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1

足跡

2008年01月17日
XML
カテゴリ:足跡
大学時代の友人から今年も届いた年賀状。
相変わらずぶっきらぼうな文面は、これまた少しも変わらぬ昔のままの下手な字で書きなぐってありました。


謹賀新年今年もよろしく!
昨年女房を連れて西日光(耕三寺、瀬戸田町)に行って来た。
35年振りだ。
あの時以来だよ。煙草をやめて太ったので階段がしんどかった・・
                          原文のまま

卒業後彼とは、これまで確か二度再会しただろうか・・

私が結婚して数年後、どこかへの旅の途中だと言う彼が、やはり大学時代の友人と二人で、当時私が住んでいた市営住宅に顔を出してくれ、束の間の再会をしたのを最後に、その後は、どちらからともなく電話で数度話した位に、早こんなにも時は過ぎたのかと思わせる程、疎遠の友なっています。

けれども、こうして年に一度の年賀状が届き、その全く愛嬌の微塵もないその文面を目でなぞる私に、友は長き年月の隔たりを一気に越えて、見事に昔と何等変わらぬ口調のままの、屈託ない昔の彼で私の前に甦ってくるのです。


耕三寺(通称西日光)・・・
現在所在地は広島県尾道市瀬戸田町に属する、瀬戸内海に浮かぶ生口島にある観光地。
日光東照宮にも似た建物により、その通称は由来するといいます。


そして思い出す・・あの時以来・・

当時私は、大学一年生で十八歳。
初めての夏休みを迎え、帰省する彼に誘われて、彼の郷里に旅をすることになった私。

大学の寮仲間で直ぐに親しき友人となった彼が、この帰省を前に、彼が持参していた高校の卒業アルバムを、ある日私に披露してくれたのを、彼の部屋でぱらぱらとめくっていた私は、そのアルバムのなかの一人の女性とに気が留まったのです。

載っていた好みのタイプのその写真に、なんとなく「いいな~」と嬉し顔で彼に言う私に、
彼はすぐさま「そうか、じゃあ○○を今度お前に紹介してやるわ」と、彼の特徴であるぶっきらぼうな口調で私に返事したのです。

やがて帰省する断になって、彼は、私が特別期待もせずに言った言葉を、彼は律儀にも彼女に事前に連絡とってくれたらしく、その回答を私によこしたのです。

「あのな、○○は今誰かと付き合うちょるらしいけ」
「その代わり、自分の代わりにあいつの妹を紹介してやると言うちょる」
「今度帰ったら会わせてやるから、三人で近くの耕三寺でも行ってみるか」
「船で渡ってすぐじゃけぇ」

ざっとこんな感じだったかな・・・(^^)
小さな島に住まう人間は、皆が気心知れた仲間内のようだと、そのアルバムの彼女を呼ぶにも名前で呼び捨てる友に、のどかな島の風情までもが窺い知れて、私の気持ちは心踊りし、一気に彼(か)の地に馳せたものです。


で、私は、夏期休暇に入ると間もなく彼と共に彼の郷里である瀬戸内海に浮かぶ小島へ行ったのです。

そしてその耕三寺に行ったのは確か二日目でした。
彼と私と、寮で当初気に入ったアルバムのなかの女子高生・・
でなくて今から思えば、彼女も同級生であった彼の頼みとはいえ、律儀にも彼女の妹を紹介してくれて・・
結局友と私とその高校一年生だという彼女と三人で、快晴の耕三寺へ三人デートしたのであります。(^^)

ただ、私が最初に彼の島を訪れた年ですから、それからすると三十八年経っているということ。
彼の「三十五年振りだ」は勘違いでしょう。
しかし年月は遠くに過ぎたものだ。
まだ昨日の事のように様々な光景が想い出として残っています。


今度、島の卒業生が、都会のナウイ(古~~)青年を連れてやって来る・・
そんな感じで島は噂で揺れていたのでしょうか・・・爆 爆 (^^♪
(これはありません。ただの妄想であります)爆

剣道部でキャプテンだというその友の高校時代の女子同級生の妹は、聞くところによると勉強もよくできて優秀だったようです。
物静かでしたが、とても気立ての良い感じの子でした。

私はもちろん、デートという慣れないシチュエーションに言葉少なく内心落ち着かず。^_^;

