちも、足利尊氏と、弟の直義は、ベストコンビだったはずなのに、なんでこうなった・・という気持ちが強かったのか、物語の「太平記」では、「妖しいもの」に手繰られて、一連の事件が起こった・・ということになっている。 それは「怨霊」が烏天狗となって、足利直義の身辺に、「罠」をしかけるのです。 まあ、室町幕府(と言っていいかどうかわかりませんが)の実力者が、直義だ・・ということを認識しての設定なのでしょう。 愛宕山に集合していたという烏天狗の姿をした怨霊集団。時代をこえた豪華メンバー。 日本三大怨霊?のトップ崇徳院が大天狗となって率いるのは、淳仁天皇や井上皇后(紅一点!)、源為朝(彼は怨霊になっていたのだ!)。 そして後醍醐天皇(やはり、怨霊としては若輩者なのかも・・席次が低いですねえ)。 ほかに不遇の高僧(奈良時代の玄眆!)や、験高い僧、怪異の伝説のある僧たちが悪魔王の棟梁(大天狗との身分関係はわかりませんが、末席が護良親王なので、まあ、年功序列かも)として集結して、これから世の中が乱れると言っているのですね。 時期は貞和5年(1349年)のこととされています。観応の擾乱の直前です。 天狗らは「将軍家が唯一の天子を軽んじているので、家来も将軍家を軽んじている・・つまり秩序がないので、兄弟父子が争う乱れた世の中がくるであろう・・。」 という、まあ、唯一の天皇、後醍醐さんをないがしろにした足利兄弟は、家来の高師直にないがしろにされ、お互いに兄弟(尊氏、直義と義詮、直冬)、父子(尊氏、直冬)が争うという、怨霊の仕返しなわけです。 勿論、足利兄弟が、怨霊を・・というか、後醍醐さんをないがしろにしていたことは自覚があって、天龍寺は、この方の冥福を祈るために、貿易などにも手を出して、資金をかき集めて建立しているんですけどね。それでも、この強烈な怨霊たちはなだめられなんかしないってことですね。 また、仁和寺の六本杉に集結した天狗たちの怪異。 時期はその一年前の貞和4年(1348年)のこととされています。 これは、もう一つ下の階級?の天狗たちで、かなり具体的な計画。 トップには先ほど末席だった護良親王で、彼自身が足利直義の妻の胎内に入って直義の子供になって生まれ、実子を持った直義に兄尊氏にとってかわる「野望」を抱かせようという。 また妙吉という自信家の僧侶に、慢心を植え付けて直義に取り入って政治介入させ邪法をひろめさせよう。直義の側近の上杉、畠山の心を乱して、高師直と対立させよう、また高師直、師泰兄弟に、上杉、畠山を滅ぼしたいと思わせよう・・。 などと、この辺はピンポイントでくるのは、もっぱら直義狙いです。 これがすなわち、観応の擾乱のメンバーですね。 以上は太平記ですけれど、後世のお話では、もっと具体的に、直義本人の屋敷に出現する怪異がある。 それが、「笈の妖怪」。 これは怪異な姿をしていて、身体が笈(山伏が背負っているあれです)で、顔は山伏。 口に折れた刀の刃を咥えているのだそうで、このばけものが、直義の寝所!に現われたとか。 江馬務「日本妖怪変化史」(中公文庫)にも出ていますが、「絵本武者備考」に、これの絵があります。 なんともヘンなものですけど、これは、まあ口に折れた刀の刃を咥えているということで、しかも山伏スタイルということで、首を切ろうとした刀を口で咥えて折り取ったという壮絶な死に際の護良親王の姿のつもりでしょうねえ。 まあ、一番、直義を恨んでいるだろうと思われる人ですけど・・・・。 それ以外にも、同時代史料として、直義の屋敷で、自然に刀がぬけたり、鎧が動き回ったりしたという怪異があったとされている。 これは、まだ直義が、ちゃんと幕府の中心にいて、五山十刹などを定めていた頃で、その翌年には、例の神護寺三像(二像)ではないかと言われる、兄将軍と自分の肖像画を神護寺に奉納しているのです。 