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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年10月28日
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カテゴリ:安土桃山時代





尻垂坂の戦い(しりたれざかのたたかい)は、元亀3年(1572)9月初旬に越中国尻垂坂(現 富山県富山市西新庄)において、上杉謙信軍が加賀一向一揆越中一向一揆連合を破った戦い。富山城の戦いと言われることもある。


   加賀越中など北陸の一向一揆は、織田信長と戦った石山本願寺一向一揆と同様に大量の鉄砲を保有しており、また一向宗の宗徒で構成されていたため団結力も強固であった。


   謙信にとって一向一揆は、武田信玄北条氏康に次ぐ強敵であった。謙信はこの尻垂坂の戦いを含む前後一連の戦いでの勝利により、越中において一揆等の反上杉勢力に対する優位が決定的となり、主導権を確立して後に越中を平定。京への上洛を目指す道を拓いた。



   上杉謙信と越中一向一揆の対立


   越中は元来、加賀越前等、他の北陸道の国と同様、一向一揆が強固な勢力を持つ国であった。越後上杉謙信の祖父・長尾能景や父・長尾為景は、越中一向一揆と激しい戦いを繰り広げてきた。謙信が越後守護代として家督を相続し、さらに越後国主になって以降も越中一向一揆との対立は続いた。北信濃川中島において謙信と敵対した甲斐武田信玄は、謙信の背後を牽制するため、加賀一向一揆・越中一向一揆を扇動した。


   弘治2年(1556年)8月23日、謙信の家臣、箕冠城主・大熊朝秀は信玄に通じて謀反を起こし、一揆勢を率いて越中から越後へ攻め入ったが、謙信は上野家成を派遣し、これを破っている。(駒帰の戦い


   永禄3年(1560年)3月29日、謙信は、一揆勢と結び勢力を拡大する越中守護代・神保長職を、その居城・富山城に攻め勝利を収めている。


   しかし謙信が関東へ出陣し、相模北条氏康と戦っている間、長職は再起して攻勢に出た。同5年(1562年)9月、謙信は長職を増山城に攻め、降伏させた。


   永禄11年(1568年)、謙信は、先年家臣団の反逆により追放されていた能登守護・畠山義綱の復権を支援するため、越中へ侵攻。放生津で一揆勢と対陣しつつ、3月16日に守山城へ攻撃を開始した(放生津の戦い)。


    これに対し、越中一向一揆の頭領である勝興寺安養寺御坊)の顕栄は、加賀一向一揆の頭領・金沢御坊坪坂包明(坪坂伯耆守)に、謙信の越中侵攻を報じ、警戒を呼びかけた(『勝興寺文書』)。


   25日、謙信の家臣で揚北衆本庄繁長が本国・越後で反乱を起こしたとの知らせが入り(本庄繁長の乱)、攻撃を中止。越後へ引き返し鎮圧に向かう謙信の背後を突くべく、顕栄は反撃に出ている。なお顕栄の息子・顕幸も父に従い謙信と長年争っていたが、後に大阪石山本願寺籠城に加わり織田信長とも戦っている(石山合戦)。


   翌・永禄12年(1569年)、本庄繁長の乱を鎮圧した謙信は大軍を率いて、前年に離反し一向一揆と結んだ越中守護代・椎名康胤の立て籠もる松倉城を百日間に渡り攻撃した。しかし越中三大山城に数えられる松倉城の守りは堅く、また関東の不穏な情勢もあり落とすことが出来なかった。(松倉城の戦い


   元亀2年(1571年)2月から3月にかけて、謙信は2万8千の大軍を率いて越中へ出兵し、数年に渡り頑強に抵抗してきた松倉城を落城させた。


   さらに敵方となっていた富山城・新庄城・守山城等、多数の城を攻め落とし、越中の東部から中部、さらに西部にまで破竹の勢いで進撃し、椎名康胤や一揆勢を圧倒した。



   越中一向一揆と加賀一向一揆の合流


   元亀2年(1571年)4月28日、武田信玄の後継者である武田勝頼は北陸における一向一揆の主将・杉浦玄任(杉浦壱岐守)に書状を送り、加賀・越中の一向一揆が協力して謙信に対抗するよう求めた。信玄は、上洛する上で背後の敵である謙信を牽制する必要があった。このため信玄は石山本願寺顕如に、越中で一向一揆が謙信に対し蜂起するよう要請している。


   翌・元亀3年(1572年)5月、顕如より総大将に任命された杉浦玄任率いる加賀一向一揆が謙信に対して挙兵し、これに呼応して越中一向一揆の拠点である勝興寺瑞泉寺が一斉に蜂起した。


   杉浦玄任は永禄10年(1567年)に越前に侵攻し、朝倉義景との戦いで勇名を馳せた名将であった。また勝興寺を率いていたのは顕栄、瑞泉寺を率いていたのは第七世住職・顕秀であった。


   さらに椎名康胤と神保長城神保長職の子)も一揆勢に味方する。これに対し謙信は、関東・上野において信玄及び相模北条氏政と対立していたため、自ら出馬できず。上杉家家臣である越中の鎮将・河田長親は、一揆勢に対抗するため吉江忠景を派遣。5月19日、忠景は太田保本郷(現・富山市)に陣を張った。


   越中一向一揆は加賀一向一揆と合流、3万を越える大軍に膨れ上がった一揆勢は23日、河上五位庄(現・高岡市)に陣を張った。上杉方の前線基地・日宮城(火宮城とも。現・射水市)は一揆勢から激しい攻撃を受け、城兵の鉄砲の弾薬が不足するなど危機的状況に陥った。同日、守将の神保覚広小島職鎮等は、新庄城(現・富山市)の鰺坂長実に後詰めを求めている。






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最終更新日  2023年10月28日 07時09分58秒
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