しかし、しかし、その時の私の心は、正直なところ、全く別のところであたふたとしていたのでした。
そう、陽も落ちた前日、彼の実家に初訪問した私に待ち受けていたのは、胸に矢刺さる歩ほどに驚愕の、その友人の妹との出会いが私の予想もしない中に存在していたのですから。
その後一転二転あって私は、その友人の妹と付き合うことになったのです。

そしてその大学時代の友人こそが
此処に登場するH本人であるのです。
(これまでも何度か此処に登場させたことのある、私が失恋後数年経って綴った書き出しだけで終わっているもの)


本日は、今年届いた友の年賀状にあった西日光耕三寺の文字に、その時を思い、その後の一部を約三十年振りになんとなく綴ってみたということ。

書けば終わりがないのでこの辺で。”^_^”


ところで結末はどうなったか、って?

そうですね、島での春、夏、冬の景色は巡り、
休暇の度に私はその島を訪れ、離れては心待ちの文通を交わし、手編みのマフラーをもらいながら・・

出会った時には大学一年だった私と、二歳下で高校一年生だった友人の妹。
彼女は、はつらつ健康的でバレーボール部のキャプテンでした。

やがてその彼女が、高校卒業を目前にし関西への就職も決定していた三年目の初春、別れの時。
小島から因島、そして尾道へと渡る連絡船でのただ黙した二人の時は重苦しく・・

列車の待ち時間に入った尾道の小さな喫茶店で、やはり互いに話す言葉もなく。

私が店員さんに注文したのはホットレモン。
(喫茶店などほとんど行った事もなかった私は、コーヒー、紅茶以外、このホッとレモンorホッとカルピスくらいしか知らなかった。これは私の当時の定番注文品なのだ。(^^♪)

沈鬱な二人の雰囲気のなか、やがて目の前に運ばれてきたホッとレモン。
ホッとレモン、ホッとカルピスは、そのグラスを収めたホルダーの取っ手を掴かんで飲むのに、どうしたことか、その時の私の頭のなかは上の空で、しっかり熱いグラスそのもをの掴んでしまって・・
「あっちち!!」と慌てながら、また二人の間に沈黙は続き・・

やがて別れの時、
結局、尾道駅のプラットホームで私を見送りながら俯き涙している彼女。
二年半の巡る季節のなかで、ただ最後まで慣れない初恋的もどかしさだけを持ったまま、デッキの私が見たその時の彼女の姿が最後でした。

未だに涙の訳も、結局壊れた理由も解らぬままに。

所詮、会話し包み込む心の余裕など少しもなく、ぎこちない程の初恋的恋愛は上手くいかないように大よそなっている。

その島における私の四度目の夏はやって来はしなかったけれど、人生いろいろの中で、その後の波乱万丈の人生とともに、決して女々しく後を引くことなく、私が歩いた青春の轍として良き思い出として大切に残っているのです。

私的には、是非映画化もいいんじゃないかと・・(^^♪
そうですね・・回想シーンから
配役ですが、主人公に回想シーンでは役所広司 ← もちろ私 “^_^”
相手はもう、この際黒木 瞳ということにしておきましょうか。”^_^”

で、当時は純朴な青年に・・・キムタク・・はちょっとイメージ違うので違うイケ面で・・なんちゃって (^^)

監督は、やっぱり尾道シリーズの大林宣彦さんで。爆 爆

いや~お粗末 お粗末。”^_^”
(でも真実は泣いた青春だったんですから)(^^)

その友ですが、
私と妹が付き合っているときも、壊れていったときも、一切立ち入る事はなかったですね。

しかし、私も当時恋にかなづち、うぶだったにも関らず、時には一週間の滞在で、友が先に寮に戻っていったのに、私はその妹と一緒に居たさにその後も彼の実家に留まったりしていたりしていたんです。

ご家族の鷹揚さに、つい甘えて長居もしていたのでしょうが、それにしても厚かましい。
(そしてこの私の青春。これからまた少し続きがあったのです・・)

常識があるようで非常識、遠慮屋さんであって時々厚かましい・・
まあよく自分でも理解不能なところがあります。
木星人(-)B型 人生ガタガタのnextで~~す。爆 爆

あ~~!我が人生の恋は、「ダウンタウンヒーローズ」や「蝉しぐれ」の中の主人公のよう。

↑すぐに主人公にしてしまうお気楽な私であります。(^^♪
でもほんとそんな感じなんですね。信じてチョーだい。爆
まあしかし、書けば相当量になるほどいろいろあった青春時代であります。

