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2020.08.08
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白井宿の方から城址に近づくと、農家と畑の広がる場所も城域であり、城の遺構のある場所への見通しは良くない。しかし、本丸跡の入口には大きな空堀(今でも底には水が溜まっている)を渡る土橋と虎口の石垣の一部と土塁が出迎えてくれる。本丸跡は結構広く周囲は高い土塁で囲まれており。吾妻川を望む土塁の上からは川底までの高さを実感できる。そのほかの土塁も外側は郭を隔てる大きな空堀を望める。虎口付近から空堀の中に入ることができて、その空堀が屈折・分岐していることを確認できる。
<地図>
本丸西側から眼下を臨むと吾妻川の急流に目を奪われる。この吾妻川と利根川が合流する崖上に立地するのが白井城である。吾妻川上流の鳥居峠を越えると信州へ、そして、利根川に沿って北上すると三国峠を越え越後へと、この城を分岐点に主要街道が分かれている。まさに上信越を結ぶ要ともいうべき場所に白井城は築かれている。現在、東遠構の最北端に道の駅があり、そのすぐ西側には江戸時代の三国街道に面した白井宿の面影を残す町並みを残している。この付近を基点に三の丸、二の丸の東側の帯郭状土塁へアプローチしていくと本丸北東の三日月堀と呼ばれている堀に行きつき、本丸の枡形虎口に至る。この枡形虎口は県内の城郭においても良好に残っている虎口の一つで、径1m級の大形川原石を用いた石垣は圧巻である。
<遺構>
現在確認される白井城の縄張りは最後の徳川期の状況に最も近いことをふまえなければならない。本丸北側中央部の枡形虎口の石垣は川原石を加工しないで用いた野面積みである。この技法が天正末~慶長初頭頃の箕輪城の石垣と非常に共通性が高く、16世紀末から17世紀前半までの時期の可能性が高い。近年、本丸周囲に植わっていた杉を伐採したことによって、従来に比べかなり見通しがよくなった。このために堀の状況もよく観察できるようになり、堀底付近には石垣に使われていた可能性のある石が散在していることがわかった。のり面最上部のみに石垣を施す鉢巻石垣や堀面最下部のみの腰巻石垣などがあった可能性も考えられる。また、三の丸東側の堀が二の丸・本丸西側の堀に合流する場所にはその堀を仕切るような土橋状の盛り上がりがあり、その北側のり面にも石垣がある。これらのことから、本丸周辺の主要部では多くの場所で石垣が用いられていた可能性がある。廃城は近世の初頭の頃であり、今後、発掘調査が進んでいくと、箕輪城と同様に関東における徳川氏の城造りの状況がよくわかる城郭になる可能性を秘めている。山崎氏によって示された北側の遠構や東側の遠構は現在、わずかな地形の凹凸によって確認される程度であるが、北郭から本丸までは各郭を区画する堀跡が良好に残存している。その中でも、特に本丸東側に残存する土塁の上から東側の比高差10m以上で、かつ急傾斜でおちる堀はこの城の堅固さを実感できる場所である。
<歴史>
築城年は不明であるが、享徳3年(1554)にはじまる上杉氏と古河公方との戦いである享徳の乱が契機と考えられる。越後・上野などの守護であり関東管領山内上杉氏の家宰職である白井長尾氏の本拠である。享徳の乱の頃、白井長尾氏の景信の死を契機に上杉家の家宰職が白井長尾家から総社長尾忠景に代わったことから、長尾景信の子長尾景春が敵対する古河公方方についた。このことから15世紀末を中心に、長尾景春は鉢形城(寄居町)などを拠点にし、白井城には越後上杉氏が駐留することになった。そして、両者は
この白井城を舞台に争奪戦を繰り広げることとなった。長尾景春が白井城に復帰するのは永正2年(1505)である。長尾景春の子景英、さらに孫景誠が後を継ぐが、大永7年(1527)家臣に害されると、総社長尾氏から城主を迎えることとなった。永禄3年(1560)の上杉謙信、関東出陣の際には総社・足利長尾氏などとともに上杉方にいち早く参陣した。その後上杉方の関東計略における拠点城郭として機能したが、翌年から始まる、上杉・武田・北条氏による「3つ巴の争覇」に巻き込まれていくことになる。永禄9年1566)、上杉方として武田氏の侵攻に抗していた長野氏の箕輪城が落城し、武田氏の西上野侵攻は大勢を決することになった。翌年、総社長尾氏の蒼海城が落城し、白井城も真田幸隆・信綱親子によって落城することになった。その後、長尾氏はほどなくして白井城に復帰するが、武田氏滅亡の天正10年(1582)まで、基本的に武田氏に属することになる。さらに、その後天正18年(1590)までは北条氏に属したが、秀吉の小田原攻めに伴い開城することとなった。関東に徳川家康が天正18年(1590)に配置されると、白井城には本多康重が2万石で城主になった。その後元和2年(1616)に西尾忠永、元和4年には本多紀貞が城主になるが元和9年(1623)紀貞の病没により廃城となった。
<関連武将>長尾景信、長尾景春</関連武将>
<出典>関東の名城を歩く 北関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>





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最終更新日  2020.08.08 04:52:09
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