第四章~オーク村編2
Ragnarok Memories
第四章 ~怒涛のオーク村編2~
五節:~高台で~
太陽はもう相当高いところまで来ていた。そんな中、ピラミッドに向かってとりとめのない話をしていると、遠くから男が手を振り歩いてきた。やがて徐々に露になる輪郭に手を振り返す二人。
「シュレンさん!」
男は、身長の3分の2はあろうかという大きな樽を両手に1個ずつ抱えていた。灰色の髪は少し薄くなってはいるものの、バンダナの下から覗く鋭い眼光は、"元ギャングスターパラダイス"の名を語るには十分であった。身長もサマンサに勝るとも劣らない。ただ、横幅は彼女の半分ぐらいであった。
「おおう、ハワードに…バーネット!二人で遊んでるのかい?」
樽の片方を下ろして無精ひげをなぞるように撫でながら尋ねると、二人はこくりと頷いた。
「シュレンさん、そんなに持って重くないんですか?」
その質問に彼は笑いながら、片手に持っていた樽を軽々と上下に動かして見せる。
「おじさんの力はこんなもんじゃねぇぞ?!この前なんかまるまる太ったフェンを100匹ぐらい海からずっと運んできたんだぜ?」
どうだという具合に胸を張るハワードだが、「お前が自慢するな。」とシュレンに拳骨を食らった。しかし、この拳骨――ただの拳骨ではなかった。決して重力に逆らわず、直角に加速しながら振り下ろされたシュレンの拳が正確に頭のてっぺんを打つ、一種の芸術作品だ。ハワード曰く、サマンサの何倍も痛いらしい。
「っ……」
もはや悲鳴は出ない。地面にめり込むぐらいの衝撃を頭に受けると、ハワードは頭を抑えることもせずただ痛みを脳が感じ取っていた。それをバーネットが愉快そうに見ている。
「おう、こんな事をしてる場合じゃなかった!サマンサに早いとここの水持っていかねぇと。」
やがて笑うのをやめ、はっと気づいたように降ろした樽を再び担いだ。
「じゃ、また後でな。暗くなる前に帰ってこいよ?…っと。」
ハワードたちが歩き出したシュレンにさよならを言おうとしたが、シュレンのほうが振り返る。そして、樽を再び下ろして胸元から小さなポットを二つ取り出し、そこに樽の水を少し汲んだ。
「ピラミッドの方にいかないなら、水がねぇだろ?これやる。」
案の定二人はピラミッドに向かっていて水は途中にあるオアシスで汲めばいいと思っていたが、この場でその事を言ってしまうとピラミッドに行くのがバレるので、素直にその水を受け取った。ひんやりとした感触が実に心地よい。
「そんじゃ、またなー!」
こうしてシュレンと別れたバーネットたちは、思いがけず手に入れた水を飲みながら、足早にピラミッドへと向かっていった。
水を得た二人はオアシスまでを快調に進み、太陽が一番高い時間になると、ピラミッドに到着していた。
「ついた~!」
人気のないピラミッドの影に入り、しばらく汗が引くのを待った。
「お前が言うその場所まではどうやって行くんだ?」
上着のネックをパタパタと仰ぎながらバーネットが聞く。
「ふっふっふ……実はこの前オークのビュステたちと来た時、ピラミッドの横に秘密の通り道があるの見つけたんだ。」
それを聞いてバーネットは興奮した。
「本当か?!それは大発見だ!早く行こうぜ?」
「そうだなー。ここで弁当食おうと思ったんだが……上で食うか!」
開きかけた弁当の包みを戻し、ニヤリと笑いを浮かべながらこっちだと、前を小走りに走り出した。
ピラミッドの正規の入り口から少し西に行ったところで二人は止まった。そこは、他の場所と変らず大きな石の壁が数ミリの幅もなく丁寧に積まれている。
「ん?ここのどこに通り道があるんだよ?」
疑わしげにハワードを見つめると、彼はちっちっちと人差し指を立てて左右に振った。
「目を凝らしてよ~~~く見てみろよ!」
言われたとおり、ハワードが指した辺りを注意深く見るバーネット。
「あ!」
すると、何かを発見したようだ。思わずバーネットの顔から笑顔がこぼれる。
「ここだけ石の色が微妙に違う…!」
「その通~~~り!んで、案の定、そこを押してみるとー……」
ハワードが言う前、すでにバーネットはその色の違う石を押していた。ギイィ…という鈍い音と共に、扉となったその石が奥に吸い込まれていく。
「全くムードのない奴だな。」
説明している間に行動を起こされて悪態をついた。しかし、そんな事もお構い無しに彼はぐんぐんと一人で進んで行く。
「お、おい!待てよ!置いていくなってー!」
