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永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めの際に、防衛線の1つとして機能していたという。年不詳4月11日付の武田氏家臣・山県昌景書状写によると、同じく武田氏家臣・荻原豊前守が、甲斐国上野原の加藤景忠と協力して檜原に向かって軍事行動を起こし、敵を数多く討ち取ったことが記されている。 永禄11年末、北条氏と断交した武田氏は、翌年から本格的に北条領国への侵攻を開始し、5月以降には滝山城や小田原城の攻撃していることはよく知られている。この史料も、おそらくこうした一連の武田軍による北条領国侵攻に関するものと思われることから、永禄12年のものと考えてよいだろう。 ここから、甲斐・武蔵国境に位置する檜原が、武田軍の攻撃目標となっていたことがわかる。おそらく、檜原城はこの頃にはすでに存在し、北条方の城として重要な役割を果たしていたのだろう。天正8年(1580)、北条氏は甲斐武田氏と対立しており、同年5月には武蔵・甲斐国境付近の「才原峠」(西原峠)で合戦が行われるなど、檜原城周辺地域は軍事的緊張下にあった。 (同年)12月6日付けの北条氏照書状写によると、氏照家臣で檜原に所領をもつ平山氏重は当時「大切之境目」に「在城」中だったことがわかる。多くの先行研究が指摘するように、氏重が在城していた城は檜原城であったと考えられている。そうだとすると、檜原城は北条氏から「大切之境目」を守る城として重要視されていたことがわかる。 ただし、当時の氏照の領域支配や在番制との関係から、檜原城ではなく下野小山城であるとする説も有力であり、今後のさらなる検討を待ちたい。翌年の天正9年になっても、北条氏は武田氏と合戦を繰り広げており、同年4月に甲斐都留郡譲原を攻撃している。その際に「檜原衆」が敵を討ち取るなどして活躍したようであり、その一員である来住野氏に対して北条氏照が感状を出していることが知られる。 ここから、この頃すでに「檜原衆」と呼ばれる軍事集団がいたことがわかるが、おそらく彼らは平山氏のもと、檜原城を拠点に組織されていたものと思われる。甲斐都留郡へ攻め入っていることからしても、やはり檜原城は甲斐方面を意識した城だったことがうかがわれよう。 それから、7年後の天正16年(1588)正月、今度は対豊臣戦争が現実味を帯びてくると、八王子城主北条氏照は、領内の西戸倉郷(戸倉城の麓の村)に対して、檜原城主の平山右衛門大夫直重(氏重の子とされる)の命令に従って、郷内の男たる者どもを根こそぎ集めて「先年之吉例」に任せて「檜原谷」(檜原城がある地域のことを指すのだろう)に派遣するよう命じている。 ここでいう「先年之吉例」とは、先述した天正8.9年の檜原衆の活躍を指すものと思われる。また、この命令に背いて他所へ行ってしまう者がいたならば、親族まで含めて死罪に処すとまでいっている。それと同時に、「檜原」の普請も滞りなくするよう命じている。この史料からから、檜原城が天正16年時点においても存在し、普請が行われるなどして機能が強化されていたことがわかる。 また、江戸時代に編纂された地誌である「新編武蔵風土記稿」には、同18年(1590)の小田原合戦時にも平山氏が籠城したものの落城し、平山親子が自刃したと記されている。天正16年当時に普請されていることからも、小田原合戦時にも使用されていたと考えてよいだろう。 なお、現地説明板には、戦国初期の構造をよくのこしていると書かれているが、以上のことから現存遺構は基本的には戦国末期に改修されたものとみてよい。城郭の年代を考える際しは、横矢・枡形虎口・横堀などの技巧的なパーツがなければ戦国前期のものとまず考えがちであるが、近年の城郭研究では個々の城が築かれている地形や地質、さらにはその城をめぐるさまざまな事情により、城郭の縄張はさまざまな姿を見せることが指摘されている。 檜原城の場合も、他の城と比べて単に築城技術が劣っていたと評価するのではなく、さまざまな事情を考えて積極的に評価することが必要だろう。(関東の名城を歩く 南関東編) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.09.26 08:20:30
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