●「海の国」●●「海の国」●前回の「海の国」から続きますが、国家という概念です。瀬戸内海は、一つの 文化圏です。いわゆる船で往き来できる大きなクニです。 平安末期の平家の福原を中心とした海商国家、大輸田泊は現在の神戸港の一部 です。中世以降、兵庫島とよばれて、現在の兵庫県の名前の由来です。また同 じ頃、奥州平泉を中心とした満州沿州地方を東アジア貿易圏も考えられます。 現在のNHKテレビは元寇文永・弘安の役。を扱っていますが、「元寇」も実 は2回だけではなく、何度も計画されています。むろん、元から日本侵略の 計画があったわけです。逆に日本から高麗への侵攻計画もありました。この 時期、鎌倉の御家人が地頭として、日本全国へ敬っていったわけです。 時代が下がって「豊臣秀吉」時代の九州・畿内にはキリスト教徒が30万人いた と言われています。当時のヨーロッパのスウェーデンの全人口が100万人程度で あったことを考えると、日本に住むキリスト教徒で一つの国を作りあげるこ とは可能だったでしょう。さらにはこの時期、イエズス会は日本占領計画を 立てていました。イエズス会の公式記録にもその記述はあるとされています。 同じ時期、九州の松浦家を中心に倭寇国家あるいは海賊国家といえるので しょうか。長崎県の平戸は中世・松浦党の基地で遣唐使・南蛮貿易でも栄える。 九州・朝鮮・中国の海岸を中心に、一つの「クニ」を作っていました。 江戸時代初期、近松門左衛門の国姓爺合戦「鄭芝竜が、日本人妻の子 鄭成功を伴い、明を再興する話」で描かれている「鄭成功」の帝国と比較し てみましょう。この時期、中国アモイを中心に5,000艘の艦隊が支配下にあっ たと言われています。 岩波新書382「華僑」より 瀬戸内海が思ったより、昔から発展していて、沿岸の物量が盛んであっ たことは「兵庫北関入船通帳」で有名になったわけです。これは、林屋先生 が京都の古本屋で発見したもので当時の関税をとっていた東大寺の資料です。 ちなみに、瀬戸内海とは明治以降の言葉で、それまでは「瀬戸」あるいは 「うちうみ」「うちのうみ」という表現です。 中公新書1466「瀬戸内海の発見」より |