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カテゴリ:つれづれ
デンマーク在住のレイキマスターから、禅の話が送られてきた。
I must quit keeping looking at my Master's finger pointing at the moon -instead much more looking out for the moon on my own. 探してみると、こんな絵が出てきた。 ≪悟道の月≫は、七福神の一人の布袋和尚の姿。彼は、中国唐代に実在した山僧。月を指さす布袋は、「指でなく月を見よ。指は枝葉末節、月は大局」と説いている。 と、一覧ページには解説されている。 ウィキペディアには、禅の解説として、以下のような解説が。 言葉や文字によらず、直に本性を指し示すこと。教宗にはない禅宗の特徴とされる。例えば、月とはこういうものだと口で言って説明するのではなく、黙って月を指さすようなものである。ところが、その指を見ても何のことかわからずに、指の長短や肌の濃淡を論じるような者のために教宗があるとする。 最初の文をそのまま解釈すると・・・ 月を指さす師の指を見続けることをやめ、 自分自身にとっての月を見つけよ。 という感じだろうか? 指は枝葉末節、月は大局。 もその通りだし、 月を指さしている"指について"語るは、物事の本質を見逃しているとも言える。 でも、私は、 師の後ろ姿ばかりを追うのではなく、 あるいは、師にばかり頼るのではなく、 師が見ている月を見よ。 あるいは、自分自身にとっての月をみつけよ。 と理解した。 つまり、『自分にとっての本質をつかめ』と。 日本人は、"師を真似る"事を求められ、それを良しとする。 まずは、師を真似よと。 最初から"オリジナリティ"や、"自分の個性"を主張することは、基本的に許さない。 師弟制度がまさにこれ。 そして、しっかりと師を真似た人間を、しかし、師を超えない人間を"後継者"とする。 師の流れを汲まない物は、後継者にはなれない。 これを繰り返してゆく良さは、物事を形を変えずにそのまま伝えることができること。 しかし、ここから、新しい物は生まれない。し、そうなれば、やはり血を分けた人間が、一番近くなる可能性は高い。これが、世襲制。 なので、日本人は、ひたすら真似てきた。 師、先生と同じような人間になるように、無意識のうちに努力するように育てられてきている。 学ぶ=真似る 習・破・離 しかし、多くの場合は、習がなかなか基準に達したと認められず、破にたどり着けない。 ましてや離までなど・・・ この方式を破ったのが、「吉本タレント養成所」 それまで、吉本のタレントは、必ず師匠につき、師匠の芸を学び、ぬすんできた。 が、養成所が出来てから、師匠の居ないタレントが誕生した。 いきなり、オリジナル。 "ダウンタウン"は、その走りかと。 一方で、西洋人は、何かを学んだら、それを自分の中の一部として取り入れ、それまでに学んだことや、自分の洞察を加えて、"自分なりのオリジナル"として、世に出す。 師の所に通い詰めて、一挙手一投足真似ようという人は、比較的少ないように、感じる。 話がずいぶん遠くまで来てしまった。 つくづく感じることは、日本人は本能的に、つい師匠の背中を追ってしまうし、 師もまた、弟子は付いてくるものだと思いがちである。 が、師の目指す月と、自分が目指す月は、必ずしも、あるいは、全く同じとは限らない。 師の背中ばかり見るのではなく、 師を通して、月を見るのではなく、 師の指さす月の本質を掴んだ上で、 自分自身にとっての月をしっかりと見極める事が大切だ。 そして、師は、後ろからぞろぞろと弟子がついてこないことを、 むしろ喜ぶべきなのだ。 禅の話だったが・・・ 久しぶりに、お気に入りの ![]() でも読もうか。 を、漫画も出ている・・・ ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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