感性はいつまでも変らぬ、それが青春なのです。

そして結果オーライ!今は幸せな夫婦生活送っています。(^^♪
多分・・思っているのは私だけ? トホホ

今日は随分と長くなりましたね。
適当に飛ばして読んでくださいよ。(笑)
えっ!?長すぎてほとんど読んでいない?
そんな~ ^^; どんまい どんまい (^^)

The End



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Last updated  2008年01月18日 15時27分57秒
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2007年02月19日
カテゴリ:足跡
快晴でとても清清しい日です。
まるで生田神社の二人の様に。
近年見ない、とても良い感じの芸能人カップルだと思いました。
彼女は外見の印象と違い、いいですね。良い奥さんになりそうです。
きゃぴきゃぴしない、大人の落ち着いて安定した、真の価値を見出せる人のような気がして、なかなかTVを観ていて気持ちよかったです。
彼女だったら、こんな私でも合いそうです。・・と馬鹿なことを考えたりしておりますが。
彼はとても人間的魅力を持った人なのでしょう。
是非幸せになって欲しいですね。(^^)

さて、そんな気持ちの良い日の午後、仕事で行った先の帰り道に、近くの私の懐かしき場所に寄って来ました。

転職八度の私が二度目に働いた場所が此処です。
『卸売市場』

北九州市庁舎~小倉玉屋~旦過市場~魚町商店街~鳥町商店街~スーパー
担当する市内を、エアコンも付いていない2tトラックを運転し、雨の日も真夏にも、日々食材を卸して回るのが仕事でした。
いわゆるルートセールス。
23歳位から4年間程でしょうか。
そして、ここで働いていたときに結婚しました。

そうそう今の妻と出会った頃・・(といっても私バツイチ経験者でもありません)
会社の寮に住んでいいた私は、寮規則を破り、その寮に住む、寮長でもある上司の目を盗んで、頻繁に妻の実家にお邪魔させてもらっていました。
呼ばれるまでもなく、勝手に。

内気な私ですが、今から考えれば随分と厚かましいところもあったようです。
頻繁に訪問し、晩飯よばれて、時に泊まって帰って。
まあ、妻の両親は寛大で良い人でした。
私もただ食いはさすがに気が引けて、時々、仕事商品の「しば漬け」の徳用袋を持参したりしました。
もちろん、商品を失敬したりはしませんよ。社員価格で買ってですね。(^^)

早出のときは朝三時起きで、大晦日は忙しくて、紅白歌合戦はいつも配達の途中のトラックのラジオで聴いていたものです。
この頃は、配達中にビジネスマンに出会うと、「いつか自分もスーツ姿で仕事をしよう」と強く思っていたものです。


人生を、グラウンド上でプレイする選手に例えてみて、私自身は、決してホームランバッターでもなく、観客を印象づける華やかさを持っていたわけでもなく、まあ、6~7番辺りにいて、コツコツヒットを打っていくタイプだったようです。

そしてそれは、その時々におかれた私の状況が、例えスターティングメンバーの様であろうとなかろうと、又、グランド整備要員的でいようと、仕事の捉え方、気の持ち方というものは同じであったわけです。
どの様な状況下にあっても自分を見失わず、黙々と明日を信じて今を頑張る。

時に悩み、時に感情の起伏も持つ日もありながら、しかし投げ出すことも決してなく、変わらぬ、というより、どのように憤りを感じるときも、変えられぬ精神、自分というものがあります。
結局それこそが、時に、自分自身とても歯がゆく感じることさえあっても、唯一の支えとなった気がするのです。

私にとっての、この、生きるためのグランドというものが、転職によって八度変わったわけですが、詰まるところ、曲がりなりにも、なんとか私というものが今日在るのは、やはり、このグラウンド上の正に競技さなかの華やかな光景そのものだけでもなく、例え試合前後における、人気のないグランド整備においても、黙々とこなす競技場の一員としての姿を、例えば試合後に球場に残った数人の観客、あるいは、関係者の誰かが観ていてくれていたということなのです。

生活を抱えながら、急遽フィールドを後にする、ということばかりでしたが、その表に出ない裏の場面でも、決して腐らずコツコツ精神で自分なりの歩を進めていたからこそ、その一人の観客、ひとりの関係者が、手を差し伸べてくれたのだと思うのです。