奥に続く深い闇の中が、二人の幼い冒険者を迎え入れた――
「なんて言うか……感動した。」
高台に立ったバーネットは、そこから見える景色を眺めて深く詠嘆した。
ハワードの教えてくれた道は長い階段であった。螺旋階段になっていて、それが延々と上へと繋がっていた。二人の冒険者は心を躍らせながらそれを昇る。すると出口のようなものが見え、そして心地よい風が吹き付ける、砂漠の砂も届かないほど高いところに出た。
「な、最高だろ?」
少し遅れて現れたハワードがポンとバーネットの肩を叩いた。南北東広大に広がる砂漠。そしてあんなに小さいのかと思ってしまうほどのモロクの町が眼下に位置し、その東には森が広がり、さらに果てには青い大河が望める。南北にも砂漠を隔てて森がどこまでも遠く続いていた。
「世界は広い…って事か。」
「そうだなぁ。ここから見えねぇところにまた同じように俺たちみたいなのが暮らしてて、さらにその先にまた同じような……って考えると世界ってすげぇよな。」
しばし、二人はその羨望を前にし、恍惚に浸っていた。町に見える人の小さきを見て、世界の無限の広がりを感じて、自分たちの未来に夢を見ながら……
そして、それはハワードのぐうという腹の音でしばし忘れ去られることになった。気づけば太陽は東の空には見えず、西に傾きつつある。二人はサマンサ(とハワード)が作った弁当を開いて、食べ始めた。
「どうだ、俺のお手製の焼き魚は?」
スプーンをバーネットに向けてマイクのようにし、感想を覗う。
「ひどく苦いな。」
「は?お前の舌がどうかしてるんじゃねぇか?……うぇ、苦っ!」
そんなバカなと弁当箱の中からまるまると焦げた焼き魚を口に入れたハワードは、すぐにそれを高台から吐き出した。そしてオニギリを乱暴につかみ、口に押し込んで水で流し込んだ。
「お前、よくこんなもん平気な顔して食えるなぁ。」
「作った本人の言う事じゃないぞ……」
そしてしばらくは弁当に舌鼓を打ち(ハワードは専らサマンサの作ったモノばかりを食べていた)、食べ終わると膨れたお腹をポンと叩いて二人はその場に仰向けになった。
「ふう……食ったぜー。オシリス様今日もおいしいご飯をアリガトウゴザイマス。」
機械のように片言でそんな事を言ったあと、しばしの沈黙が続いた。
「なぁバーネット。」
急に起き上がってバーネットの足をちょんちょんと叩いた。
「何だよ?」
「チヨ様をお嫁にください。」
「意味がわからん……」
「えー、じゃあ『お兄さん』と呼ばせてください!」
「そういう事じゃない!今のタイミングでその話が出てくる意味がわからんと言ってるんだ!」
「まあまあ、そう熱くなりなさんなって。冗談だよ。まぁいいなら喜んで行くけど!」
「いいわけあるか!」
「わーった、わーった!そう怒鳴るなよ…全くジョークの一つも通じない奴だなぁ。」
それからまたしばりの沈黙。ハワードは何を話そうかと迷っている様子であった。
「お前、将来何になるんだ?」
そしてやっとしぼりだした普遍的な会話。バーネットはそういう話を待ってたと言わんばかりに体をぐっと起き上がらせた。
「そうだな、後1、2年したら俺は世界を回ってみたいと思う。」
「"ユミルの旅"って事か?」
「いや、今すごい人数が旅してるだろ?きっと俺たちが大きくなるまでには誰かが倒してくれるよ。だから、俺はその世界で旅をしたい。もちろんモロクを拠点にしてな!」
「"チヨの病気を治せる特効薬"を探すのかい?」
その言葉に少し不機嫌な顔をしたが、ハワードの顔が真剣だったので、ちゃかしているわけでないとわかり、その感情を抑えた。
「……わかってる。」
「今チヨはどうなんだ?」
その時一際強い風がゴオォォォと二人に吹き付ける。
「元気だよ。めちゃくちゃ元気!病気なんてかかってないんじゃないかってぐらいさ!さっきも見ただろ?」
「そうだな。」
チヨの重病とは"十年病"と呼ばれるもので、発症すると全身に悪性腫瘍が転移していき、十年以内に死んでしまうという未だ原因不明の病気だ。チヨはこれを4年前に発症してしまった。
「じゃぁ…」
「大丈夫だよ…大丈夫だからその話はもうやめよう。」
決して好奇心からではなく、バーネットの親友として、チヨの現状を知っておきたいと思っていたハワードに悪意はなかった。もちろん、それはバーネットもわかっている。わかってはいるが、やはりその話をするのは辛かった。昨晩チヨが顔をぐちゃぐちゃにして咳き込んでいたのを思い出すバーネット。「苦しいよ……苦しいよ……」そんなうめき声を上げていたチヨ。必死に両親が介抱する中、彼は足が竦んでしまい、何もできなかった。彼はそんな自分を恥じた。それでもチヨはバーネットを「お兄ちん」と慕ってくれる。またそれも嬉しい反面辛かった。
