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永遠の安息

永遠の安息

ナンシー・クルーザン事件


『生命倫理1998』から

 事件の概要を簡略に紹介する。
 一九八三年一月十一日の夜、ナンシー・クルーザンは走行中に運転を誤って車を横転させ、車外に放り出されて、溝にうつ伏せにはまりこんだ。事故の十数分後に救急車が到着したときには心臓は止まり呼吸もしていなかったが、蘇生術を施したところ、心拍と呼吸が回復した。その後、ただちに病院に運ばれたが、酸欠状態の影響で脳に障害を起こしていた。三週間経っても昏睡から回復しないので、胃に直接水分と栄養を送り込むためのチューブを取り付ける手術を、夫(後に離婚)に許可を得て行なった。しかし、その後も回復の徴候はなく、遷延性植物状態患者としてミズーリ州立病院に収容されることになった。一九八六年に社会保険が切れた後はミズーリ州が医療費(年間約十三万ドル)を全額負担している。

 共同後見人である両親は、ナンシーを尊厳死させるために、病院に対して胃チューブの除去を求めたが拒否され、そこで両親はミズーリ州を相手に、除去の承認を求める裁判を起こした。

 第一審のミズーリ州巡回裁判所は両親の請求を認める判決を出した。判決の要点は次の三点である。
1 延命措置を拒否する権利は、連邦憲法も、また州憲法も認めている。
2 延命措置を拒否する権利は、後見人によって代行することができる。
3 ナンシーが事故の一年前に、同居していた友人と交わした会話の中で、大きな障害を負ったら死んだほうがよい、と語っていたという証言が採用され、この証言がナンシーの意思を示していると認定された。


 この判決を不服としてミズーリ州側は控訴した。

 第二審のミズーリ州最高裁判所は四対三で第一審の判決を破棄した。判決の要点は次の三点である。
1 どのような状況下でも治療を拒否することができるという権利をミズーリ州憲法に見出すことはできない。また、連邦憲法が認めていると解することにも疑問がある。
2 治療の中断を代理人が決定することができるのは、二つの場合に限られる。
① 本人がリビング・ウイルを作成していて、治療を拒否するという意思を明示している場合。
② リビング・ウイルはないが、治療を拒否するという本人の意思に関する「明確で説得力のある証拠(clear and convincing evidence)」がある場合。
3 本件の場合、リビング・ウイルは存在せず、また、以前に同居していた友人の証言は「明確で説得力のある証拠」としては不十分である。


 すなわち、ミズーリ州最高裁判所の判決は、栄養と水分の補給を停止するという代理人の決定が、本人自身の意思であることを厳格に立証することを求め、そのための「証明基準」ないし「立証要件」を提示した。

 「本件でミズーリ州は、一定の状況下で患者のために代理人が死につながることになる方法で水分と栄養を撤去することを事実上認めたのであるが、代理人の行動が能力者であった間に患者が表明していた希望と最もよく合致することを確保するため、手続き的な保障を設けたのである。すなわち、処置の撤去という無能力者の希望が明確で説得力のある証拠によって証明されることを要求したのである。」(連邦最高裁判所の判決から)

 ナンシーの両親は連邦最高裁判所に控訴した。

 連邦最高裁判所は、五対四でミズーリ州最高裁判所の判決を支持する判決を、一九九〇年六月二十五日に出した。連邦最高裁判所の判決から抜粋しながら紹介する。

 「本件は、いわゆる『死ぬ権利』を合衆国憲法が認めているかどうかという問題に当裁判所が正面から取り組む初めてのケースである」。

 合衆国憲法の修正第一四条によって、「能力者は望まない治療を拒否する自由という利益を憲法上保障されている」。

 「後見人が栄養と水分の中断を求める手続きにおいて、州が明確で説得力のある証拠の基準を適用することは許される」。つまり、「死ぬ権利」を含む治療拒否権は憲法上認められること、しかし、この権利は無制約のものではなく、代理人がこの権利を主張している場合に、ある基準を満たす証拠の提示を求めて、その行使を制限することも憲法上許容される、という判断を示したのである。

 連邦最高裁判所の判決が出された年のうちに、ナンシーの両親は三人の友人の証言を新しい証拠として審理の再開を求めた。クルーザン事件の第一審の判決を出したミズーリ州巡回裁判所は、ナンシーが栄養・水分の中断を希望していたことを示す「明確で説得力のある証拠」が存在したとして、両親に対して栄養・水分を補給するチューブを取り外す権限を与える判決を、一九九〇年十二月十四日に出した。この判決に従って、チューブが外され、ナンシーは一九九〇年十二月二十六日に永眠した。



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