ですから、反省すべき、計画性のない突然の自らの退職にも、一度も失業保険などもらったことはありません。
職を辞めた後、必ず誰かの誘いをいただいたことは、実に有難いことなのです。
やはり、自らが人生に対して真摯に誠実に向かわなくて、誰が私を欲しようと思うでしょうか。
冒頭の生田神社の二人も、やはりその様ななかから派生した縁というものでしょう。
今年、縁あって横浜移籍の工藤投手も、40歳超えて爽やかに頑張っている姿が素敵です。

そして最近の私は、同じ打つなら、もう少し効率のよい有効打としての私流のヒットを、と考えております。もちろん、私の為にも他人の為にもの有効打を。

そんな、あんな、『時』を思い浮かべ、懐かしく、若い頃働いていた場所にふと立ち寄ってみました。

卸売り市場
早朝はここは満車状態になります


応援しています。↓

感動絵本『トイチ君』との世界







Last updated  2007年02月19日 22時53分39秒
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2005年11月26日
カテゴリ:足跡
昔昔、あるところに貧乏な学生がおりました。

狭い四畳半の部屋。あとはトイレと、土間にはセメント造りの傾いた流し台。
この季節になるとつらい日々でした。
何せこの古い木造の建物の入り口の戸はというと、中から外が見えるのです。
戸枠に、ただ板を打ちつけた、スノコ状態なのです。
そして、その戸は、炭焼き小屋のような、開閉時には戸が地面をこするほどに傾いていいました。

隙間風はピュ-ピューと入り込んできました。
唯一の暖房である電気コタツは、強と弱のみ。
中間温度というのがありません。
寒いと足で蹴る。熱いと蹴る。
冬はひたすらせんべい布団に包まっておりました。

銭湯は歩いて7、8分のところにありましたが、せっかく温まっても、帰りには身体の芯から冷えてしまいます。

夏は愛用のポリのたらいで、土間で行水。
このたらいでは洗濯もします。
炊事場は時に洗面台にもなるのです。
もちろん湯沸かし器なんてありません。

故郷からのわずかな仕送りも時々滞っておりましたから、7000円の家賃も時々支払いが滞っておりました。(家賃滞納は絶対いけませんよ)

バイトもよくしました。
冬の土木作業の工事現場は大変でした。
警備会社のバイトでは、ある工事現場で、年を越したこともありました。
守衛室で寝泊りし、夜も定期的に現場内を巡回したりするのです。

金は無くとも、何故か心は充足感で一杯の青春時代。

あるとき、米を炊こうとしたのですが、炊くには、あまりに量が少なすぎて炊けないことがありました。
そしてその内にガスが止まり。
結局、チキンラーメンをかじってしのいだりしたものです。

そうそう、こんなこともありました。
あまりのきつさに、ある日、土木作業の仕事をさぼったことがありました。
すると、親方が私の部屋まで迎えに来たのです。
入り口の戸はほとんど無錠状態。
戸を開けるとすぐに土間から部屋。
親方は「お~い○○く~ん」と戸を開け顔を覗かせ声をかけます。
その前にも来た事があるので、その日の私は、予想して事前に姿を消しておりました。
どこに消したかと言うと、当時流行った、ビニール仕様のファンシーケースの中。
その狭いなかで直立のままで息を殺してじっとしておりました。
いや~実に苦しかったですね。親方が帰るまでの数分間は・・
実に姑息な手段をとる私。否訂正、そのある貧乏学生。

しかしなんやかやで、日々は結構楽しく過ごしておりました。
キャバレーやクラブでのバイトも楽しかったです。
ボーイしながら、テーブルに出す前のオードブルをつまみ食いしたり。
何しろ腹へっていましたから。
もちろん、そっと並べ替えて出していました。(^^)
着物の似合うとても素敵な、憧れの店の女の人にある日「焼肉弁当」を作ってきてもらいました。
このときは嬉しかったです。
まだまだ初心だった私は、ただただもじもじていたのを覚えています。
あっ!訂正、訂正。ある貧乏学生は、です。

いろいろあっても、振り返ってみれば実に楽しい青春時代。
けれども、さすがに食うに食えないと言うのは辛いのです。
その内に息絶え絶え状態になってしいました。
飢え死に寸前の仮死状態。
そしてとどめを刺すかのような失恋・・トホホ。