「お前は…何になるんだよ?」
取り繕った笑顔で尋ねるバーネット。それを見たハワードはすぐにそれを見抜いたが、心に留めた。
「俺様はなぁ、バーネット!」
そしていつものように元気に立ち上がり、ちょっぴり悪戯っぽく笑いかけた。そして高台の端まで歩いていき、そこで振り返って大きく両手を広げた。
「モロクの町を活性化させるための旅に出る!こんな辺鄙な町じゃモロクもいずれは朽ち果てしまうだろ?だから俺は砂漠をみんなが安全に渡れるようにすげぇモンを作ろうと思ってる!そいつはな……」
元気を失いかけていたバーネットに親友からエールを送るように力強く話した。
「アイスさ!」
「…アイス?」
「そうさ!って言ってもただのアイスじゃねぇ!砂漠を横断してもよ、溶けないアイスを作るんだ!」
「それがモロクを救う事とどう関係があるんだよ?」
バーネットがそう言うと、彼はちっちっちと人差し指を立てて左右に振った。
「大有りさ!いいか、この前酒場に巡礼者のご一行が来ただろ?あん時旅の騎士さんがこう言ってたんだ。」
真似をするよう両腕を組んで顎に手を当てた。
「"砂漠を渡ってモロクに来るのに何が大変かって、そりゃあの乾きだな。"」
「そんなものは水でも何でも持ってくればいいじゃないか。」
「お前はダメだなぁ。水よりもアイスの方がいいに決まってるじゃないかっ!いいか、お前。目の前にアイスと水置いてあったらどっちをとるよ?」
「…アイス。」
「だろ?」
「何か違う気がする……」
「違うもんかよ!人間うまくていいものをとるに決まってる!そうすりゃぁ俺は大金持ちになって……」
「お前、金持ちになりたいだけだろ?!」
「ち、ちげぇよ!そんな事ねぇよ!バカやろう!何て事言うんだ!ち、ちげぇよ!」
ハワードの本心はさておき、彼はこの計画にかなりの勝算があるとふんでいた。それは巡礼者たちがたまに持ってくる土産話や、本などによってつけられた確かな知識に基づくからだ。それは氷の結晶"ミスティックフローズン"。それは神聖な海底洞窟の最下層にあるとされる海の秘宝であり、ちょっとやそっとの熱では溶けない不思議な鉱石らしい。
「まぁ、お前も旅に出るならお互い死なないようにしような。」
いまいちハワードの話を理解できなかったバーネットだったが、"ミスティックフローズン"の話は聞いた事があるので、少し納得できた。ただ、それをアイスにするのはどうも納得いなかいらしかったが。
「おうよ!――っと、もうこんな時間か。」
気づけば二人が話し込んでいる間に、光は白から紅色に変っていた。
「そろそろ帰るか。」
そう言ってまだ開いたままだった弁当箱を片付け始めた。
「また、来ような!今度はチヨ様も連れてさ!」
かつて、この場所は数千年前、砂漠地帯を支配した王の秘密部屋であった。彼はごく親しい友のみここに招き、宴をした。
彼は夕日で紅く染まったこの世界を見下ろし、杯を仰ぎながら言った。
――見よ、この世界の遥かなるを。見よ、人のなんと小さきを。我思う、幾千の時を越えて、ここに辿り着く者現れけんを。さらば、永久の御世までその者に幸あれと願う。――
国の名は"テーベ"。王の名は"オシリス"。
それはずっとずっと、昔のお話――
六節:~おんぶ~
夕日は影という影を長くし、その日の役目を終えてゆっくりと沈み始める。気づけばだいぶ風も冷たくなってきていた。砂漠の虫たちも厳しい夜の寒さに耐えるため、それぞれ地中に潜っていった。
二人は長くなった影を追いながら、家路へとついた。モロクの町はすっかり夕日に照らされ、どこもかしこもほんのりと赤みを帯びている。二人は別れる場所まで愉快に話をしながら進み、お互い別れの挨拶をして家に戻った。
その道をまっすぐ進み、突き当りで曲がるとそこはバーネットの見慣れた家だった。まだ明るいが窓からは黄色い光が漏れている。彼はここに来て一日の疲れがどっと出た感覚に囚われた。それと同時に深い安心感に包まれる。この幸せな日々(バーネットはチヨの病気を必ず治す自信があった)が永久に続く――考えただけで嬉しくなった。
「ただいまー。」
慣れた手つきでドアを開けると、中から家の匂いが彼を出迎えた。再び一日の疲れと安堵感を感じ、しばし玄関に立ったままそれに浸る。
