作家の部屋 「ダルタニウスの苦悩」

2006/11/02(木)06:40

全面的核廃棄なんてものは

情況論(28)

今、世界は北朝鮮の核実験に揺れている。核保有国が核拡散防止条約を振りかざし、国連を背景に核開発を禁止している。それをお構いなしに核開発、核保有する他国の論理は、戦争で敗北しないため、交渉で負けないため、核の驚異に屈服しないためには、持つことが、持たざることよりも有利だという利点にある。  核保有国が、他国に核を開発するな、核を持つなと言っても所詮は無理がある。 自分が核放棄をしない限り、論理は矛盾しているからだ。  核戦争が起きれば、恐らく地球は滅亡するか、人類は大ダメージをうれることは間違いない。そこまでの破壊兵器を、とうとう人類は作り上げてしまった。  例えば、現代のアメリカが「銃社会」だが、銃を全国民が蜂起さえすれば少なくとも安全が保証される。しかし、それができない以上、銃には銃で対抗せざるを得ないため、銃を持たない訳にはいかない。身を守るための最低の道具だ。これと同様の論理が核保有には潜んでいる。  核を持たないと対等交渉ができない、相手国に舐められたままで服さなければならなくなる。いざという時の懐刀としての核保有こそが、国家を守る自衛の最良の道具ということになる。保有してしまえば核保有国として認知される。  つまり、人類は核を一度保有してしまったからには、もう後戻りは絶対にできない。つまり、核の廃絶等ということは、夢の又夢。現在の国家主義の世界では、核の廃止や核廃棄などはありえない。これが、真実言えることなのです。  ただし、たった一つだけ核廃絶のチャンスが残されています。それは、国境がなくなると言うこと。つまり。国家がなくなれば、核兵器を持っている意味も必要性もなくなるので、人類は核兵器を持たなくて済むと言えます。それだけが、残された唯一の道です。人類の英知は、果たしてそこまで行き着けるでしょうか

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