クリアーの鳥

2004/12/26(日)21:44

生きることの経済価値

個人と経済。  それはもはや国民と国民経済ではない。  労働市場も製品市場も観光・サービスでさえ、国際経済の基準の中に、置かれている、置かれようとしつつある。  たとえば仕事への要求は、水準を上げているはずだ。ただ、それがほんとうに必要な意味での水準かは知らないが。  共同体のつなぎとしての職場、あるいはモラル、それらの中で、最も大事な必要条件みたいなものの優先順位は変わっていくか? という以前に、日本社会のいろんなぼろがでてたりして、なんやら混乱が見えるような。   労働観  仕事の質は高く求められる・・はずなのだが、じっさいは迷惑をかけちゃいけない、というほど、立派か問題のない仕事だけをしている職場も多くはないかもね。  なにしろ、問題の種はいくらでも出てきそうだ。対応力がなければ、積み重なって行くだけ。  迷惑をかけられてフォローできないって職場は、別の所でやっぱり別の原因で問題を起こしたりしている・・・ことはけっこうあるのではないかと思う。  思うのだけど、経済が発展するということは、仕事が高度になっていくことだ、という一面が考えられる一方で、仕事とは互いに自分を押し付け合う事だ、という一面も考えられる。  それが発展だから。 そうでなきゃ、発展できそうにない・・・のかも。  江戸時代、平賀源内が始めにCMソングをつくったという話があり、前野良沢は「それは卑怯な商いである」と批判したそうだ。まじめに考えるとそういう感覚はけっこうあると思う。  そんなふうに、その仕事が存在すること自体モラルに合うかどうかが変わりうる。  仕事に対する心の乗せ方も、発展のし方・程度によって変わるかもしれない。 価値の突破  まあ、バブル以降の成熟市場状態の中で、  労働市場についても、足の引っ張り合い的に見えたりする。オールドエコノミー対ニューエコノミーというのは、まるで混合経済が終わって、「純粋の資本主義」が始まると言ってるように読めそうだ。  「資本論」の世界はこれから始まるのでは?と思ったりする。  それでも、ある程度の競り合いは、それが枠を変化させていく期待をもって見ることはできる。  競り合いの中で、気持ちを小さくして行くとそれはできないが。  何にしろ、真の価値をつくり育てる行為でなければ、何をやってもやらなくても他人の足を引っ張る気がしてしまうのは自然だ。そう感じることにこだわって、ふつうの安定勤め人稼業ができなくなる種類のニート人は、一面日本人が良心的に発展した結果というか・・。    で、価値に磨けるものは、目の前にあるか、他人の前にあるか。  しかしまた、個人の自身が生きるということだけでも、それが価値なんだろうと思ったりもする。他の価値は、それを元に周りを回っていると思って生きている人がほとんどでは。  経済の源泉が今や、個人という物語の価値、のために動いているのなら、仕事や生活という部分部分がごまかしであっても、その物語をつくることが大きな価値の製造かもしれない。 物語の時間  物語とは、それまでにないことが展開して世界が変化して行くこと、だと思う。だから人はそこに、今と過ぎ行く時間とを同時に見る。  そういう物語というものが世に求められる価値の中心だとしたら、自分が発見して行くために世界はある、ということで、――発見したものが新しく世界になるわけで――まあ、その時点時点以前のあり方などは、過ぎたことなので捨てていいのかもしれない。  すると、思いはどんどん透明になっていくかも。  ・・・・・アクエリアス時代なんて、矛盾があると思うのだけど、こう考えると・・符合するかも。  (子孫に関わることは省いているので、なんか大きく欠落してそう)   比喩としか読めんよな(笑)

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