「おかえり。」
「おかえりなさい。」
両親は何やら居間で真面目な話をしていたようだが、バーネットの帰りと共に柔らかな声を出した。しかし、子供というのはどうも奇妙なところに敏感であり、バーネットはその声に少し違和感を感じた。
「どうしたの?」
居間までゆっくりと歩き、ソファーにどっしり座り両親を見上げた。彼らの顔には一抹の不安が感じられる。
「いやね、お昼前にチヨをお使いに出したんだが、まだ戻って来ないんだよ。」
「"蜥蜴亭"だからたぶんサマンサさんに料理でも習ってるんでしょうけど、少し遅いわねぇ。」
そう言い、母は手を顎に当てて軽く笑った。
「俺見てくるよ。サマンサさんにお昼のお礼もしたいし。」
「そうしてくれる?」
バーネットは頷き、疲れた足に鞭打って再び家を飛び出した。後1時間ほどで日没を迎える世界が彼を囃す。バーネットは不安を感じずにはいられなかった――。
「まだ帰ってない?おかしいね、お昼過ぎには帰したんだけど。」
勢いよく「悪人大歓迎」のドアを開け、なだれ込んできたバーネットは襲撃犯と間違われ、客たちに銃口を向けられた。それをサマンサが制して奥に連れていき、エプロン姿になったシュレンと話を聞く事になった。
「やっぱりアンタが家まで送ってあげればよかったのさ!」
そう言ってサマンサはシュレンの頭を拳骨で殴った。
「んな事言ったってよ、チヨちゃんが一人で帰れるってきかねぇもんだから……」
「チヨちゃんにもしもの事があったらどうする気だい?」
「おばさん、おじさん、チヨはここで何してたの?」
「最初は俺と裏庭で砂のトンネルを作ってたぜ。んで、サマンサがひと段落したもんだから、チヨちゃんを厨房に。」
シュレンが涙目でサマンサの方を向くと、彼女もうんと頷いた。
「その後はあたしと一緒にフェンのダシで簡単なスープ作ったよ。それで、すごいその味が気に入ったらしくてねぇ、今日帰ったら作ってあげるんだって言ってたね。」
「それから?」
ゴクリと唾を飲むバーネット。あまりにも情報が少なすぎた。
「うーん……その後はまた客が多くなってきたから二階のハワードの部屋に一応上げて……そうだ!そんで急に『帰る』って言い出してドタドタ出てったよ。」
「えらい急いでたからな…家の用事でも思い出したんだろうと思ってあんまり気にしなかったんだが……」
シュレンはそう言って申し訳なさそうに頭をうな垂れた。
「ハワードの部屋か…」
バーネットはそう小さく呟いて二階に駆け出した。
「客にも見たか聞いてみるよ。」
下のほうでサマンサがそう叫ぶのが聞こえた。
「なんだ、なんだよ?!こんな時間に!?」
びっくりしたのはハワードの方であった。急にドタドタと誰かが上がってくる音がしたので何かと部屋のドアを開けたところ、すごい勢いで走ってきたバーネットにぶつかったのだ。
「チヨが……それよりお前の部屋帰ってきて何か変わった事なかったか?」
息も切れ切れにバーネットがハワードを揺さぶる。
「わかった、わかった!落ち着けって!!今思い出すからそんなに揺するなよ!!」
はっと我に返った彼が離すと、ハワードは乱れたシャツをきゅっと整えてふうとため息をつき、額に手をあてた。
「変った事ってのは具体的にどういう事だ?」
「何でもいい!いつもと違う事だ!」
「うーん……って言われてもなぁ。おばさんが開けたんだろうけど"ハーブ大全集"って本が出てたくらいしかなぁ。」
「ハーブ……!!」
そして、何かに気づいたように顔を上げ、再びドタドタと階段を下りていった。
「ったく…何だってんだ?」
ハワードは不思議そうに顔を傾けていたが、深く深呼吸すると部屋の隅においてあった長めの剣を手に取った――
――数分後、バーネットは夕日の半分が地平線に吸い込まれている中、ピラミッドの方へと全力疾走していた。今日の疲れが残っているのか、足が思うように動かない。それでも彼はそんな事など気にする様子もなく、疾風のように夜になりかけたモロクの町を抜けていった。
"ハーブ大全集"……文字通り世界に存在するありとあらゆるハーブの事が書いてある本。そして、サマンサの話によると、"フェンのダシで作ったスープ"には消化に良い黄ハーブが必須だとチヨに教えたらしい。加えて、客の一人がチヨらしき女の子がピラミッド前の砂漠地帯に入っていくのを遠目に確認したという情報もあった。このバラバラの事柄が導く答えは一つ――チヨが一人で砂漠原産の"黄ハーブ"をとりにいったという事だ。病気がちでほとんどモロクの外に出た事がないチヨにとって、一人で砂漠を歩く事がどれだけ危険な事か、バーネットにはわかっていた。しかも、運の悪いことに今や厳しい夜が迫っている。――そう、一刻を争うのだ。
