読。書。考。─トントロ日記

2004/12/09(木)11:08

読書記録─上原隆「友がみな 我よりえらく 見える日は」ほか

読書記録─小説・ノンフィクション(7)

僕は「暗い人」が割りと好きだ。 明るくて、社交的で、人当たりがよくて、流行には敏感で、酒もカラオケも無難にこなし、人の悩みには同情的に相槌を打ち、時には自分の欠点も垣間見せてみたりして・・・ 嫌いだ、こんなやつ。 どうしても他人の欠点が見えてしまう、人ごみが嫌いだ、単独行動を好む、流行どおりに振舞うやつは光よりも早く軽蔑する。 いいっすね。友達にはならないけど。 もうね、本当にテレビ捨てようかと思ってるんですよ。テレビに出てくる「明るい人々」にはうんざりだ。 あ、お笑いは好きですよ。暗いから。 明るい人々・・・例えばグルメ番組。口にモノを含んだまま「オイヒイ~」の人。また例えばどこかアミューズメント的な施設を訪ねて「わああ!」だの「きゃああ!」だの言ってる人。 まるで子供が無意識に親の望むように振舞うのと似て、服、立ち居振る舞い、髪型、化粧、そして表情に到るまですべて「社交的」だ。「ニュースキャスター」ってのはその典型ですね。 本書には、暗い人がいっぱい出てくる。 失明した旧友との再会。「しきりに昔のことを思い出す」という友との会話。 ホームレスになった第66回芥川賞作家。 仕事一筋に生きてきたが半年間一件の仕事もない53歳。忙しかったときの記憶だけが頼りの彼女は独りしかいない部屋の出入のとき「おはよう」「さよなら、また明日ね」の挨拶を欠かさない。 カップ麺と「ほか弁」だけは娘には食べさせない、と誓った父子家庭の父。 女癖の悪い男と盗み癖のある男との間に一人ずつ子を設け、現在はタクシー運転手として働く母子家庭の母。 ほかにも、離婚、リストラ、精神病・・・暗い人はなんとか生きているみたいだ。 作者は、登場人物を論評しない。困難に直面してあえいだり、開き直ったりしてる彼ら彼女らをただじっと見るだけだ。 僕らも自分と他人の人生に対して、ただじっと見る、それ以外の態度は本当は取りようがないんじゃないか。 勝ち組み、負け組み、負け犬、本当の豊かさ、自己実現、私らしさ・・・全部間違い、というか、もうそんなのどうでもいいんだ、ほんとは。 ただ生きてゆくこと。それだけだ。最期の一息を吐ききるまで生きる。 それ自体に価値がある、とは言わない。全く無意味な可能性もあるだろう。 「その男、ゾルバ」の中に、印象的な問答がある。 ゾルバがある町で一人の爺さんに会う。その爺さんはどう考えてももう直ぐお迎えがくるって年齢なのに、収穫まで時間のかかる「ココヤシ」の苗を植えている。ゾルバは、 「なあ爺さん。なんだってそんなもの植えるんだい。こう言っちゃあ悪いがあんた、実がなるころにはもうとっくに死んじまってるに違いないぜ」 爺さんは手を休めずに 「何でそんなことが分かるね?わしがいつ死ぬかなんて、そりゃ神様が決めることじゃろ。」 ゾルバ 「ああ、その通り!いつ死ぬかなんてほんとはわかりゃしねえ。だから俺は今日も酒だ!歌と踊りだ!そして美しい女たち!明日死んでも良いように今日もぶっ倒れるまで遊ぶのさ。」 爺さんのほうは、「死ぬまで生きる」という人生で、ゾルバのほうは、いわば「毎日死ぬ」人生です。 どっちも「アリ」で、どっちも「ナシ」。ただ、人生について極めて自覚的だという点に、尊敬の念を抱くだけですね。 その反対が自分の頭で考えない人。あとになって「騙された」とか言って保護を求めようとする人たち。新興宗教の「被害者」に多いような気がしますが、ぼくは彼らに全く同情しない。流行に左右される人もそうです。 自分で考えることを怠った、その当然の報いでしょう。 簡単じゃないとは思うけど。 友がみな我よりえらく見える日は( 著者: 上原隆 | 出版社: 幻冬舎 )

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