歴史の回想のブログ川村一彦

2023/09/09(土)06:46

「高杉晋作と功山寺挙兵」 薩土密約と薩土盟約

高杉晋作(49)

薩土密約と薩土盟約 |  四侯会議 |  慶応3年(1867年)3月上旬、村田新八・中岡慎太郎らを先発させ、大村藩・平戸藩などを遊説させた。3月25日、西郷は久光を奉じ、薩摩の精鋭700名(城下1番小隊から6番小隊)を率いて上京した。5月に京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次いで開催された四侯会議の下準備をした。 |  薩土密約 |  5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、京都の小松帯刀邸にて、土佐藩の乾退助、谷干城らと、薩摩藩の西郷、吉井幸輔らが武力討幕を議して、薩土討幕の密約(薩土密約)を結ぶ(この密約は、戊辰戦争の際に乾が迅衝隊を率いて出征し達成されることとなる)。6月15日、西郷は山縣有朋を訪問し、武力討幕の決意を告げた。 |  16日、西郷と小松帯刀・大久保利通・伊地知正治・山縣有朋・品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。 |  その後、乾退助が独断で江戸築地の土佐藩邸に匿っていた水戸浪士を薩摩藩邸に移すことを密約し、伊牟田尚平・益満休之助・相楽総三らが江戸市内での幕府挑発活動の一翼をになうこととなった(これが江戸薩摩藩邸の焼討事件につながる)。 |  薩土盟約 |  土佐藩・乾退助らと薩土討幕の密約を締結した一ヶ月後の6月22日、今度は坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟らが西郷と会し、武力討幕によらない大政奉還のための薩土盟約を締結。薩摩藩と土佐藩は、西郷を通じて性格の相反する軍事同盟を結ぶこととなる。 |  薩摩が二重契約を結んだことは、薩摩にとってはどちらの局面になっても対応できることになるという解釈も成り立つが、その後の時局の推移を考えると、薩土討幕の密約が本筋であって、大政奉還のための薩土盟約はその時局を有利に進める為の策略として締結されたものと解釈可能である。 |  大政奉還と王政復古 |  9月7日、久光の三男・島津珍彦(うずひこ)が兵約1,000名を率いて大坂に着いた。9月9日、後藤が来訪して坂本龍馬案にもとづく大政奉還建白書を提出するので、挙兵を延期するように求めたが、西郷は拒否した(後日了承した)。 |  土佐藩(前藩主・山内容堂)から提出された建白書を見た将軍・徳川慶喜は、10月14日に大政奉還の上奏を朝廷に提出させた。 |  ところが、同じ14日に、討幕と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していた(この請書には西郷吉之助武雄と署名している)。15日、朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出された。 |  密勅を持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、11月13日、藩主・島津茂久を奉じ、兵約3,000名を率いて鹿児島を発した。 |  途中で長州と出兵時期を調整し、三田尻を発して、20日に大坂、23日に京都に着いた。 |  長州兵約700名も29日に摂津打出浜に上陸して、西宮に進出した。またこの頃、芸州藩も出兵を決めた。諸藩と出兵交渉をしながら、西郷は、11月下旬頃から有志に王政復古の大号令発布のための工作を始めさせた。12月9日、薩摩・芸州・尾張・越前に宮中警護のための出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら4藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。

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