「チヨー!チヨー!!どこだ!チヨー!」
バーネットはハーブの生えていそうな場所を探し回っていた。彼の声が空しく紅の砂漠に響き渡る。
「うわっ!」
突然砂漠の砂に足をとられ、彼の体は乱暴に砂丘を転がり落ちた。口に乾いた砂が入り込み、たまらず咳き込む。
「ゴフゴフッ…チ……チヨ…!」
立ち上がろうとしたが、どうやら足を挫いたようで一歩目を踏み出した瞬間激痛が走った。しばらくその場で悶えるバーネット。しかし、彼の周りが紅色から暗黒色に移りかわるのを見て、必死に立ち上がり、足を引きずりながらも捜索を再開した。
「チヨ……どこだ……?」
ふとその時、彼の中で時間が止まった。周りの音が一切しない。砂漠を駆ける風の音も。遠くから聞こえるモロクの騒音も。木々のざわめきも。虫たちの鳴き声も。夕暮れ、微かに黒味がかってきた空を仰ぎ、彼の目はある一点を指し示していた――ピラミッドの高台。あそこから見れば、チヨがどこにいるかわかるかもしれない。しかし、暗くなってからでは遅い。そしてその瞬間、彼の中に痛みという言葉は存在しなくなった。足が風になったように軽快に走る事ができた。そのまま彼は、ピラミッドの高台を目指す――
結末というのはこうも意外な形で現れるものなのか。朝、ハワードときた時のようにピラミッドの隠し通路、螺旋階段を抜けて高台までやってきたバーネットはそこで目を疑った。
――なんと、そこには横になって寝ているチヨの姿があった。白いワンピースでお出かけモードの服装のまま、右手には黄ハーブが3本強く握り締められている。
「チヨ?おい、チヨ。」
信じられないながらも、へなへなとその場に腰を下ろし、よだれを垂らしている彼女の寝顔に軽く手を当てた。すると、いちどうーんと目をかき、やがて起き上がって、ぐっと伸びをした。
「あれ、お兄ちん。何でここにいるの?」
トロっとした眠気眼で不思議そうに首を傾げるチヨ。その様子からどうやら何ともないらしく、バーネットは久しぶりに生きた心地がした。
「何でこんなとこにいるんだよ?」
目頭に溜まった涙を見せまいとぬぐいながら笑ってチヨに話しかける。しかし、チヨはその問いに答えず、しきりに辺りを見回していた。
「どうかした?」
「あれー?お兄ちん、ここにさ、頭に冠つけて黒いマント着たお兄ちんぐらいのすらーっと背の高い男の人見なかった?」
「誰だそれ??」
「"セト"っていう人で、アタイが黄ハーブ集めるの手伝ってくれて、この場所も教えてくれたんだよ。で、話してたらいつの間にか寝ちゃって……怒って帰っちゃったのかな?」
「変なやつだな。」
「優しい人だったよ!アタイがいけないんだぃ!……って、お兄ちん!どうしたの、その体?砂まみれじゃん!!」
何だったんだろうと考えをめぐらせていく内に、夢だったのかと思い始め、急に現実を目の当たりにしたようにはじけた声を上げた。
「あ?何でもないよ。それより、お父さんとお母さんが心配してるから、早く家に帰ろう。」
「うん、アタイ今日はいっぱい遊んだからお腹ぺこぺこ……でもね、お兄ちん!後でアタイが今日習ったとっておきのご馳走作ってあげるよ!」
きゃははと響く無邪気な笑い声。人の気も知らないで……そんな事を一瞬考えたバーネットだったが、すぐにそれを飲み込み、重い足を上げて二人仲良く手を繋ぎ、その場を後にした。
それを確認したように、誰もいなくなった高台の壁からすぅっと半透明の冠をつけた少年が出てきた。
「いやはや……いい兄弟だなあ。チヨちゃんのために黄ハーブいっぱい積んできたのに…不覚にも出るタイミングを逃したかな?まあいいや。オシリス様の滋養料理にでも使おうっと。」
そして、ひょいと再び壁の中に吸い込まれ、後にはセトがとり忘れた一本の黄ハーブが残るだけの静かな部屋になった――
――外はすっかり暗くなっていたが、日の光と引き換えに月と星々の神秘的な光に照らされ、一応地面が見える。
「寒~!砂漠の夜がこんなに寒いとは……」
チヨは鼻をたらしてはじゅるると吸い込む動作を繰り返しながら、バーネットと手を繋いで、冷たくなった砂漠を歩いていた。その言葉を聞いたバーネットはチヨの手を離し、1、2歩前に出て腰を落とした。