彼の絶頂期とはいいませんが、一応、兄弟(ついでに執事)との関係がまだ深刻にはなっていない安定期にあった頃の出来事です。まあ、この時期、足利直義は、怪異に取り囲まれていた・・・あるいは、怪異を呼びやすい人物だったということでしょうか? つまりは、やはり相当の権力者であったということの裏返しなんでしょうね。 感応の擾乱で敗北した直義は、鎌倉に幽閉され、急死(毒殺?)したとされる。 そして、足利直義をめぐる怪異は、すったもんだの観応の擾乱があったのち、当事者だった高師直と足利直義本人が一年おいて同じ日(2月26日です)に死んだ後、今度は、直義自身が「怪異」になるという問題がおこってくる。 それは、もちろん、生きている人間にかかわる大問題。 最初の兆候?は、延文三年(1358年)足利尊氏による「追贈」です。 ある人物に、死後官位を贈るのは贈位といいますが、功績のあった人の生前の功を嘉して、高い位や官位を贈ってたたえるものです。しかし、死後6年もたって突然、従二位を贈り、またそれほど間をおかずに正二位に昇格するのは異例のことであったらしい。 しかも、直義は死んだ時には出家していたので、僧籍にある人に世俗の位階を贈るのはどんなものかと、当時も問題視した人がいた。 これが、当時死病に臥していた尊氏の病状に関係があるのでしょう。 「うらまんでくれ」だか「まだ呼ばんでくれ」だか分かりませんが、おそらく弟の死に対して後ろめたかったのか、責任を感じていたのかする尊氏には、直義の怨霊がたたっていると感じられたんでしょうか。 立て続けに二回も位を贈ったけれど、尊氏は死んでしまいます。 尊氏の跡目を継いだのは義詮ですが、彼もまた叔父に対して後ろめたいことがあったのか、その4年後(正平17年(1362年)に今度はとうとう、神様に祭り上げます。 これが、「大倉宮」で、最初、直義の旧邸三条殿の内に祀り、後に天竜寺のそばに社殿をつくったのです(後醍醐天皇の隣に祀られて、直義本人はちっとも喜ばなかったと思うけれど・・)が、これには同時代史料では「いささか子細あり」ということが書かれている。「子細」ってなんですかね。よほどの訳ありしょうね。 当時、都にたちの悪い疫病が流行って、社会不安が増大し、為政者としての義詮に「危機」的状況だったという話もありますが、個人的に将軍家に祟ってたってことでしょうか? 義詮自身が病気にかかっていたという話もあります。 ただ、その前年の正平16年(1361年)に、大規模な地震が起こっています。 これは南海トラフ地震ではないかと言われている正平地震で、太平記によると「山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千萬と云数を知ず」とされます。 このような国難にあたって、将軍であった義詮は、不運の先祖を「神」にすることにしたのですね。 更に貞治3年(1364年)2月26日に、義詮が中心となって直義の十三回忌を等持寺で行っています。 神様になっても、やはり、直義の怨霊は祟り続けていたのでしょう。 その三年後に義詮の弟基氏と義詮は相次いで亡くなり、義満の時代になりますが、義満も等持院で直義の法要をしている。 彼にとっては、全然「知らん人」ですけど、やはりたたりは怖いかも。 それだけではなくて、その後、時代が下って足利義教(この人は、そんな遠い昔の人ではなくて、同時代人のいろんな人に、モロに恨まれたり祟られたりしそうで、むしろ、ご先祖の怨霊に加護を願った?)の時代にも何回か法要やってる。 義教自身が殺された年にもやってたから、年忌で言えば九十回忌? ものすごい長く「霊力」があったんですね。 そのころの記録にも、大蔵大明神などと呼ばれていたようですから、「神様」としても霊威があった。 