読。書。考。─トントロ日記

2005/09/29(木)05:49

「私」が生きる人生。─『友がみな 我より えらく 見える日は』(上原隆:幻冬社アウトロー文庫)

読書記録─小説・ノンフィクション(7)

以前の読書記録に書いた、『友がみな 我より えらく 見える日は』(上原隆:幻冬社アウトロー文庫)から、「うつ病」という章をとりあげます。 登場するのは28歳・男・元看護学校の学生。1989年当時の話ですから現在とは事情が異なるところもあるかもしれませんが、150人の学生のうち男は彼一人だった、というところから彼の苦しみがはじまります。 同級生から変人扱いされていた彼は、「挨拶を返してもらえない」「廊下ですれ違うときよけられた」「実習では一人だけ人形を相手にしなければならなかった」などの特別扱いを受けています。 しかし当初はまったく意に介してない風で、高校以来の「人の体を癒す仕事につく」という夢のために通学を続けます。 ある日の実習で、彼は「動悸がして、胸が痛く、息苦しい」という症状を自覚します。ついに学校を休み、家に閉じこもる生活を送るようになりました。 先生に相談すると、精神科に行くことを勧められます。精神科医は「うつ状態ってかいとくで」といって診断書を作成し、もって休学することになりました。 自宅で療養することを余儀なくされていたある日、高校の同級生が訪ねてきてくれました。話を聞いてもらっているうちに、彼は彼を追い詰めていた原因が「性差」にあると結論付けます。級友が異性であること、彼女らとうまくコミュニケーションが取れないことが抑圧になっていたのだろうと。 うつ状態は3月に終わり、なんとか登校できるようになった彼は、留年を決意します。幸いひとつ下の学年は明るく暖かい雰囲気のクラスを作っていたようで、彼も卒業できる、という期待を持ちます。にもかかわらずやはり去年と同じ症状が出ました。 『一回目のときはね、環境がたまたま悪くて、うつ状態になったっていう自分の了解があったんだけど、二度目のときは、環境もよく、うまいこといってるのになったということは、これはもう、自分の持ってる性質に問題はあるのんやっていうふうに根拠付けないとね。それしか考えられない。』 退学した彼は、現在精神薄弱者の施設で指導員をしています。 と、これが概略なんですけどね。 ここだけ見れば、なんというか、「よくある話」なんですよ。この作家の書くものはすべて「よくある話」なんですが。 でも「よくある話」だからこそ読者は自分の事柄を投影してしまう。 珠玉の言葉。 看護士になることに挫折した彼は、『看護士にはなれなかったけど、自分がいることで、人を癒せるような人間でありたいっていう思いはずーっと持ってるし、なんらかの形で持続していると思っています』と、現在の自分について語る。 作者はそんな彼を、『生きる姿勢においては挫折していない』と表現しています。 裏を返せば、目標においては挫折した、ということを承認した上での評価です。とても厳しい。厳しいが、その厳しさは作者の視線の厳しさではなくて、「生きる」という大仕事自体に内在する厳しさ、と言えるかもしれません。 彼は弱音をはかない人なんですね。自分の苦境を人のせいにしない。責任を転嫁しない。 そのぶん、もしかしたら人生の厳しさをまともに、真正面から受けてしまう人でもあるのかもしれません。 『納得の仕方はね、僕の中では、病気に勝てない。自分のやりたいことやって病気になるんやから、病気には勝てないなんです。』  『(また新しいことを始めようとするときに挫折するんじゃないかと)思いますね。そやから、自分に過剰な期待は抱かないようにしてます。』 彼は、厳しさから逃げ出すすべを知らなかった。その代わりに得たのが、上の言葉にもある、一種の「諦観」なんでしょう。 僕はどうしても比較してしまう。彼と、「ある種の人々」とを。勝手に自らを弱者と規定し、もって被害者意識に束縛され、その反面に規定される強者ないし加害者に対する攻撃をもっぱらとする人々。勝手に作り上げた弱者像にかわいそうな自分をあてはめ、存在するかどうかもわからない強い敵に立ち向かうことでカタルシスを得てはいるが、彼ら彼女らの言う弱者強者はもとより実証不可能なゴーストであるから、彼らの闘争もおのずと空理空論のシャドウボクシングにならざるを得ないだろう。当然敵」からの手ごたえは無く、また人生を真摯に生きる人からはただ白眼視されるのみで親身な批判も忠告も得られず、とどのつまりぶつかる壁を失った彼らは無限に自我を拡大することを止められなくなるはずだ。「私」のことばが即ち「市民全体」の言葉となってしまうように。「市民」のかわりに「女性」や「地球環境」を代入してもよい。全く心に響かない、没個性のアジテーション。 「私」は私であって、どのようにも一般化されないはずだ。私を構成する要素は無限に細分化されるはずで、その些細な要素のどれを取り除いても精確な「私」ではなくなるはずだ。社会学や心理学で行われる一般化は、共通する要素にだけ着目したもの、逆に言えば共通しない要素は常に捨象されるのであって、集団を総括することはできても、その総括は集団を構成する「私」には決して還元されないという一方通行の論路だ。 主人公の言葉。 『ぼくが看護から挫折したこと、これを切り捨てるのではなく、ぼくの大切な経験として、ぼくの底流としてこだわり続けたい。この経験が無かったらぼくがぼくでなくなるからだ。』 「よくある話」なのに心打たれるのは、彼の「私」が見えるからでしょう。これはうつ病患者の体験談ではなく、ジェンダーマイノリティーの嘆きでもなく、弱者の訴えでもなく、どんなカテゴリにも属さない「彼」という「私」の人生だからです。 そうとすればこれは「よくある話」などではなく、この世で二つとない人生の話、というべきでした。

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