「ほら、おぶってやるよ。その方があったかいだろ?」
すると、チヨは嬉しそうに鼻を一度かみ、兄の背中に抱きついた。立ち上がろうとして一瞬ぐらっとなったが、何とか持ちこたえる。
「お兄ちんのおんぶなんて何年ぶりだろぉ?ドウデスカ、妹を乗せた感想ハ?」
後ろからちょんちょんとバーネットの頬をつつきながら愉快そうに兄に身を任せていた。
「重くなった。」
「れでぃにそういう事言っちゃだめだよ。」
「ハワードの受け売りか?」
「うん。」
それからしばらくチヨは満天の星空を眺めていた。そして、何を思ったか、くすっと笑った。
「何がおかしいんだ?」
「ううん、何でもない、何でもない!」
再びしばしの沈黙。そして、ふといっそうチヨがバーネットの背中に強く体を押し当てた。
「お兄ちんさえいれば、アタイは何もいらないよ。」
「……それも受け売りか?」
その問いに今度はにこにこと首を横に振った。
「これは自前ー。」
「そうか。」
すると、バーネットの顔からも笑顔がこぼれた。
「おーい!バーネットオォォ!」
町が近くなると、入り口の辺りにカンテラを持った5人の姿が見えた。ハワード、サマンサ、シュレン、バーネットの父、母である。
「ほら、みんな待ってくれてるよ。」
「ほんとだー!おーぃ!」
大声で叫ぶチヨ。バーネットも叫ぼうとしたが、喉の砂がまだとれていないのでやめておき、代わりに手を振った――
モロクの夜は時に寒く、時に暖かし。人のこころのさようなれば、いかようにもなりけん――
七節:~実験体No.37564~
チヨの大冒険の夜、彼らは"準備中"という看板のかかった蜥蜴亭で小さな宴を開いた。チヨとサマンサを残した全員は席について、二人の作る料理に舌鼓を打つ。中でも、チヨの作ったフェンのスープはみなに好評だった。口々にチヨを褒めると、彼女は頬を紅く染めてうつむき加減に微笑んだ。
「チヨちゃんもここで働くかい?」
顔を赤くしてバーネットの父に寄りかかっているシュレンが気分よさそうにそう言った。
「こんなとこで働くなんてチヨちゃんがかわいそうだろ!このバカ野郎!」
「アタイ大っきくなったらここで働くー!いいでしょ、お母ん?」
殴られるシュレンに苦笑いを送っていたチヨの母は、にっこりとチヨを見つめた。
「そん時は俺様がチヨ様を嫁に……」
「だまれ、お前は黙ってろ!」
楽しい時はすぐに過ぎていく。そして、薄明るくなった時間に、バーネット一家は蜥蜴亭を後にした――。
「父さん!早く起きて!今日は釣りに行くんでしょ!?」
次の日、バーネットは居間でグロッキー状態の父を、小さな両手で揺さぶった。
「お父さん、お酒弱いのに飲みすぎたのよ。」
キッチンでチヨと一緒に朝ごはんの仕度をしていた母が軽く笑いを立てる。
「シュレンのおじさんにガボガボ飲まされてたもんね!」
続いて無邪気なチヨの笑い声。それを聞いたバーネットは昨日の疲れを全く見せていないチヨに驚いたが、安心した。だいぶ病気もよくなっているのだろうか。
「う……うーん…もう朝か。」
やっとうめき声を上げて起き上がった父。眠気眼をこすりながら、大きく欠伸をする。
「やっと起きた!早く行かないと昼までに海につけないよ?」
「?……そうだった!今日は釣りに行くんだったな!お母さん!!弁当を!」
「今作ってますよ~。」
やや興奮気味の父を小さな声で制した。
「それにだ、バーネット。釣りをするのにはエサがいる。」
そう言って彼の前で親指と人差し指を伸ばした。
「シュレンさんのところに行って、エサを少し分けてきてもらいなさい。」
「わかった!」
「じゃぁお父さんはその間に着替えておくよ。」
頭を抑えて洗面台に向かう父を尻目に、バーネットは朝のモロクに駆け出した。
――家から100mほど行ったところで妙な事に気づく。バーネットの家は他の家が近くにない。使われていない倉庫ばかりが立ち並んでいるその一角にあるのだ。だから、家の方に人が来ることはめったにない。知らない人はなおさらだ。
今、バーネットの方へ一人の男が歩いてきている。服装から判断するとどうやらかなり高位の聖職者のようだ。聖職者の順は服の色で決まる。下位の者は黒と紫を基調としたローブを全身にまとっているが、上位の聖職者は白と赤を基調とした少し派手な服装をしている。バーネットの前から来るこの男は後者の服を着ていた。
バーネットは気持ち少しゆっくりと歩き、男とすれ違いそうになった。真っ白の髪を後ろへ流してオールバックにしているまだ若い聖職者である。
