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2019.06.22
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<地図>
 玉縄城跡は、藤沢宿の中心部から北東約2.7Km、境川支流の柏尾川沿い、JR大船駅西側の相模原台地先端に、鎌倉鶴岡八幡宮から北西約5Kmに位置する。北側から鎌倉に入る鎌倉街道の上道は玉縄城付近を通過する。玉縄城はまさしく鎌倉の北側を扼する要衝であった。玉縄城の南・鎌倉」方面には、柏尾川が流れており、この柏尾川の渡河点を守備する役割があったものと思われる。 玉縄城の近くの丘陵に長尾台砦、二伝寺砦があり、玉縄城と関連して使用されていたのであろうか。また、直線距離でわずか 6.7Kmどしか離れていない場所に規模の大きい大庭城がある。両上杉氏が共同で鎌倉公方成氏に掣肘を加えていた享徳の乱(1455 ~83年)の初頃は、関東管領山内上杉氏の玉縄城を扇谷上杉氏の大庭城がバックアップーサポートする体制であったと解釈でき、 両城が近接することの違和感は解消する。また両上杉氏が対立した場合は、両城はお互いの境目の城になった。1512年以降に 伊勢宗瑞が玉縄城を大規模に改修拡張した際も、大庭城が玉縄城改修をバックアップし、両城は交互に支援しながら改修拡張 していたと推定される。
 <遺構>
 東西×南北約1.2Kmの広大な範囲内に台地先端部の複雑な丘陵・谷地形を利用して多数の郭が展開していた。最高所は主郭の東側 の諏訪壇で標高約80mを、次いで主郭が約60mを測り、この主郭部付近一帯が伊勢宗瑞による1521年の大改修の形態を留めていた と推定されている。現在、城跡一帯は住宅開発と学校建設によって遺構はほとんど失われてしまった。玉縄城跡では発掘調査で 部分的に破城・破却の痕跡が確認されている。下山治久氏は、伊勢宗瑞が扇谷上杉方として玉縄城を攻め落とした。1494年に破却
 したと推定している。大船・玉縄一帯は、南北朝期から室町期の関東の争乱ではいつも争奪地=ホットコーナーになった。玉縄城 の築城時期を絞り込むのは難しいが、鎌倉の重要性からみて、大庭城の築城よりも若干先行する可能性が高い。文明年間以前の 15世紀中葉頃に、鎌倉の北側の出入り口を抑えて、鎌倉公方に圧力を掛けるために、関東管領山内上杉氏が築城したのであろう。 三浦氏は、南北朝期から室町期には鎌倉公方を支えて、一時期は相模国守護職に就いたが、三浦介高明は上杉禅秀の乱後の1417年
 に突然守護職を剥奪され、48年以降は扇谷上杉氏が守護職を世襲した。三浦高救・義同(道寸)父子は、管領山内上杉氏と 扇谷上杉氏が争った長享の乱(1487~1505年)では、相模守護の扇谷氏から離反して管領山内氏方として活躍した。三浦氏は、この 争乱での勝利によって、扇谷氏領分とされていた三浦郡の自立を回復し、三浦介高救が岡崎城(伊勢原市・平塚市)に、庶子家の 横須賀連秀が真田城(平塚市)に入り、扇谷上杉家の重臣として相模国中央部から三浦郡の支配権を確立した。岡崎城は、三浦道寸
 が1512年に早雲に敗れて退城するまでは、相模国中央部の三浦氏の支配拠点であった。岡崎城は、三浦高救・義同(道寸)父子が 城主であった。1505から12年に落城するまでの間に、主郭を拡張整備して周辺部に各郭を追加造成・配置した。岡崎城跡の主郭は 約100x70m、玉縄城跡は約150x75mで、大型の主郭の形態と周辺部の郭配置は双子のようによく似ている。玉縄城の基本形態は岡崎城 と同じ上杉・三浦系統の系譜に属する。田中祥彦氏は、南武蔵(多摩川以南の橘樹・都筑郡()現在の川崎市・横浜市域)支配の支城 =小机城の旧地形を留めるI郭=主郭は1512年以降の伊勢宗瑞による改修拡張、大規模に地形改変したⅡ郭は69年の武田信玄の 侵攻後の武蔵国諸城の大改修によるものだと指摘する。岡崎城跡と玉縄城跡には小机城跡のような整った方形の大型の郭はない。 玉縄城は、16世紀前半頃には中心部の改修を終了した。小田原北条氏の支城群の中では古いタイプの城郭といえるだろう。
