九州の駅

2023/05/22(月)20:16

竜田口駅 細川ガラシャの駅名標 JR九州 豊肥本線

豊肥本線(16)

竜田口駅(たつたぐちえき)は熊本県熊本市北区黒髪七丁目にあるJR九州・豊肥本線の駅です。 1914年(大正3年)6月、宮地軽便線の熊本駅~肥後大津駅の間の延伸開業に伴い開業しました。 1990年(平成2年)1月、JR貨物の駅が休止、貨物列車の設定廃止。駅付近に日本石油(現在のENEOS)熊本油槽所があり、施設への専用線もあったそうです。日豊本線の鶴崎駅隣接の九州石油・大分製油所からここまで、石油送貨物列車が運行されていました。 1993年(平成5年)12月、JR貨物の駅(貨物の取扱)が廃止。廃止後も2003年ごろまでJR貨物の所有地が残っていたとのことです。 2022年(令和4年)3月、切符売り場が営業を終了し無人駅となりました。 駅構造は、木造駅舎と島式ホーム1面2線を有する地上駅で、駅舎とホームは構内踏切で連絡しています。 国鉄時代末期には当駅折り返しの列車も設定されていたそうです。 2019年度(令和元年度)の1日平均乗車人数は732人。 駅前には国道57号線があり、産交バス・電鉄バスがそれぞれ走っています。 駅の周辺は白川と立田山に挟まれた狭い土地ですが、山に沿うように住宅街が広がっています。 また近くには、立田自然公園(泰勝寺跡)があります。 泰勝寺跡(たいしょうじあと)には、江戸時代を通じて肥後熊本藩主・細川家の菩提寺であった「龍田山泰勝寺」(りゅうでんさんたいしょうじ)が建っていましたが、明治初年の神仏分離令発布後に廃寺となり、今は正式名称として細川家立田別邸と呼ばれています。 竜田口駅の駅名標には、江戸時代の1632年(寛永9年)に肥後国・熊本54万石の領主となった細川忠興の妻・細川ガラシャが描かれています。 細川ガラシャは明智光秀の娘で玉子(たまこ)というのが本名ですが、キリスト教徒になり”ガラシャ”(ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けました。 細川ガラシャは関ヶ原の戦いが起こる数日前、西軍・石田三成の人質にならないために36歳の若さで死んでいます。 大変美人で、また頭の良い女性でしたが、父の明智光秀が本能寺の変(1582年)を起こしたことにより、その半生は夫の細川忠興に軟禁もしくは縛られ続けた人生と言っても良いでしょう。 夫の細川忠興(ただおき)は、肥後国・熊本領主となるような優秀な人物でしたが性格に多少の難があり、自分の美しい妻・細川玉子(ガラシャ)に対しては結婚してから彼女が死ぬまで執着し続けました。 現代でいうストーカーと何ら変わることはありません。 彼女が死んだ理由も、夫の細川忠興から「人質になりそうな場合があったら、人質になるよりも自死を選べ」と言われたからにほかなりません。 また、細川玉子も美しく聡明な女性でしたが夫に「キリシタンにはなるな」と言われても、それを無視するような気の強さがありました。 細川忠興・玉子(ガラシャ)夫妻を表した言葉に「鬼の夫、蛇の妻」という言葉がありますが、この2人の夫婦生活においてぴったり当てはまる言葉だと思います。 そして、竜田口の駅名標には細川ガラシャが描かれていますが、細川ガラシャは1600年に大阪で亡くなっており、江戸時代になった後に夫の細川忠興は1632年に肥後熊本の領主となったため、ガラシャが熊本に来たことは一度もありません。 ただ、細川家の菩提寺であった泰勝寺に夫の忠興が細川玉子の墓を作ったために竜田口駅の駅名標にも描かれることになりました。 しかし、夫の細川忠興は一方的に自分の妻・玉子(ガラシャ)を好きだったでしょうが、ガラシャのほうは夫・忠興に夫婦としての愛情はあったのでしょうか、そして、自分の骨を細川家の墓に入れてほしいとはたして望んだでいたのでしょうか? もし、細川ガラシャ(明智玉子)が戦国時代ではなく現代の令和の時代に生まれていたら、彼女はバリバリのキャリアーウーマンになっていると思います、美しい人だから恋愛はするでしょうが、結婚などという制度にはとらわれなで生きていたかもしれません。 豊肥本線全線開通ネクタイ 大分 青 鉄道グッズ 豊肥本線 全線開通 記念 九州 熊本 阿蘇 大分 常温

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