あの日‥3.11
浅田真央 NHK杯スペシャルEX「ジュピター~未来への光~」より六年前の大晦日、私は、突然、脳出血で倒れた。その年は正月どころではなかった。気が付くとベッドの上。大手術だったそうだ。 そして‥救急の大学病院からリハビリセンターに移ったばかりの2011年3月11日、太平洋三陸沖を震源とするマグニチュードMw9の地震が起こった。ちょうど病院に夫が来ていて、私は車イスで地下の食堂にいたのだが、あまりの揺れにお茶を飲んでいることも出来ず、食堂にいた数人と共に外に避難した。東北から関東にかけての大地震はその後、大津波を引き起し同時に福島第一原子力発電所事故という人災をも引き起こすことになった。揺れも治まって部屋に戻りテレビを付けると目を覆うような光景が映し出されていた。リハビリセンターでの食事は食堂でみんな一緒に食べるのだがここにも大きなテレビがある。入院中の人達は東北の悲惨なニュースを見るのを心なしか嫌がった。みんな自分が生きるか死ぬかの瀬戸際で、将来を考えると不安でいっぱいだったからだろう。正直いって私も、ところどころ記憶がぼんやりとして悪夢でも見ているような気がした。 しかし、私にとって仙台は第二の故郷のようなものだ。嫌でもニュースから目が離せない。私は十代の頃、仙台の国立西多賀療養所(現・仙台西多賀病院)で大きな手術を受けて命拾いをした。当時、ここは不治の病と言われた結核や筋ジストロフィ、脊椎カリエスといった難病を受け入れる療養所だった。多くの友人がまだまだ生きたいと願いながら旅立っていった。私のように奇跡的に社会復帰できた人間はそんなに多くはないだろう。だから、命の恩人のドクターとは今でもお付き合い頂いている。 仲が良かった同級生の実家は宮城県七ヶ浜町で、かつて泊りに行ったら家族総出で歓待してくれたこともある。あの家族はみんな無事だろうか。また日本とスペインと往復した「慶長遣欧使節団」を乗せた「サン・ファン・バウティスタ号」を見るために石巻市まで足を伸ばしたこともあった。雄勝湾は古くから「月の浦」と呼ばれており、夕暮れ時の入り江を見つめながら、月に照らされ夜の海に浮かぶ帆船のシルエットを想像したことを昨日のことのように思い出す。 牡鹿半島の北に位置する険しい谷間と深い入り江。あの海が‥ あの町が‥ 屈託のない笑顔で迎えてくれたあの人達は‥ベッドの上で、繰り返し襲う余震に怯えながら、病室でなんにも出来ない自分が歯痒かった。 テレビが映し出す地元の人達は、なぜか「あっはは、何にも無くなっちゃって、あっはは」と笑っている場面が多かった。どうしてこんなとき笑えるのだろうと不思議に思っていたが、先日、よしだみどりさんのエッセイで『人は、どうしようもない程の悲しみや、極度の恐怖を感じると、笑う?らしい』とあるのを読みハタと腑に落ちた。と同時に、これからの「社会の豊かさ」はみんなが幸福になるための条件を持っているかどうかという、新しいモノサシが必要になるだろうとも思った。 法政大学総長で江戸文化研究者の田中優子さんは著書の中で『江戸文化の本質は「循環」と「因果」の価値観であった。今のように勝ち負けを基準にすると常にそれを壊し続けるしかない。日本の各地を歩いてみると、そこには、地に足のついた知恵者や知性がいて、彼らは山を知り川を知り自然を知っているからこそ、祭りや芸能の存在理由も理解し、実践できている。だから江戸学を未来学としてとらえ、人々のかかわりかたを見つめ直せば、私たちは、まだ、間に合う』(未来のための江戸学・この国のカタチをどう作るのか) と提言している。 もちろん、たとえ望んだとしても私たちは後戻りするのは不可能だ。それでも、いい空気と水、豊かな生態系が周りにあれば、家族そろってご飯を食べるという人間らしい幸せを手にすることは出来ると思う。 命は自分のものだけではなくて、過去と未来をつなぐもの。「ああ、生まれて来てよかった」という希望の光を、未来を繋ぐ子供たちに残してあげたい。この子たちがこれからを背負って行くのだから‥。そして、未来は、人間も含めた自然との調和の中にしかありえないとも思うから。 被災された方の中には、苦しい避難生活の中ででもヒマワリを育てたり、地元の祭りや音楽祭を開催したり、手作りの小物を作ってバザーをしたりなど、楽しい企画を考える頼もしい人たちがたくさんいて、病気でなかったら私も参加したかったくらい逆に励まされている。いつか、自分の目で見て、記憶にとどめて、忘れないようにするくらいしか出来ないだろうけれども、ささやかな感謝の気持ちを届けたい。そして、日常が突然断ち切られた「あの日」は、いま、東日本大震災と呼ばれている‥。