 <歴史>
 両上杉氏の抗争が再発した長享の乱(1478~1505年)の際に、三浦道寸が管領山内上杉顕定に付いたのに対抗して、伊勢宗瑞は 扇谷上杉定正に合力して明応3年(1494)9月19日に玉縄城を落としたとあり、玉縄城には山内勢が在城していた。伊勢宗瑞は、1516年 7月に囲攻中の三浦新井城から反転して玉縄城に入り、新井城服城の道寸救援に向かう江戸城主・扇谷上杉朝興を撃破して、新井城の 道寸・義意父子を自刃落城に追い込んだ。伊勢宗瑞は、1518年に伊豆韮山城(静岡県伊豆の国市)に隠居して嫡男・氏綱に家督を譲り、 翌年同城で死去した。1524年までは多摩川以南の南武蔵は、北条氏と扇谷上杉氏の勢力が激突する紛争地域であった。北条氏綱が 1524年に江戸城を奪取すると北条氏領国の国境境目は多摩川を越え、1529年頃に伊勢宗瑞の次男・北条氏時が初代玉縄城主に就いた。 玉縄支城体制はこの頃に成立したのであろう。玉総城は、小田原北条氏が最初に取り立てた支城で、鎌倉防衛と三浦半島を抑える
 ための拠点である。玉縄城の支配領域=支城領は、相模国東郡(高座・鎌倉・三浦郡)と武蔵国久良岐郡(横浜市南西部)であった。 鎌倉は鎌倉代官の大道寺氏が配置され、一種の特別区とされたようである。北条氏時は1531年8月に没し、継嗣の男子がいなかったため、 北条氏綱の次男・北条為昌が二代目城主となった。三代目城主は1542年に北条為昌の女婿・北条綱成が養子となって跡を嗣ぎ、以後、 北条綱成の家系・玉縄北条氏が天正18年(1590)4月に豊臣軍の徳川家康に開城し降伏するまで玉縄城主を嗣いた。東国武家政権の継承者 を目指す北条氏綱は、1626年の里見氏の鎌倉侵攻によって焼亡した鎌倉鶴岡八幡宮の再建事業を1532年に着手した。同事業は三代目の 北条氏康にまで引き継がれて1544年に完成した。玉縄城はこの一大難事業実施の主務支城となり、当主の北条氏綱はたびたび玉縄城に 在城して、鎌倉へ工事の督励に赴いた。永正13年(1516)7月に三浦新井城の道寸・義意父子が白刃落城した後も、城ヶ島に逃げ込み抵抗 していた三浦氏分家の出口茂忠たちは、建長寺・円覚寺住持の説得によって誓言に降伏帰属して三浦十人衆に編成され、後に三浦旧臣 たちは三浦衆として玉縄城主の指揮下に置かれた。北条氏綱は、房総里見家の内紛-義豊と義尭の抗争に介入して、1533年に玉縄城主 の北条為昌と水軍を派遣している。年次不明だが、北条為昌と小机城代の笠原信為は玉縄領久良岐郡と小机領橘樹郡の郡境を巡って
 相論している。1537年には神奈川郷(横浜市神奈川区)の代官夫役を巡って争っており、この頃は三浦水軍をもつ北条為昌が神奈川湊 を支配していたのであろう。1541年に家督を嗣いた三代北条氏康は三浦郡を玉縄領から切り離して直轄領とし、四代北条氏政は1567年に 北条氏康の五男・北条氏規を三崎城主に任じた。
 <関連武将>伊勢宗瑞、北条氏綱、北条為昌、北条綱成、北条氏繁</関連武将>
 <出典>関東の名城を歩く(峰岸純夫・齋藤慎一)、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)、戦国大名北条氏(下山治久)</出典>





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最終更新日  2019.06.22 06:49:50
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