そんなある日、目の前が朦朧としたなかで餓死寸前?の身体を横たえていた学生。
すると、なにやらそのほったて小屋を仄かな灯りが包むではありませんか。
どう表現したらよいでしょう。
そうそう、映画「ET」の様な未知との遭遇状態。

気がつくと目の前には・・
マザーテレサが・・
その方は、後光のなかで、貧乏な学生に救いの手を伸ばしてきたのです。
すると凍死状態のその学生の身体は急に温まってきて、ことなきを得たのです。
めでたしめでたし。

その後どうしたか?って?
その学生は、現れた天使様に、クリスマスにはチキン。その都度、おにぎりやその他差し入れ・・と
学生は思い存分甘えておりました。
そして、天使様の壮大なる愛の救済活動により、無事一命をとり止めることができたのです。

さて、その天使様。
救済活動を終え、やれやれと、その場を立ち去ろうとしたのですが、その学生は、味をしめたらしく、振りほどこうとする天使様の手をしっかり掴んで離しません。
「やっと食い扶持を掴んだのに~!」と”^_^”

海でおぼれるものが救助の人間に、藁をも掴む状態でしがみつく感じでしょうか。

そして、幸運を掴んだその貧乏学生と、ひょんなことから不幸を掴んだ、その天使様は、腐れ縁につながれて現在もある地方で元気に暮らしているようです。

時々天使様は、溜息つきながら
「あ~あ~、あの時手を差し伸べさえしなかったら・・」
「あのままほっとけばよかった。大失敗。」とぼやきながら・・
(^^♪






Last updated  2005年11月26日 19時56分58秒
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2005年08月30日
カテゴリ:足跡
学生時代によく利用していた食堂。
そこは、当時住まいの近くにあった警察内食堂でした。


市役所等の公的施設内には、指名業者が入った一般にも利用しやすい食堂や床屋があります。
何しろ、安くてボリュームたっぷりでしたから、当時私達貧乏学生の多くがそこを利用していました。

他にも幾つかの、行き着けの一般食堂がありましたが、その警察内食堂の良さはつけが利くところでした。

店内にぶらさがった「通い帳」の様なものに、自主的に食べたものと料金を記帳して帰ります。
そして一月に一度、食い溜まった代金を支払うのです。
もちろんニコニコ現金払いもOKでした。
むしろつけをする人の方が少なかったか・・・。
しかし、実に有難い、貧乏学生に優しい食堂でした。

その食堂は腹を空かした連中がワイワイ楽しくできる場でもありました。
時にこんな滑稽こともありました。

その日テーブルに座った私の前の学生に、私が隣の友人と話している隙に、私の注文した焼肉定食の皿の焼肉を失敬されたり・・

話している友人からふと顔を前に戻すと、丁度前の学生が、私の皿の焼肉を、箸でかっさらって自分の口に持っていくところでした。
大事な焼肉3枚くらいでした。
目の前の学生と私は、顔は知っていても、ろくに話などしたこともありませんでしたから、この大胆さに全く呆れました。
この野郎!と思いましたが、今度はいつかこちらが奴のを4枚程隙をみて失敬してやろうと思いました。(^^)
はなから風情もなにやらおかしかった彼ですが、その後は親しい友人となりました。

ところで、店主と別に、身内の人かパートさんかの女の人が2人程のこの警察内食堂。
私の大好きな焼肉定食は180円也の学生の味方の代金でした。

随分と利用させてもらった店ですが、ある月末、溜まったつけの代金が払えないときがありました。

炭焼き小屋の様な、ただ板を打ち付けた、内から外が見えるほどの入り口の戸は、
開閉時にその戸と下の土面が当たって、ガラガラと音を立てていました。
そんな風呂なし四畳半の部屋代金7000円の家賃の支払いも遅れたりしていた時分です。
(ところで現在、当社の管理物件の滞納家賃は0%でありますから優秀)


そしていつだったか、支払いの滞った食堂代金を、つい払えないまま月日は経っていきました。
そしてその内、特段の催促もないことについ甘え、支払いのタイミングを逸したまま気まずくなり、更にその食堂への足は遠のいていきました。

その後の月日が経ったある夏、帰省中の私の元に一枚の暑中見舞いが届きました。
それはなんと、その食堂の女性従業員からのものでした。
葉書には、
・・その後お元気にされていますか・・云々と丁寧に書かれていました。
さりげなく、どうしたのか私の身の上を問うてきたのでしょう。
しかし、滞納していた通い帳のつけの代金のことには一切触れてありませんでした。