「やあ、こんにちは。」
細い目の男はにこやかに挨拶をした。しかし、その声は重い金属音のような音で、バーネットは一瞬寒気がした。
「こ、こんにちは…!」
「アウジルさんのお宅へ行きたいのだが、こちらであっているかね?」
「は、はい。…ぼ、僕のお父さんに何か用ですか?」
アウジルとはバーネットの父である。にこやかな顔をしていた男はその言葉を聞き、一瞬禍々しい眼光を彼に向けた。その眼光があまりに鋭かったので、バーネットは全身の毛穴から汗が噴出してくるのを感じた。
「そうかそうか、君がバーネット君だね?私は君のお父さんの古い友人でね、仕事を一緒にしていたんだ。でも、彼、やめちゃっただろう?だから、今どうしてるかなと思って尋ねてみたのさ。イレンド……って名前、お父さんから聞いた事はないかい?」
再びにこりと笑うが、完全に目は先ほどの眼光がおさまっていない。今思えば、アウジルは家族の誰にも仕事の話などしなかった気がする。仕事のいらいらを家庭に持ち入れない父の親切心からか、バーネットもチヨも彼が何の仕事をしているかすら知らなかったのだ。
「し、知らないです…!」
「そうかそうか、それは結構だ。」
重い金属二つがぶつかり合うような声で再び笑うイレンド。
「ヴィテス・オグマンタスィオン(速度増加)!」
イレンドがそう叫ぶと、バーネットは心が高鳴るのを感じた。不思議に思って彼の方を見ると、イレンドは気味の悪い笑い声をたてて、親指を立てる。
「子供は早く遊びにいってきなさい。なあに、お父さんへの用事はすぐに終わりますよ。君が帰ってくる頃には終わりますとも。終わりますとも。」
バーネットは、すぐにその場を走り去った。イレンドの魔法のおかげもあっていつもよりずっと早く走ることができた。
それを満足げに見送ると、イレンドは目を鋭く輝かせ、緩む口元を押さえつつ、アウジルの家に向かっていった――
妻の呼び声で家の入り口に行き、イレンドと対面したアウジルの顔は、地獄の覇者でも見たかのような顔つきであった。
「貴様、なぜここが分かった!?」
「なぜ…?お前も所属していた"ネオ・イージス"という機関の情報網を忘れたとでも言うのか?」
いつもの彼に似合わないほど声を荒げてイレンドの胸倉を掴む。が、ちょうどアウジルの妻がキッチンから顔を出したので、すぐにその手を引っ込めた。
「あなた、お客さんなら上がっていただいて。今紅茶とサンドイッチをお持ちしますから。」
「あ、ああ……」
「奥さん、お構いなく。すぐに用件は済みますから。」
「あら、すみませんねぇ。お客さんなんて来たことがないもので、どう接待すればいいか……気が向いたらどうぞおあがりください。」
目を細めて礼儀正しく一礼してキッチンに彼女が消えるのをみると、小ばかにしたような例の金属音笑いで上目遣いのアウジルを見下した。彼は顔を恐怖に歪めながら1、2歩後ずさりする。
「忘れたわけではない……だが、約束が違う!お前たちの研究に力を貸す代わりに、私はチヨの病気を退行させる薬をもらい、それから完全に縁を切る約束だろう!?」
妻たちには聞こえない、しかしそれでいて強い声で怒鳴る。
「アウジル……禁断の領域まで踏み込んでしまったお前は、のうのうと生き続けられるとでも言うのか?」
「違う!やめてくれ……頼むから私たちの幸せな生活を壊さないでくれ……」
やがてアウジルはイレンドの肩にすがるようになって許しを乞うた。
「ふん。他人の命を犠牲にして手に入れた幸せだとしてもか?お前が実験のために八つ裂きにした人々の顔を見て同じことが言えるのか?」
「違う!!」
今度はいきり立って彼の肩を掴んだ。だが、イレンドが動じる様子は全くない。
「何も違わない。お前の両手を見ていると思い出す。実験後、血まみれになった両手を満足げに見ていたお前の顔をな。さすがの俺もあれには寒気がした。」
「……用件はなんだ?」
イレンドの言葉にもはや反抗する気も失せたのか、アウジルがぽつりとそう言うと、その言葉を待っていたかのように、イレンドはくすりと笑った。
「最初から素直になればいいんだ。用件というのは別に大した事じゃない。単刀直入にだ。"チヨを譲っていただきたい"。」
一瞬アウジルは彼が何を言ってるのかわからなかった。しかし、その反応もまんざらでもなさそうにイレンドは目を光らせた。
「聞こえなかったかな?チヨ…いや、"実験体No.37564"を我々ネオ・イージスに譲っていただきたい。」
