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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年05月03日
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カテゴリ:戦国





19、「遠山 綱景」(とおやま つなかげ、永正10年(1513? - 永禄7年156419))は、戦国時代武将後北条氏の家臣。武蔵遠山氏の当主。遠山直景の長男とも。


Ø  子に遠山藤九郎遠山隼人佐- はやとのすけ、実名不詳、妻は北条綱成の娘・浄光院殿)、遠山政景法性院(後に北条氏綱養女となり、太田康資に嫁ぐ)。官位は甲斐守、丹波守。


   『小田原衆所領役帳』にて、江戸衆筆頭に列せられ、相模西郡松田や曽比郷、相模中郡金目郷などに約963貫(武蔵葛飾郡にも飛び地があり合わせると1242貫)を知行した。


Ø  天正10年(1513年)頃、北条氏の重臣・遠山直景の子(長男とも)として誕生。主君の北条氏綱から偏諱(綱の一字)を賜い、綱景と名乗る。


   天文2年(1533)に父が死去すると、家督を継ぐとともに、父に引き続き江戸城代となった。


Ø  なお、江戸城代は3人置かれており、本丸には富永氏、三の丸には太田氏が寄っており、遠山氏は二の丸にあった。そのため、本丸の富永を城代の主席であるとする見方があるが、同時代の資料(宗牧の記述)によれば、遠山氏を城代として重きを置いているという。


Ø  天文13年(1544)に連歌師の宗牧を呼び、連歌の会を催したことが記録に残っている。当時の関東は田舎であり、文化の中心地である京とはかけ離れた土地であったが、そのようなところで連歌の会を開いたことは、綱景の教養の高さや連歌師を呼べるだけの北条家中における地位を端的に表している。


Ø  また、永禄元年(1558)の古河公方足利義氏小田原城訪問時には、北条氏の5宿老として松田盛秀憲秀の父)・遠山綱景・笠原綱信清水康英石巻家貞が義氏に拝礼を行っている。


Ø  また、この頃に江戸城の東側にあった葛西城を与えられた。


   永禄7年(1564年)、娘婿でもあり、同じく江戸城代でもあった太田康資が離反。太田らの救援を越後国上杉謙信に依頼された安房国里見氏が出兵したことにより第二次国府台合戦が起こる。


Ø  娘婿の離反を見抜けなかった綱景は、同じく江戸城代の地位にあった富永直勝とともに、北条綱成が率いる本隊よりもかなり先行して江戸川を渡河するが里見氏の反撃にあい、子の隼人佐や娘婿の舎人恒忠とともに討ち死にした。


Ø  綱景と嫡男であった隼人佐が戦死したため、家督は出家していた三男(後の遠山政景)が還俗して継いだ。


   なお、弟である遠山康光(やすみつ)・直次父子は上杉景虎付きとして越後国に赴いた後に御館の乱で父子ともども殺害された。


   舎人恒忠に嫁いでいた娘は第二次国府台合戦での夫の討死後、嫡男の勇丸を連れて大道寺政繁と再婚し4人の男子を生んだ。


Ø  勇丸は養子となり、大道寺直英を名乗った。政繁の四男の大道寺直次が一時、遠山長右衛門と名乗ったが、江戸幕府の旗本千石に任じられた際に大道寺に復姓した。


   「阿寺城」(あでらじょう / あてらじょう)は、岐阜県中津川市手賀野にあった日本の城)。


Ø  明照遠山氏の拠点となっていたが戦国時代遠山友忠飯羽間城から入城する。しかし苗木城を守っていた父遠山友勝が没したため、子の遠山友重に阿寺城を譲り苗木城に移った。


Ø  天正2年(1574)甲斐武田氏の命により木曽義昌の攻撃で友重は奮戦し討死を遂げた。


Ø  阿寺城も陥落し復興することはなかった なお恵那市上矢作町漆原にも阿寺砦があった。


Ø  現在の本曲輪には御嶽神社が祀られている。それより市街地側に進んだところに二ノ曲輪、三ノ曲輪、虎口、また背後には保古山からの侵入を防ぐための三重堀切が見られる。


   「明照遠山氏」(あてらとおやまし)は、美濃国恵那郡明照(岐阜県中津川市手賀野)に拠った利仁流加藤氏の子孫・美濃遠山氏の一族。居城は阿寺城(明照城)


   文治元年(1185)に源頼朝の重臣・加藤景廉が戦功により遠山荘を与えられ地頭となり、景廉の子の景朝が遠山荘に赴任して遠山氏と改姓した。これが美濃国の遠山氏の祖である。


Ø  その後、遠山氏は、本家の岩村遠山氏以外にも遠山荘各地に分散し、居城ごとに分かれて「遠山七頭」(岩村苗木明知飯羽間串原、明照、安木など)と呼ばれるようになった。


²  このうち、明照城(阿寺城)に拠ったのが明照遠山氏である。しかし、元亀3年より前の明照遠山氏の動向は史料に無く、分岐した年代は他家と比べて比較的新しいと考えられる。


   永禄12年(1569)5月18日、苗木遠山氏の遠山直廉が死去し嗣子が無かったため、飯羽間遠山氏の遠山友勝織田信長の命により苗木遠山氏を継いで苗木城に移り、飯羽間城は子の遠山友忠に譲った。


Ø  しかし、遠山友忠はすぐに庶長子の遠山友信(右衛門)に飯羽間城を譲り、自身は次男友重(次郎五郎)、三男友政(三郎兵衛/久兵衛)らを連れて明照城に移ったという。


Ø  遠山友忠は『信長公記』では元亀元年(1570年)の比叡山攻めにおいてすでに苗木久兵衛の名で登場するが、『遠山譜』では明照遠山久兵衛として記載されている。






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最終更新日  2024年05月03日 07時11分13秒
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