私は、負い目と申し訳なさとが混在した複雑な気持ちのまま、
その後も、相変わらずの貧乏生活との狭間で、ついにその食堂に足を向けることなく、
やがて卒業してしまいました。

私の卒業後しばらくして、その食堂経営も変ったようですが、私が食べた、つけの3000円何がしの代金を、結局私は踏み倒したままになってしまいました。

もう何十年も経って時効ではありますが、本当に苦しかったあの頃。
私は今でも、時々あの時の夏に届いた食堂からの一枚の暑中見舞いに一瞬胸がキュンとなりながら、
今日こうして私があるのは、あの時代に触れ合った多くの方々によるものだと心より感謝しつつ、今でもこうして時折振り返ることによって懺悔と感謝をしているのであります。

そして、あの実に美味しく贅沢であった180円焼肉定食の味を、いつまでも忘れることはないのです。






Last updated  2005年08月31日 01時14分12秒
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2005年07月31日
カテゴリ:足跡
強い陽射しのなかで、朝から夕方遅くまで、へとへとになりながらの真夏の山間での飯場生活は、結局3週間位だったか続きました。

休日は1週間に一度あるにはありましたが、ほとんど疲れた身体を休めるだけで、一度だけ列車に乗って小さな隣町まで遊びに行ったことがあるだけでした。

ある日、仲間の一人が親方に殴られていると別の仲間から聞き、我々の部屋に駆けつけると、その一人が部屋の隅に片付けられ積まれた布団を背に、激高状態の親方から、叩かれたり、足蹴にされていました。

他のものと割って入ったのですが、どうやら辞めてここを出たいと親方に言ったことが原因だったようです。
我々の手前もあってか、親方はやっとその行為をやめながらも、周りの我々に「お前達も・・・」と見せしめ的な言葉を吐き捨てました。
余程感にさわったのでしょう。
しかし、少し悪そうな風情の親方達二人ではありましたが、全く悪でもなさそうで、なんとなく憎めないとこもある親方達でした。

私達は、ここがどこなのかもよく分からない場所で、抜けるに抜け出れない軟禁状態のなかで、ある種観念気味に、とにかく最後まで頑張ることにしました。

それからもまた、この親方と弟分の凸凹セットと、手先的使用人である、私達素人若者との変なグループは、時に笑いもあって、なんとなくのコミュニケーションをとりながらも、黙々と8月の暑い田舎での工事作業をこなしました。

けれども、実際に何度考えても、果たしてどれ程の工事といえるものに関っていたのかよくわかりません。
本当にほんの一端の作業を担っていたのかもしれません。
しかし、自動車道の工事の一つと欠けては成り立たない、大事な一端であったには違いないでしょう。
そう考えれば、あの遠い昔の暑い夏の日のバイト生活もまた、私にとっては精一杯の意義があったというものです。

その後、ある日宿舎の食堂で出された魚が腐っていて中毒事件などもあったりして、様々な所から様々な人が集まった、きつくもそれなりに人との交流を束の間楽しみながらも、1カ月弱の期間でここの飯場を私達はお払い箱になりました。

手元の給与明細は、随分とあれこれ差し引かれていました。
当初の思惑よりずっと手取りが少なかった気がします。
「でも、まあいいや」と
現場はまだまだ工事が続いていたようですが、真っ黒に日焼けした私達若者だけで、鈍行列車に乗って7月の終わりに出発した方角へ向かったのです。
開けた車窓に広がる田園と心地よく吹き込む風に、仲間とワイワイ開放感に浸りながら。






Last updated  2005年08月01日 07時31分48秒
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2005年07月27日
カテゴリ:足跡
早くから蝉の声に起こされます。
6時頃には起床。
それから身支度して食堂で順次食事して、8時前には工事現場に出掛けます。
ここの宿所だけでは50人程度だったかそれよりまだ多かったか、今ではあまり記憶に残っていません。
ただ、食事時には食堂が人で溢れていましたから、随分と多かったのかもしれません。

