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2022.05.21
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衣笠城は、平安時代末期と時代が古いこともあり、城の遺構や場所なども釈然としない。史料には、衣笠合戦の様子がこと細かに記述されているので、なおさらである。城址とされている場所は、大善寺の脇から山道を登ると透くに平地があり、一段高い所に城の石碑が立っている。その先の尾根道に入ると、物見岩といわれる場所もある。この尾根道の下から登ってくる道もある。尾根道をいったん下りて、隣の丘陵を登って行くと、桜の名所として知られている衣笠公園に着く。
<地図>
三浦半島の最高峰大楠山から東南に向かって延びる連丘の主脈は、久里浜の千駄ヶ崎で東京湾にぶつかり終わっている。途中、平作で分かれた支脈は、主脈の北側をほぼ並行して東南に向かって連なり、森崎で終わっている。また、主脈には、久村から北へ延びる支脈が分かれ、この支脈は佐原で終わっている。この森崎と佐原の間を入口とする谷の最奥部にある のが狭い意味での衣笠城であり、また、連丘によって馬蹄形に囲まれた谷全体が広い意味での衣笠城である。平安時代の 古東海道は、鎌倉・逗子と相模湾沿いを通り、葉山から三浦半島の内部に進み、木古庭・平作・金谷を通って久里浜に出て、さらに房総へと舟で渡るが、当時、久里浜の入江は現在より非常に深く内部に入り込み、佐原・森崎あたりまで波が寄せていた。そのため衣笠城の入口は海に面しており、古東海道は衣笠城を囲む連丘の北側を通り、房総方面へは、衣笠城の入口あたりから舟で渡ったと考えられる。衣笠城址に向かうには、横須賀横須賀道路の衣笠ICへの入り口近くのR26から分かれる坂道を登って行くと大善寺に着く。その寺の脇から山道を登ると衣笠城址に至る。そこから尾根道を辿って行くと、みうら縦貫道路の入り口近くに降りられる。車道を横切ってハイキングコースを辿って登ってゆくと 桜の名所の衣笠公園に着く。衣笠城址のある山の麓は東京湾岸の久里浜に続き、三浦義明の墓のある満昌寺、横須賀市営公園墓地の脇にある大矢部城址、佐原城址、平作川を望む怒田城址などと三浦義澄らが衣笠城を落ちて石橋山合戦で 敗れ、房総に向かう源頼朝に合流するため船出した久里浜の住吉神社など、近くには三浦一族が関係した場所が残っている。

<遺構>
山全体を城域とする見解もあるが、大善寺の背後には城らしい遺構は無い。この場所は確かに削平されて
いるが、やや傾斜し、北にある所を土塁とする向きもあるが、確かに幅広の低土塁状を呈するものの、曲輪縁辺に沿っておらず、位置から考えて土塁の役割を果たすことができない。これらは昔あった金峯蔵王権現社や、大善寺の施設に伴うものではないだろうか。平地の西には、物見岩とされる場所がある。しかし、周囲をほぼ同高の山で囲まれているため、大して見晴らしが利かない。「坂の台」の文字部分にある畠を曲輪とする意見や、そのすぐ南の農道を堀切跡とする見解もあるが、誤認であろう。ただ、比較的明確な堀切がある場所がある。この尾根を下りきった道端には、「衣笠城追手口遺址」の碑が立つ。尾根頂部は自然地形だが、そのまま平地に達するので位置は良い。以上、今日「衣笠城」とされる地は、城郭としてははなはだ疑問である。「後北条氏の手が加わっている」という意見もあるが、そのような痕跡は一切みられない。;

<歴史>
治承4年(1180)の衣笠城の戦いについて「吾妻鏡」に書かれており、また、この時の衣笠城の防備について「源平盛衰記」には三浦大介義明の下知が書かれており、衣笠城は平時には強力な防御施設を持たなかったことがわかる。こうして衣笠城の攻防戦が始まった。攻撃軍は、武蔵国の軍勢3千余騎で、大手は河越重頼・江戸重長ら2千余騎、搦め手は畠山重忠ら2千騎であった。これに対する守備軍は三浦一族と援軍の千葉常胤の弟金田小大夫頼次の手勢70騎を合わせて総勢4百43騎で、大手は三浦義澄・佐原義連が、搦め手は和田義盛・金田頼次が守備したが、搦め手での戦いは行われなかったようである。大手ではまず、綴党2百騎が攻めが破れず、つぎに金子党3百騎が攻め、金子十郎家忠は1の木戸・2の木戸を打ち破って進んだ。これを望見した三浦義明は家忠を称賛して酒を贈ったのち、和田義盛に家忠を射止めるように命じた。義盛の射た矢は家忠に命中し、落馬した家忠は弟余一に背負われて退いた。その後、三浦一族は三浦義明の意見を入れて、彼1人を城内に残し、子の義澄以下は城を脱出して安房に逃れ、途中海上で源頼朝と合流した。義明は江戸重長に討たれたという。この義明の死によって、その後、三浦一族は頼朝の幕下として活躍することができ、頼朝が鎌倉に政権を樹立すると和田義盛が侍所の別当に任じられたのを始め、三浦一族は頼朝によって重用された。このように衣笠城は臨時の防禦施設で、守兵4百53騎によって3千余騎の攻撃軍を迎えて1日支えることができたのである。三浦氏にとって、衣笠城がこのような大軍に攻撃されるということは想定しえなかったであろうし、同等の勢力を有する他の豪族との争いならば、衣笠城は充分役に立ったと思われる。
<関連武将>三浦義明、畠山重忠、三浦義澄</関連武将>
<出典>日本城郭事典、日本城郭大系、中世神奈川城郭図鑑(西股総生)</出典>






最終更新日  2022.05.21 05:31:01
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