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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年09月24日
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カテゴリ:時代の事変・変貌



 
また、仕置によりそれまで南部氏内部で南部信直とほぼ対等な立場にあった九戸政実が、信直の家来として扱われたことに不満を抱いて信直と武力衝突を起こした(九戸政実の乱)。豊臣政権はこうした一揆・紛争を鎮圧するため、翌天正19年(1591年)に大規模な軍勢を派遣せざるを得なくなったのである。


   和賀・稗貫一揆(わが・ひえぬきいっき)は、天正18年(1590年)、奥州仕置に反発した陸奥国の国人領主が仕置軍(豊臣政権)に対して起こした反乱のことである。
慶長の和賀氏の一揆については「岩崎一揆」を参照のこと。


   豊臣秀吉は天正18年、小田原征伐の軍を起こした。関東、奥羽の領主、大名たちは続々と小田原に参陣し秀吉軍に加わったが、小田原に参陣しなかった結城義親、石川昭光、江刺重恒、葛西晴信、大崎義隆、和賀義忠、稗貫広忠(家法・重綱)らは、その後の奥州仕置によって所領没収、城地追放の処分となった。


   稗貫氏が城地を追放された後の鳥谷ヶ崎城(後の花巻城)には、秀吉の奉行である浅野長政が入城して諸将に号令し、奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃して和賀氏ら在地領主の諸城を制圧した。


   浅野長政の家臣が代官として進駐し新体制への移行が進められ、検地などを行ったあと、郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げた。


   一揆の発生


   検地に対して不満を抱いた大崎氏、葛西氏、胆沢郡の柏山氏ら没落大名の旧臣、農民らが、奥州仕置軍が帰るや10月に一揆を結んで各地で蜂起し、木村吉清ら秀吉の派遣武将を討ち、勢いを振るった。


   この時、和賀郡や稗貫郡でもこの騒動(葛西大崎一揆)に協調して和賀義忠、稗貫広忠らが蜂起した。


   一揆勢は、10月23日(または10月28日)和賀氏の元居城であった二子城(現在の岩手県北上市二子町)の浅野長政代官・後藤半七を急襲して攻略し、和賀氏の旧領を奪回した。


   その勢いで鳥谷ヶ崎城を2千余名が包囲した。一揆勢2千は少し前まで現役の士卒で土民の一揆よりはるかに戦慣れしており、それに対し鳥谷ヶ崎城代官・浅野重吉の城兵はわずか100騎と足軽150人ほどしかいなかったが、城が天然の要害の地にありなかなか落城しなかった。


   秀吉から北奥に領地を安堵されていた南部信直は不来方城(後の盛岡城)に軍勢を集結させて、自らが500騎ほど引き連れて鳥谷ヶ崎城へ救援に駆け付け11月7日城を包囲している一揆勢に攻撃をしかけ囲みを解いた。


    南部軍は鳥谷ヶ崎に一旦入城したが積雪期が近づき、冬に城を護り通すのは困難であると判断、城を捨てて浅野重吉らを連れ南部氏居城の三戸城に撤退した。 結果、鳥谷ヶ崎城含め稗貫氏の旧領も一揆勢の手に渡った。


   こうして豊臣政権が奥羽に派遣した郡代、代官は悉く、旧領主の軍勢によって駆逐された。


   再仕置軍の侵攻


   これら大規模な一揆と翌天正19年(1591年)南部領内で火を噴いた九戸政実の乱の鎮圧のため、秀吉は天正19年6月20日号令をかけて奥州再仕置軍を編成した。


   白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に徳川家康が加わり、仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家、前田利長が、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示している。奥州再仕置軍は奥羽に侵攻し、蒲生氏郷や浅野長政と合流して一揆を平定しながら北進した。
和賀氏らも頑強に抵抗したものの、再仕置軍に鎮圧された。和賀義忠は逃走の途中で土民に殺害されたという。


    その後この領地は南部信直に与えられ、和賀氏、稗貫氏は没落していった。 これを恨んだ和賀忠親(和賀義忠の子)は、のちに再び一揆を起こすこととなる(岩崎一揆)。


   南部信直は重臣の北秀愛を和賀稗貫8千石の城代とし、北秀愛は鳥谷ヶ崎城を花巻城と改名している。


 


   仙北一揆(せんぼくいっき)は、天正18年(1590年)9月下旬ころ出羽国北部(いまの秋田県地方)の横手盆地(仙北三郡)で発生した、豊臣政権に対する検地反対一揆である。


   天正18年(1590年)、豊臣秀吉は奥羽地方の諸豪族に対し小田原征伐への参陣を命令した。


   出羽国北部では、仙北三郡北部(北浦郡)の角館城城主戸沢盛安がこれにいち早く呼応し、仙北三郡南部(上浦郡)の小野寺義道とその一族西馬音内茂道、中央東部(中郡)の本堂城の城主本堂忠親、沿岸部の秋田氏や由利衆なども参陣したが、秀吉はかれらに朱印状をあたえて所領を安堵した。


   秀吉は新しく服属することとなった地域に対しては、大名・小名の旧領をそのまま安堵するのではなく、原則的には、いったん太閤蔵入地としたうえで改めて恩給するようなかたちを採用したが、このような政策を実施していくためにはまず検地をおこなう必要があった(太閤検地)。


   後北条氏を降して関東地方を平定したのち、陸奥国会津黒川城(後の会津若松城)に入った秀吉は、天正18年8月10日、奥羽全域の総検地を命令した。8月12日、秀吉は黒川において検地施行に関する4か条の朱印状を発給しており、それによれば「一人も残し置かず、なでぎりに申し付くべく候」「一郷も二郷も、悉くなでぎり仕るべく候」など検地に対する反対には苛烈な処分を認める強硬な姿勢を示した。


   ただ実際には、それに先だつ7月11日の時点で、越後国の大名上杉景勝に対しては、秀吉家臣大谷吉継を軍監として庄内・最上・由利・仙北の出羽各地の検地を、また、加賀国の前田利家らに対しては秋田・津軽・南部の北奥羽各地の検地を、それぞれ命じていた。


   仙北地方の検地は『上杉景勝年譜』によれば、8月中旬以降には着手されており、戸沢光盛宛の木村重茲・大谷吉継・前田利家連署状によれば、この3名は8月17日ころには小野寺氏領周辺、上浦郡方面にいたものと考えられる。






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最終更新日  2023年09月24日 07時09分33秒
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