宿舎の8帖程の畳部屋に、個人のわずかな手持品を詰めたバッグを部屋の隅に追いやり、
ここで私達グループの4~5人+親方?達が寝泊りしました。

食を済ませると、我々は変な凸凹コンビのような、親方と弟分に従って、他のグループと混同して14、5人が、幌のないトラックの荷台に飛び乗り、勢いよく走り出した車に、まるで詰まれた野菜か、運ばれる牛か豚のように、ガタガタの田舎道の揺れに身体を右に左に、時には大きな窪みに上下にジャンプしながらも、振り落とされないようにしっかりと荷台の手すりを持っていました。
現場はどこかも私にはわかりません。
連れて行かれるままに、田園を山道を抜けていきました。
蝉の音は益々元気になり、白い雲と青空とが山間から高く広がって、暑い暑い、そして長い1日の始まりでした。

直なところ、どこをどのように、はたして自動車道のどの部分を我々が何の工事に関わったのか。
あの時を振り返っても明確には思い出せません。
ただ暑いなかでの肉体労働だった印象。
当然、全体の工事着手段階ですから、目の前にそれらしき陰形も無いわけですから、分かりようもありません。
造っていくとはそのようなものでしょう。

えているのは、山肌を削って拡幅されいきなり眼前に現れた、少し道路の形を呈している道。
そして、その道に沿った片側の方の土手の斜面を、U字コンクリートブロックを下から上まで何度も運んだりしたこと。
時に斜面を転げ落ちながら。

あれは、道路の側溝からの排水用だったのか・・
とにかく畦道を歩いて、その工事箇所の麓まで行ったところで斜面を駆け上る。そんな記憶があります。
時に畦道を歩いて歩いて見つけた農家で水を分けてもらったり、食べ物をもらったり、またしばし休憩さえてもらったりと、その地の人との交流にしばしの癒しを受けたりもしました。

今思えば、私達が担当した工事現場は、下関市から広島方面へ約20キロに位置する、現在の小月インター付近ではなかったかと・・。


日も外は36度の猛暑です。
この青空の彼方に、あの時の麦わら帽子と軍手と手拭とで汗流している自分自身が見えます。
そして、今もままだまだ、日々頑張っております。<続く>


今日は、夜、居酒屋を店舗展開している友人の自宅庭園?で焼肉大会です。
気の合ったもの同士が集まり楽しくやります。






Last updated  2005年07月27日 23時17分44秒
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2005年07月25日
カテゴリ:足跡
の年の夏
その年といっても、とにかくその年の暑い夏・・
夏は暑いに決まっている・・

大学生の私は、夏休みを目前にして、帰省するに気も向かず、さりとてその旅費さえもなく・・
そんなある日、やはり居残りを決めた友人が、「うまいバイトがあるんだが・・」と、声を掛けてきました。

くところによると、工事現場での仕事で、約1カ月間飯場に詰め込めば、結構よい日当もらえるとのこと。
即、この話に乗った私は、この機に集められた学生を含む若者数人とともに、参加することにしました。

私たちを招集したのは、チンピラとまではいかないまでも、まだ20代か、30代そこそこの様な兄さんと弟分らしき男。

の頃は、仕事に就きたければ、ある集合場所に行けば、その日だけの仕事をもってくる雇い人がいたものです。いわゆる人夫出しのような。
その場にたむろして待っていれば、運よければ日当を稼げるというもの。
何人かの友人はこの経験があったようだけれど、私はありませんでした。
この時は、同じようなもので、芋づる式に我々学生を含む人数が集められたようです。

仕事は急を要しているようで、私は最低限の着替えをバッグに詰め、その日の内に慌しく雇い人である変な兄さん達に連れて行かれました。

く先は中国地方にある工事現場の飯場。
そこは中国自動車道の工事現場だったのですが、その頃は地理も把握できず、いったい自分がどこのどの辺にいるのかさへも、皆目検討がつきませんでした。

たどり着いた現場には、各地から多くの工事関係者がすでに集まっていて、山間部の村は人と、これから成し遂げる工事への活気がみなぎっていました。
そこは、集合の食堂も風呂もあり、幾つかある宿舎の2階1室が、我々の期間中の住まいとしてあてがわれました。

建公団や大手建設の名前が入った車や事務所のプレートを目にするにおいて、この妙な雇用関係は、どこをどのように?
鉄建公団 → ○○建設 → □△建設 → ××工事 → 兄貴??
しかしどこかにはっきりと所属しているでもなく、いったいこの連中の上は誰なんだ?と、少し怪訝に思いながらも、まっ!いいや。
考えてみれば、この現場で我々は一番頼りなさそうなグループにも思えました。

