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カテゴリ:カフェ感
赤壁の戦い(レッド・クリフ)。 少ない兵の呉の国、孫権が、 強大な敵、魏の国、曹操に完勝した話。。。 しかし、 その7年後立場が逆転する。 再び、 魏(ぎ)と呉のあいだで戦いが始まる。 ”合肥の戦い” 呉の兵力、100.000 魏の兵力、800 勝ったのは、どちらかというと、 800の少ないほう、つまり魏の国だった。 そういえば、 先日、 楽天の野村監督が、 WBCで日本が韓国にコールド勝ちしたとき。。。 ”だいたい大勝ちしたあとは、点が取れずに負けるもんや。。。”と言っていた。 その通りになった。。。 この800名の兵士を指揮していたのが、 魏の名将、張遼(ちょうりょう)だった。 もともと張遼は、 魏と敵対する国の武将だった。 張遼は若い頃、魏の曹操に負けてしまう。 しかし曹操は張遼を殺さなかった。 そして張遼に言う。 ”おまえは力はあるし、武器の使い方もうまいが、勉強が足りない。 だから私に負けたのだ。” といって、 孫子(そんし/戦の教科書)をわたして、勉強させ育てあげる。 張遼は、曹操から、その本をもらって驚く。 本を開くと、 アンダーラインや書き込みなどで、元の文章が読みにくくなっていたそうです。 一方、呉の国では、その後、 張遼に敗れた後、トラウマになるくらい張遼を恐れた。 たとえば、 どうしても泣きやまない子供がいた時。。。 ひとこと、 ”泣いてばかりいると、張遼がくるぞ ” というと、 どんなに小さな子供でもピタリと泣きやんだと言われている。 それほど、張遼は恐れられた。 張遼の家は、 じつは魏の国で一番子供の多い家だった。 だいたい80人近くいたといわれている。 庭先には所狭しと洗濯物が並べられていた。 その子供たちとは。。。 戦争で親を失った子供だった。 ある時、 魏の国の文帝(曹操の息子)が宮殿で行なわれる宴席に張遼の母親を招こうとして みずから張遼の家を訪ねたときがあった。 そのときの会話をひとつ紹介したい。 文帝 ”以前より、戦いで孤児になった子供らを引き取って育てておられることは 聞いておりましたが、 いったい、いま、何人ぐらいの子供たちを育てていられるのですか?” 張遼の母親 ”たくさんいて覚えておりませんが、たぶん70人ぐらいはいると思います。” 文帝 ”。。。。。” 張遼の妻 ”昨日までは74人でしたが、今朝、3人の赤ん坊が門の前においてありましたので あわせて77人です。” 文帝 ”それにしても77人。。。 なかなか大変なことも多いのではありませんか?” 張遼の母親 ”わたしの生まれ育った村では、 戦いで親を亡くした子供の面倒を見るのは当たり前のことでした。 どんな貧しい者でも、必ず何人かは世話をしておりました。 実際のところ、わが子のことを心配していたら戦いに全力を出すことは出来ませんから。。 しかし、 本当は、戦いがなくなり、親のいない子供がいなくなるのが一番良いことです。” 文帝 ”あなたは、まさに国の母だ。” 張遼は戦にめっぽう強かった。 それだけに休む暇なく闘い続けた。 結果、この名将は54歳の若さで亡くなる。。。 文帝は、 ふたたび張遼の年老いた母親の許を訪れて。。。 文帝 ”わたしが無理をさせてしまいました。どうぞお許しくだされ ” すると、張遼の母親は、 静かに頭を下げ ”部門に生きるものは、家を一歩出た時に、 すでに死を覚悟いたしておりますから、どうぞご案じ召されませぬように ”と答え なにごともなかったかのように、 抱いていた赤ちゃんをあやしていたという。 。。。。。。。。。。。。。。。。 張遼が、 息子に遺したことばをひとつ紹介したい ”わしらは親子ともども、武人として生きてきたが、 お前の子供(つまり孫)は、くれぐれも同じ道を歩ませるでないぞ。” ”戦(いくさ)の上の事とはいえ、わたしは大勢のものたちを殺してしまった。。。 多くの人間を殺してしまった不詳を、後世に伝えるわけにはゆかぬ。” いいか、よく聞け ”武将として三世に及ぶ者は、必ず滅びる。” 先日、 ブログに二世議員の話を書いていたら。。。 ふと、 この、張遼のことばを思い出しました。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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