読書記録─長谷川三千子『民主主義とは何なのか』(文春新書)
長谷川三千子氏をこのブログで取り上げるのは2回目になります。『知性の喪失』を読んで衝撃を受けました。ずーっと長い間、なんとなく「正しい」と思っていたこと─つまり人権・敗戦国の責任・いわゆる戦犯に対する非難・民主主義・平等主義─が、実はろくに批判と反証のテストを受けていない、言ってみれば「頭ごなしの決め付け」にすぎないことを知りました。しかしなぜ「価値相対主義」というやつは、こうも人の心を惹きつけてしまうんでしょう。大学で法律学を学ぶと、専門課程でなくとも、日本国憲法について講義を受けるでしょう。そこで語られる日本国憲法のレゾンデートルは一言で言って「大日本帝国憲法(法学部では『明治憲法』と称するのが圧倒的多数だが)の否定」であります。日本国憲法の3原則、ご存知ですか?なんか公務員試験みたいですが。はい、1.基本的人権の尊重 2.平和主義(戦争放棄) 3.国際協調主義 ですね。これらすべてが明治憲法下での反省に立っているという1点のみをもって説明され、正当化されます。著者の批判点に関するのは「基本的人権の尊重」ですね。人は人としてそこにあるだけで最大の尊重を受ける。まずは人の生命と肉体が尊重される。しかし人は動物ではないんだからその「精神」のありようまで全面的に尊重される。つまりどんな考えであっても否定されることはありえないし、またどんな思想を押し付けられることもない。あってはならない。これが価値相対主義であって、基本的人権の尊重=大日本帝国憲法下での反省からストレートに導かれるものとされるわけです。しかしもし、大日本帝国憲法下の価値観が間違っていなかったとしたら?あるいは反省すべきところがあるとしても各論では保守すべき点があったとしたら?このような反問を、僕の乏しい学習体験では聞いたことがありません。あるとしたら次のような簡単な対話ですかね。「なぜ反省しなきゃならないの?」「だってあの明治憲法のせいで日本は戦争をして、世間様にご迷惑をかけたじゃないか」そう、敗戦体験と言うやつですな。でも一般人はそれでいいと思う。むしろ年配の方に朝日新聞の熱心な読者が多いってことあるでしょう。それを責めることはできないな。負けたショックもあり、贖罪意識もあり、もしかしたら国に対する恨みもあり。実際の戦争世代と、その直後の世代くらいまでのサヨクを、僕はあまり責める気になれません。田原総一郎とかね。著者の批判の矛先も、もっぱら知識人に向けられています。たった1回の敗戦体験とやらで、考えるのが商売のはずの知識人連中は、真の正義とは何かについて真摯に考察することを忘れ、一方的に新しい秩序を受け入れ、あらゆる価値観を相対化することに血道をあげた、と。僕なりの表現ですけど。ここまでは割りと普通なんですね。そう、「戦後民主主義批判」というやつです。しかし本書では「戦後」に限定せず、民主主義そのものに対する批判と懐疑を展開しており、勉強になります。まずは哲学者らしく字義解釈から民主主義の実態を考察します。すなわち「デモクラシー」とは「民衆=デーモス」が「力=クラトス」で支配体制を獲得する、というのが本義である、と。そして古代ギリシャの政治を引用します。民衆によって次々に僭主が祭り上げられ、やがて同じ民衆から縊り殺されるという凄惨な血の歴史。この原因が民主主義にこそあると喝破し、民主主義を「不和と敵対のイデオロギー」と呼びます。しかもそれは古代の未熟な人々にのみ存在する病理などでは決してない、と説きます。「(現代にも)薄められたかたちで、この『不和と敵対のイデオロギー』は民主主義の社会を支配し続けている。(中小国での絶え間ない闘争的な政権交代、フェミニズムなどの反体制運動など、かたちはさまざまであるが)そこには同じ『不和と敵対のイデオロギー』─ひとつの共同体の内側に、常に上下の対立を見出し、上に立つものは倒さねばならないとするイデオロギー─が存在し続けているのである。圧巻は「結語」という章にあります。「理性の復権」と題されていることからもわかるように、著者の一貫した知識人批判の視点で書かれた章です。もうね、なんといったらいいのか、この章はまるで「詩」ですよ。一言一句、まったく油断がない。隙がない。章立てとしてはもっともページ数が少ないのですが、僕は読むのに一番時間がかかりました。宝石のような言葉の数々。別にサヨクでもウヨクでも保守でも憂国でも、そんな「形式」は我々「1階の住人」にとっては本当にどうでもいいことなんだ。しっかり考えること。流されないこと。自律すること。最後に「結語」からの宝石のおすそわけ。でもぜひ実際に手にとって読んでいただきたい。・実はまさに、「思考停止」ということこそ、民主主義が自らの最上の武器、最上の従者として従えてきたものなのである。・実は、理性とは大声で語ることに内にあるのではない。本当の理性は「よく聞く」ことの内にある。・虚心坦懐に事柄そのものの語る声聞くことができるとき、正しい判断は、いわば事柄のほうからやってくる。・反対者を説得するためにのみ、自らの理性を使い、言葉を使う。それが「議論」というものなのだ、と民主主義者は思っている。けれども、このような「討論と説得」などというものは、議論のもっとも堕落した形のひとつにすぎないのである。・もしわれわれが本当に理性というものを取り戻すことができたなら、われわれは新しい目を持って、自分たち人間の手にしているさまざまのものを再評価し、しずかな感謝をささげることができるであろう。・実際、理性の本質である知的謙虚というものを身につけてみれば、われわれが自己自身の手柄と思い込んでいるものが、いかに多く、先人から伝えられた文化、伝統、歴史の支えによるものであるかが見えてくるのである。・フェミニストたちは、どんな哺乳動物にも何らかの形で見られる雌雄の分業が人間においても存在しているのをみて、それを「不平等」であると糾弾し、攻撃している。そういったことすべてを、「理性」の目は、ただ端的な錯誤と見抜くことができる。そして、人間が「家族」というこの寛容なシステムを存続させてきたこと自体を、ひとつの恵みとして認識することができるのである。どうですか?僕にはこの哲学者の考察を聞かせてあげたい人がたくさんいます。右にも左にも。2階にも1階にも。