当は、忘れましたが、あの頃では良い方だった印象があります。
しかし、布団代、食事代等々を引かれ、日当でありながらしっかり現場終わるまで、我々の給料は兄貴達に抑えられていました。
それにしても、随分とあれこれ名目つけられピンはねされていたようです。 
一枚上手の、いかにも調子の良さそうな兄貴達に、おそらくは体よく使われたのでしょう。
山間に蝉の声が鳴り響いて、飯場での私の夏休みが始まったのです。
・・<続く>


先日のmini miniマーフィーの法則は、終わっていません。
あっち飛び、こっち飛びしながら、急にマーフィーの続きになったりします。”^_^”
なんせB型人間ですから。






Last updated  2005年07月26日 07時01分39秒
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2005年07月22日
カテゴリ:足跡
「人は、潜在意識に働きかけ、強く思い描く通りに願望は必ず自己実現できる」
というのが、有名なマーフィーの成功法則です。
これは確かなこと。

自己を振り返れば、大学を出て間もない頃、2度目の転職先は、卸売市場での勤めでした。
そこは、鮮魚、青果、そして私が勤務する関連棟からなっていました。

私の会社は、乾物や漬物、玉子等の食料品全般を扱い、スーパーや小売店に卸す会社でした。
結構大きな会社で社員も多かったです。
私は市内のルートセールス。
車は荷台に幌がついた1.5tか2tの小型トラック。

市役所の食堂や市場、喫茶店、食堂、ホテル、デパート、レストラン、料亭等々に、注文の品物を配達したり、その場で注文を受けたり。

市内でのテリトリーを順序良く回っていくのですが、小さな商い先も相当数あり、少し走って荷台から荷を下し、又少し走ってまた下すという作業を繰り返していました。

時には20キロもある漬物樽を肩に抱えて狭い階段を運んだりしましたが、無理な姿勢でするものですから、結構身体も痛みます。若いからできたようなものです。

特に雨降りはいやでしたね。
びしょ濡れになりながらの配達です。
又、この仕事、早出というのがあって、その日には朝5時に出社。
鶏卵の入荷整理作業をしたり、注文を受けた配達の品物(漁連棟や青果棟から調達)を用意したり、店先で朝早くから来たお客の相手をし、品物を駐車場まで台車で運んだり。

しかし、この早朝の出社は少し辛かったです。
5時出社には、自宅を3時過ぎには起きなくてはならないのですから、雪がつもったりする日はもう大変だし、億劫。
若くして結婚し、まだ新婚当時でしたが、女房殿はきちんと先に起きて用意をしてくれていました。

当時、会社からの私の提供車にはエアコンついていませんでした。
ヒーターで、これでは窓がすぐ曇ってしまいます。
寒い中で、曇った運転席の窓を拭き吹きの運転です。
夏?
夏はもちろん窓ガラスを全開して走ります。
もうひとつ。足元のアクセルの横のペダルを足で押せば、足元がハガキ大の大きさで開きます。
これは、結構涼しくて心地良い風が足元から舞い上がり快適でした。
当然、足元は流れる地面が見えます。
そして、水溜りに突入するときには、すばやく足で押して閉めます。
だって、今度は勢いよく水溜りの水が運転席に入ってくるのですから。
何せ、運転席用の扇風機が自動車用品店で売っていた時代です。

午前中の配達用の荷物をしこたま詰め込んで、会社のある卸売市場をでるのが8時頃です。
昼からも同様に配達して、帰ってくるのは6時頃で、それから伝票整理です。
しかも当時は道場に通っていましたから、その帰りに道場に行き練習して、11時頃に自宅に帰ることもありました。
そんな日の早出のときは睡眠が3時間位のときも。

とにかくいやなのは連休前でした。
量も多くまとめての配達です。
31日の大晦日、「紅白歌合戦」は、トラックの運転席から夜空を見上げながら、まだ配達中の2t車のなかで聴いていました。

そして正月休みも2日だけ。

ところで、「マーフィーの法則」と、長々書いている、これって何の関係があるの?

いえいえ、私にとっては、今でこそ忘れかけているこの法則が確かに確信できるのです。
当時もちろん、「マーフィーの法則」など知る由もありませんが・・

では長くなるので、また。(^^)
注意:これは決して終戦直後の話ではありません。”^_^”






Last updated  2005年07月22日 20時27分18秒
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