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カテゴリ:音楽
趣味で音楽(昔はクラシック音楽、今はもっぱら古楽)をやっている亭主にとって、常日頃から漠然とギモンに思っていたことの一つは、「音楽大学」と称する教育機関で一体何を教えているのか、というもの。このギモンをもう少し噛み砕くと以下のようになります。
まず前提として、いわゆる「大学」という教育機関は、学生に「ものの見方・考え方」を教える(それによって自立した人間となる)場である、という点で職業訓練学校とは違うというのが大方の理解だと思われます。(この定義、だいぶ古風でエリート主義的な匂いもしますが、ジャーナリストで東工大の客員教授でもある池上彰さんが言っていたことでもあります。) 一方で、亭主にとって音楽大学のイメージはと言えば、まさに職業訓練校そのもの。例えば東京芸大音楽部のWebページを眺めると、そこには声楽・器楽・指揮・邦楽・作曲・楽理科といった昔ながらの専攻があります。これらのうち、声楽・器楽・指揮・邦楽科ではそれぞれの「楽器」(声やオーケストラも広義の楽器)の演奏ノウハウを、作曲・楽理科では音楽作りや分析のノウハウを教えていると想像されます。別の言い方をすれば、そこで卒業後の進路(「出口」)として想定されているのは、プロの演奏家・作曲家、あるいは教師、といった狭い選択肢しか見えません。 とはいえ、たったこれだけの選択肢では、私学も含めて毎年万単位でいるだろう音大卒業生の需要を満たせるのか、という素朴なギモンが湧きます。これはそのまま前述の意味での「大学」という名に値する教育機関の役割を果たしているのか、というギモンにもつながります。 表題の書物、亭主は最近偶然ネット上で遭遇し、日頃からくすぶっていたギモンに火がついた感じで早速入手し、一気に読了するとともに、多くのギモンが解消することに。 今年6月に出た新刊書ということもあり、あまりネタバラしになるようなことをここで書くのは控えたいと思いますが、著者が以下に掲げる「音大の7不思議」は彼の問題意識を端的に表していて、亭主も大いに共感しているのであえて引用しておきましょう。 1)学生は新卒という貴重な就職機会をなぜ活かさないのか? 2)なぜ大学側が卒業後の進路に意識が向かないのか? 3)”音楽”大学なのに、なぜいまだにクラシック中心なのか? 4)卒業後の進路として人気の高い演奏家や音楽教室の先生は個人事業主なのに、なぜ経営学や会計・税金の授業がないのか? 5)音楽教室や吹奏楽指導など、音楽関係の指導者を多く輩出しているのに、なぜ指導法についての授業や研究がないのか? 6)モンカセーってなんだ? 7)音楽教育界にはなぜ行政などに要望を伝える団体がないのか? 実際、1)と2)の問題のために、音大出の人達は卒業後30歳を過ぎて働き口がなくなり、困窮するケースが目立つとか。これと3)の問題が密接に絡んでいることは明らかで、音大の教授陣はいまだに「クラシック音楽至上主義」に囚われているようです。(片山杜秀氏の「音楽放浪記 日本之巻」巻末にあった三浦雅士さんの「あとがき」が頭をよぎります。) 4)、5)についても、元を辿れば3)の問題に帰着し、「クラシック音楽演奏・作曲のプロを輩出する」という狭い職業訓練意識に囚われているということかもしれません。 6)は、このブログでも何度か話題にした、音楽界における旧態依然たる徒弟制度を問題にしたもの。演奏家がハクをつけるために自身のプロフィールで「〇〇先生の門下生」という「偉い先生」の弟子であることを自慢げに書くことを揶揄した表現です。これこそは、クラシック音楽界の構造的な問題の一つで、かつて医学教育などでも見られた「エビデンスに基づかない(権威主義なだけの)」教育研究と治療と酷似しています。(反田恭平氏が新しい学校を作りたい理由のひとつも、このような徒弟制度からの解放を目指してのものでした。) さて、これだけだと本書が音大の現状を単に批判しただけの書のように誤解されてしまいそうですが、実際にはその真逆です。 著者は、まず冒頭で音楽教育の目的が演奏家養成にあるのではなく、演奏家になるのは一つの結果に過ぎないこと(これはピティナの創設者、福田靖子さんの著書「音楽万歳」にあった言葉だとか)、さらに音楽教育が持つ全人教育的な側面を明確に打ち出し、その大きな可能性を説きます。 この一節を読んで、亭主は即座にあのエル・システマ(ベネズエラで始まった音楽教育活動)のことを思い浮かべました。創設者の理念「音楽は社会の発展の要因として認識されなければならない。なぜなら最も高度なセンスにおいて音楽は最も高度な価値、連帯、調和、相互の思いやりと言ったものをもたらすからである。そして音楽には全共同体の統一させる能力と崇高な感情を表現することのできる能力があるのだ」(ウィキペディアより)を読むと、音大も大学として同じような自覚が必要だろうと思われます。 さらに本書では、このような音楽教育の可能性を活かし、現状を打破するためにこれから音大関係者がなすべきことを色々と提言しています。単なる野次馬である亭主から見ても、提言はどれも首肯できるものに思えます。 また、現状批判の部分についても、著者は「音楽」という科目をとっかかりにして、戦後の義務教育の有為転変から現在の大学・大学院における問題(博士研究員の就職難など)まで目配りし、かなり大きな背景の中で音大の問題を捉えています。「音楽教育は、日本復活の鍵になる!」という腰巻の惹句も、本書を一読するとあながちホラでもなさそうに思えてきます。 それにしても、本来であればこのような内容は音楽ジャーナリズムがきちんと取り上げるべきもの。亭主の生業である自然科学研究の分野ではそのようなジャーナリストが大いに活躍しており、我々も彼らから色々と学ぶところがあります。 しかるに音楽ジャーナリズムの現状はというと、個々の演奏会の批評や音楽家個人の活躍といった記事ばかりが幅を利かせているように見えます。これらはそれなりに重要で価値もあるのでしょうが、根本に横たわる構造問題を放置していると、そのうちクラシック音楽界そのものが消滅してしまうかも? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 2, 2022 06:50:24 PM
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