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逗子から葉山に向かうバスは、海岸近くを行く経路と陸側を行く経路があり、この海岸近くの森戸海岸線を逗子海岸から小浜海岸から坂道を登り始めるころ左手に日影茶屋があり、その道路を隔てた駐車場から階段を登ってゆくと、小規模な平地があり、鎌倉の海岸や江ノ島などの展望がきくところが、鐙摺城である。地図にも旗立山とあるように砦規模の城であったようだが、現在は、道路の改築や海岸の埋め立てなどで、畠山重忠と三浦義澄の戦い時の地形などを想像することは難しいようだ。鎌倉時代の三浦氏は、三浦半島一帯を支配していたので、三浦半島には三浦氏の関係した城や館が散在する。 <地図> 逗子市と葉山町の境界になる尾根の先端が海に突き出し、瘤状に盛り上がった独立丘が鐙摺城址で、軍見山とも呼ぱれている。現在の道路は、城址と尾根との鞍部を切り割って通っているが、古くは海岸沿いに城址の足下を回って通じていたので、この道を頭上から見下ろす鎧摺城は小城とはいえ、天然の地形を利用した強固な娶害であった。三浦半島の入口(三浦氏の所領の入口)を固め るのにふさわしい所である。逗子方面からR134を通ってきて、田越川の河口付近で森戸海岸線に入り、坂道をしばらく行くと左手に葉山日影茶屋がある。道路の隔てて茶屋の駐車場があり、その脇から坂道を登ると鐙摺城跡に着く。あまり広くない平坦地であるが、相模湾の逗子・鎌倉・江の島方面の展望が素晴らしい。 <遺構> 独立的な小丘を利用した極小規模の城である。頂上部は20m四方ほどの狭い平坦面をなしているが、北端に伊東祐親入道の供養塚とされる土盛りがあり、これと同じレベルで、平坦面の北東側に帯状の高まりが続いている。供養塚の高さが往時の面影を残すとすれば、それと同じ高さを示す北東側の高まりは土塁である。ただ現状では、新しく盛った土というより、平坦面を削った後の削り 残しのようにもみえる。反対の海側は崩落しており、旧状そのままではない。ほかに特にめぼしい遺構がないが、南側麓の海宝寺・ 須賀神社のある一角は、このピークの続きで、周囲よりやや高い。この部分まで城と結びついていた可能性がある。北側は船着き場を見下ろす。古道もこの裾を通っていて、「新編相模国風土記」によれば、東麓に「木戸際」の地名があった。この城の存在意義は、陸上・海上の交通を抜きにしては語れないであろう。地元では、この丘があまりに狭いところから、単なる物見の場所で、城じゃ内陸のもっとも大きな山ではないかともいわれている。比定される地点も、現状では城跡と断定できない。交通の結節点を意識した築城として、旗立山と見てよいのではなかろうか。 <歴史> 治承4年(1180)、悪天候のため、石楠山の合戦に間に合わず、三浦に引き返す途中、畠山重忠の軍勢と小坪付近において遭遇した三浦義澄は、ここに陣取っているので、当時から城としての防禦施設が築かれていたと考えられる。この時のことを源平盛哀記」には、「小太郎(和田義盛)、叔父の別当(三浦義澄)に言けるは、其には東に懸りてあぶずりに垣楯かきて待給へ、かしこは究覚の小城なり、飲左右なく寄がたし義盛は平に下て戦はんに敵よはらずば両方より差はさみ中に取籠て畠山を討んにいと安し、若又御方弱らぱ、義盛もあぶずりに引籠て 一所に軍せんと云ふ」とある。しかし、この時は決着がつかず、三浦義澄らは衣笠城に引き揚げている。鎌倉時代に入ると、鐙摺には義明の三男大多和三郎義久がいたことが、「吾妻鏡」の寿永元年(1182)11月10日の項に、「到于大多和三郎義久鎧摺宅云々」とあることからわかる。また、義明の六男は、杜六郎重行(連)と名のり、鎧摺城の南にある森戸 (三浦郡葉山町)に館を構えていたご三浦氏の有力な郎党といわれる長江太郎義景も、すぐ東の長柄(三浦郡葉山町)に館があった。彼らもまた、大多和義久と共に、鎧摺城を守るために付近に配置されていたものと考えられる。 <関連武将>三浦氏</関連武将> <出典>日本城郭大系、中世神奈川城郭図鑑(西股総生)</出典> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
鐙摺城の地図上の位置が違うのではないですか?小坪には確か私が子供の頃に住吉城があった所だと思いますが。
(2022.07.10 12:03:31)
とんきちさんへ
ご指摘ありがとうございます。まさにその通りで 鐙摺城は日影茶屋の向かいの小山で葉山港を見下ろす場所でした。長い間コメントを確認せず失礼しました。 遅ればせながら地図は差し替えました。 (2023.03.18 06:24:02) |