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2016/04/10
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■■ Japan On the Globe(946) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

国史百景(19): ウズベキスタンの桜

 ソ連に抑留されてウズベキスタンで強制労働に従事して亡くなった日本将兵の墓を、地元の人々は大切に護ってきた。

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■■■ 講演会のお知らせ ■■■
「樋口季一郎とユダヤとドイツ 真の日独友好」
 樋口隆一・明治学院大学名誉教授

2016年5月14日16:00-18:00
ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
〒606-8305京都市左京区吉田河原町19-3
参加料 無料 定員 80名
Email:proflecture2016@gmail.com あて、お名前、ご所属、連絡先をお知らせ下さい。

参考 JOG(085) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上)
 人種平等を国是とする日本は、ナチスのユダヤ人迫害政策に同調しなかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog085.html
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■1.ウズベキスタンの桜

 中央アジアの内陸部にあるウズベキスタンの首都・タシケントに、1500人の観客を収容する壮麗なレンガ作りのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場がある。1966(昭和41)年4月、震度8の大地震が市を襲い、市内の建物の2/3が倒壊した中でも、この劇場はびくともせず、市民の避難所となった。

 劇場の外壁にはプレートがはめ込まれ、ロシア語、日本語、英語、ウズベク語でこう記されている。

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 1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。[1]
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 劇場周辺の庭には染井吉野や枝垂れ桜、八重桜など30本の桜が植えられ、春には美しい花を咲かせる。

 ナヴォイ劇場だけでなく、タシケント市の中央公園にも600本の桜が植えられ、「さくら公園」と呼ばれている。さらに、そこに通じる大通りに250本、大統領官邸にも100本の桜が植えられている。

 すべて日本から苗木を空輸し、日本人の造園の専門家がついて、ウズベキスタンの人々が植樹したものだ。今回は、ウズベキスタンに、なぜこれほどの桜が植えられたかを辿ってみよう。


■2.「なんとか、日本人のお墓を整備してもらえないだろうか」
 事の発端は、2000(平成12)年10月19日夕刻、ナヴォイ劇場とその前庭広場で「日本の祭り」が開かれた時だった。当時の在ウズベキスタン大使・中山恭子氏が同国の伝統音楽や、宮崎からやってきた親善訪問団による「木剣踊り」などを見ていると、訪問団の二人が大使に相談したいことがあると言ってきた。

 その一人、池田明義さんは戦後、シベリアに抑留され、ウズベキスタンのベカバードという場所で強制労働に就いていた。そこには一緒に働いていた仲間のお墓があるはずなので、ぜひ墓参りがしたい、という。

 中山大使は急遽、タクシーや通訳の手配をして案内させた。翌日の夕方、池田さんは戻ってきて、大使に報告した。「自分達が作った水力発電所は今も立派に動いている。でも、お墓に行ったらとても悲しかった。ベカバードの日本人墓地は、荒れ果てたままになっている」と唇を噛み締めていた。

 そして「なんとか、日本人のお墓を整備してもらえないだろうか」と言い残して、日本に帰っていった。

 その後、すぐに中山大使はベカバード市を訪れた。市長のジャロリジン・ナスレジノフさんが、まず水力発電所に案内してくれた。シルダリアという大河から水を引いて大きな貯水湖を作り、そこから6~7本の太いパイプで水を落として発電する、という巨大な発電所である。水力発電所は赤レンガ作りの立派なものであり、貯水池も向こう岸が霞むほどの大きなものだった。

 ベカバード市長は、案内しながら、こう話してくれた。

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 ベカバードはこの発電所が建てられた当時砂漠でしたが、この発電所や運河のおかげで今は緑豊かな大勢の人が住む町になりました。

ここで風速五十メートルを超える突風が吹いた時にも、周辺の建物は全て壊れてしまいましたが、この水力発電所だけはビクともせずに動いていました。五十五年間、毎日、一日も休まずウズベキスタンに電力を供給してくれています。[1,p207]
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■3.「何という風景でしょう」

 それからベカバード市の共同墓地にある日本人墓地に向かった。ウズベク人、トルコ人、ロシア人などのそれぞれのお国ぶりの墓地の中心部辺りに、大きな野原があった。案内してくれた人が「ここが日本人のお墓です」という。

 何もない枯れ野原で、目についたのは小さな垣根だけだった。その中に入り、足元を見ると、ちょうど人が横たわっているような盛り土が、幾筋もはるか遠くまで並んでいた。

 墓標もない。ただ頭のあたりに、はがき大の小さな鉄板が刺してあり、記号と6桁の数字が彫ってあった。捕虜の番号だろう。
大使は立ちすくんだ。
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何という風景でしょう。一体どうしたらいいのだろう。
しばらくの間、その場に立ち尽くしてしまいました。
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■4.「あそこに眠っているのは、自分の大切な友達なんだ」

 墓地を訪れた後、市長は中山大使を、日本人のことをよく覚えているという90歳の老人の家に連れていってくれた。子や孫、曾孫に囲まれた賑やかな一家だった。

 老人は「お墓をお参りしてくれたのか。あそこに眠っているのは、自分の大切な友達なんだ。どうも有難う。お参りしてくれて有難う」とお礼を言った。

 大使が「日本人のことを覚えていらっしゃいますか」と聞くと、こう答えた。

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 それはもう、よく覚えているよ。自分は若い頃タシケントに住んでいたが、ベカバードに水力発電所を造ることになり、ここで働くようにと言われてやってきた。
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 日本人抑留者が3千人ほどやってきて、すぐに仕事を始めた。

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 日本人っていうのはとってもいい人達だった。几帳面で、自分の仕事をとても大切にするんだ。時間がきても仕事が終わらなければまだ続けている。

うまくいかない時にもいろいろ工夫してやり遂げる。また、誰かが病気になるとみんなで助け合っていた。日本人が作るものは全ていいものだった。本当にすごい人達だった。とても大切な友達だったんだ。
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 こういう話を老人からいつも聞かされて、家族も町の人々も皆、日本人のお墓は大切にしなければいけないと思ってきたという。整備するだけの余裕はなかったけれど、草を刈ったり掃除をしたりして日本人墓地を大切に保存してくれていた。

 同様に、ウズベキスタン全体では、大戦後、2万5千人の日本人抑留者が強制労働に従事して、道路や運河、発電所、市庁舎、学校などを作った。ナヴォイ劇場はその一つである。どの地方でも、日本人が勤勉に働いていた様が語り継がれていた。

下に続く





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Last updated  2016/04/11 04:05:15 AM
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