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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年12月03日
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カテゴリ:戦国


  
元就はに、かつて自らの一身に代えて元就の身体堅固・寿命長久を祈った隆元の追善料として、隆元終焉の地である安芸国高田郡佐々部の内丸名7町2段半を常栄寺に寄進したが、6月13に吉田郡山城で激しい腹痛を起こして危篤に陥り 、翌6月14巳の刻(午前10時頃)に死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75(満73歳)。


   家督そのものはすでに嫡男の隆元に継承済であったが、隆元は永禄6年(1563)に早世していたため、嫡孫の毛利輝元(隆元の嫡男)が後を継いだ。


   没後


   元就が死去すると、隆景は直ちに出雲出陣中の元春に書状を送って元就の死去を報じ、輝元の意志として元春が元就を弔うために帰国するかは出雲の情勢次第で判断するよう求めた。


   元春は尼子勝久の勢力が増すことを防ぐためにやむなく帰国を断念し、元就の葬儀を含めた後事全般は輝元が隆景、宍戸隆家、熊谷信直、福原貞俊]]、口羽通良ら重臣と協議して執り行う事となった。


   備前の浦上宗景らの侵攻を防ぐために備中に在陣し、元就重病の報を受けると吉田に帰還して元就の看病に当たっていた粟屋就方は元就の葬儀が終わるまでは備中に戻らない意志を示していたが、輝元と隆景は備中の情勢を鑑み、6月16に粟屋就方が急ぎ備中に戻り変事に備えることが元就への追善であるとして、特別に葬儀に先立っての焼香を許可し、就方もこれを受け入れた。


   元就の遺体は元就が死去した6月14日の夜に毛利氏の菩提所である大通院に移された。当時の大通院の住持は浩雲周養だったが、輝元は備後国三原妙法寺の住持・嘯岳鼎虎を吉田に招聘し、元就の葬儀の導師を務めることを依頼した。


   また、特に元就と師壇関係の篤かった山口国清寺住持竺雲恵心を招いて元就の葬儀でを授けてくれるよう依頼するため、6月17粟屋元重を山口に派遣し、山口奉行の国司就信と共に竺雲恵心との交渉に当たらせた。


   また、国司就信が生前の元就に目をかけられていたことから、山口を離れて葬儀に参列することを許可した。


   元就の初七日である6月20、元就の葬儀が大通院で執り行われ、嘯岳鼎虎が祭文を捧げて元就の菩提を弔い、竺雲恵心が「四海九州知有人 人生七十五煙塵 分明浄智妙円相 突出虚空大日輪」というを授けた。葬儀が終わると元就の遺体は吉田郡山城の西麓にある三日市において火葬され、6月24に輝元が大通院の境内に築いた墳墓に元就の遺骨が埋葬された。その際に大庭賢兼は「法の水 手向果ても 黒衣 立はなれ憂き 墓の前かな」と詠じて追慕した。また、大庭賢兼は6月27の二七日、7月5の三七日、7月12の四七日、7月19の五七日、7月26の六七日の各法会で追慕の歌を詠じている。


   7月28、元就の追善のため、隆景は安芸国の仏通寺において僧衆300人が列席する盛大な仏事を執り行った。8月3には大通院で元就の七七日の法会が執り行われ、元就と親交があり安芸滞在中であった聖護院道澄が参列し、大庭賢兼と共に追善の歌を詠じた。


   その他にも各方面からの弔問があり、山口の法泉寺が隆景に弔問し、湯原春綱も隆景に弔問して香典100疋を送った。織田信長も使僧を派遣して弔問し、17には柳沢元政を派遣して弔辞を述べさせた。


   大和筒井城主・筒井順慶も家臣の清須美右衛門を輝元のもとに派遣し弔辞を述べ、香典100両を贈った。東福寺の塔頭・勝林庵は法華経5巻を一軸に書写して元春へ贈っている。


   元亀3年(1572)、朝廷は元就の生前の忠功を追賞して従三位の位階と「惟徳惟馨」のを贈った。また、元就の200周忌に当たる明和7年(1770)に元就・輝元・秀就の霊を祀る神社がに創建されると、朝廷は元就の神霊に「仰徳大明神」の神号を贈り、文政12年(182911月8にはその神社に正一位の位階を授けた。更に明治維新における長州藩の功績から、明治2年(18692月3に元就を祀る神社に「豊栄神社」の神号を贈り、明治41年(19084月2には元就に正一位の位階が追贈された。


 


Ø  そして、永禄5年12月(15631月)には荒隈(洗合)へ本陣を構え、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化させる。


Ø  永禄6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とさる白鹿城へ攻撃を開始する。この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠点であっ田。


Ø  9月21日(10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大将とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する。戦いの結果、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した(白鹿城の戦い)。


Ø  退却の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を担当し、追撃する吉川元春小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った。なお、白鹿城は10月中旬頃に落城している。


   永禄7年(1564)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関・弓浜で戦い、幸盛もこれに参戦する(弓浜合戦)。


Ø  このとき、日本海側からの補給拠点である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆国の拠点確保と勢力の挽回に努めていた。






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最終更新日  2024年12月03日 11時18分28秒
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