義満と義教の間に、将軍としては、義持とその息子の義量が入っているのですが、この二人は、直義を供養しなかったのかどうかはわかりません。 ただ、将軍義持は、自分の弟の義嗣を殺してしまい、その霊を慰めるために林光院を開いて、また彼を神様にして「新大倉宮」としたということがありますから、「ひいじいさんの弟」の霊よりも、自分の身近に怖い怨霊がいたということですよね。 ただ、「新大倉宮」は、直義の「大倉宮」になぞらえてもうけられたので、古いほうもちゃんと恐れて、供養はしていたかとも思われますが・・。 後世に描かれた直義。 足利氏の歴代将軍は木像も等持院に安置されていますが、それは先祖供養ということで、「子孫を守って下さい。幸福を授けて下さい」という積極的な御願いをするために大切にされていたでしょうけれど、足利直義は、その範疇にはいらない「たたる先祖」であり、「うちの子にたたらなで下さい。恨まないで下さい」というような、マイナスのお願いをする対象で、消極性を望む、ある意味「封印」したいご先祖。 現代の等持院のパンフレットに足利家系図が出ているのですが、直義の記載はありません。まあ、あくまで尊氏家の系図ですからそれはそれでいいんですが。 で、ここからはつけたりの私の妄想になりますけど、神護寺三像です。 もし、あの「伝頼朝像」が、足利直義だったとしたら、神護寺で、大切に祀られ、供養されてきたのではないか・・・と。 後の2人については、等持院など一族の菩提寺で積極的にお祀りできるので(彫像もちゃんとある)、しまいこんでいてもいいんです。 ですけれど、積極的に祀れないけれど、力のある「霊」を大切にしなければならないので、一族の菩提寺では祀られない「たたる御先祖」は、ここでひそかに祀られていた・・・? 将軍義持の時に、謀叛の疑いをかけられた弟の義嗣は、逃亡して神護寺に隠れていた・・というのですが、同じ境遇に陥った先祖のもとに身を寄せた・・とは考えすぎか。西方に逃げる途中だったかもですが・・? それはともかく、では、神護寺で、「直義像」は、何とよばれていたのか? 死後の神号である「大倉宮」と呼ばれていたのか・・。生前の呼び名のどれかかもしれない。「三条殿」だと、次には義詮が住んでいたから、まぎらわしい。「高倉殿」「錦小路殿」とかもあります。「大休寺殿」であったかもしれませんが、神号から「大倉殿」とか、鎌倉で死んだので、「鎌倉殿」とか? もしかしたら兵衛督の唐名で「武衛」殿とか「武衛」様とか呼ばれていたかも。「鎌倉の武衛殿」とか・・。 その後、時はうつり、ずっとその呼ばれ方をしていて、足利幕府が無くなって、更にのち、徳川家康の時代になって、家康の庇護を受けて寺の宝が日の目を見た。 家康は、「源氏の棟梁」として、源頼朝にならって寺を保護する政策をおこなっていました。 その時、「武衛」は、同じく「武衛」と呼ばれており、「鎌倉」の「大倉御所」にいた源頼朝と取り違えられたかもしれない・・・。 でも、お寺としては、当然この「間違い」を知っていたけれど、あくまでちゃんと「お祀り」ができればいいので、あえていらんことは言わなかった・・・?なんて。 あの三像の中では、「伝頼朝像」は、特に保存状態がよく(顔の部分などは本当に残りがよい)、大切に祀られていたのではないか・・・などと妄想しています・・・。 本は「足利直義 兄尊氏との対立と理想国家」(森茂暁・角川選書)など こちらもよろしく 座乱読後乱駄夢人名事典 絵置き場 座乱読ー別荘ー マンガ置き場。 現在「足利家の執事」連載中 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.04.17 11:57:22
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