その言葉に、アウジルの脳内は凄まじいスピードで彼の言っていることを理解した。
「実験体・・・?貴様ら…まさかチヨの薬に……!」
「おやおや、気づかなかったのか?そうさ、お前の作った"狂心剤"を薬の中に混ぜておいた。もちろん、抗体の働きで彼女の体内の病原菌はものの数ヶ月で完全に死滅する。そして、その後もその抗体は強化され続け、やがて体内のありとあやゆる物質を破壊し、新たにさらに強力な物質を構成して代わりとなる。そして、恐るべき身体能力等を備えた殺戮マシンのできあがりというわけだ。俺たちのようなな。」
「ふざけるな!」
アウジルの怒りは頂点に達したが、それをやすやすと片手で制すと、イレンドは彼を睨みつけた。
「待て。俺は何もお前の全てを奪おうとしているわけじゃない。お前のおかげで俺たちは生まれてこれたようなものだからな。事実上の父親的な存在なんだ。感謝もしている。だからチヨだけでいいんだ。お前にはバーネットという子供もいるだろう?三人で暮らせばいい。チヨを譲れば今度こそお前とは縁を切る。神に誓って嘘は言わない。」
「……だが断る!」
その瞬間、イレンドの顔から笑顔が消えた。アウジルに向けられたその目にはもはや先ほどまでの余裕はなかった。まるで子供が必死に働く蟻を見下す時のような、冷たく、おぞましい視線がアウジルに突き刺さっていた。しかし、それでも彼は毅然とした態度をとった。
「そうか……もう少し賢い男かと思っていたが、買い被りだったようだな。ならば、貴様の生涯の終焉を以って、今までの罪を悔い改めるがいい!恐ろしい地獄でな!」
「ジュカカウエット(拘束の解放)!!」
イレンドがそう叫ぶと、彼の手が一瞬光ったように見えた。
「冥土の土産にはちょうどいい。面白いものをみせてやろう。」
「きゃあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
彼のその言葉とほぼ同時に、キッチンから母の悲鳴が聞こえた。続いて、ざしゅっざしゅっという何かを切り刻むような音と、ぷしゅーっと勢いよく血が吹き出る音がした。
「ジャンティーユ!」
妻の名前を叫ぶと、キッチンから何か丸いものが無作為に廊下に投げ出された。それは彼女のもがれた頭部であり、かっと見開かれた彼女の恐怖の瞳と目があったアウジルの頭は真っ白になった。そして、次々と切り刻まれた元彼女の体の部分が廊下に投げ出される。大量の血と共に腕、手首、胴体、股関節部、太もも……最後に、うら若い女の足を両手に持った、変わり果てたチヨがゆっくりと出てきた。
「あははははははははははっ!」
黄色くなった目に、腐敗した紫色の肌――狂ったように歓喜の声をあげるのはチヨであった。
「いかん!チヨ!」
慌てて駆け寄るアウジル。チヨの腐敗した頭を全力で抱きしめ、必死に神に願った。剣のように鋭くなった彼女の両腕が、アウジルの下半身を切り落としても、彼の顔面に剣が突き刺さっても、彼は最後まで抱きしめることをやめなかった。
「私がいけなかった……私がいけなかった……」
息を引き取ったアウジルの両腕を邪魔だとばかりに剣で頭からどかすと、ゆっくりと片手をあげているイレンドの方に歩いていった。彼は少し興奮していた。
「素晴らしい……!No.37564ならば本当に"ヴェスパー"の母体になり得るかもしれん……」
そう言って上げていた手を下ろした。すると、それに誘発されたようにチヨの体から力が抜け、その場にバタンと倒れた。
「ワープポータル!!」
再び呪文を唱えると、彼の目の前に渦が現れ、中から仮面をつけたマーガレッダが顔を出した。どうやらこの渦は、別の空間どうしを繋ぐ役割らしい。
「意外と時間がかかったわね。で、交渉はうまく……いかなかったみたいね。気の毒なアウジル。それで今回のはどうかしら?」
「俺が見た中では最高傑作だ!間違いなく彼女なら"ヴェスパー"の母体になれる!」
「早合点は取り返しのつかないミスに繋がるわよ。とりあえず、早くそのバケモノを連れてらっしゃい。」
彼女のその言葉にイレンドが首を横に振った。
「彼女はバケモノではない。世界を救う唯一の希望なのだ。古の文明都市ジュピロスの管理者にして世界の覇者"ヴェスパー・ニュートン"を現代に復元する事が、そして、その力によって忌わしきロード・オブ・デスを倒すことこそ、我々"秘密機関ネオ・イージス"の役目なのだからな。そして――」
「"その時、我々の存在は罪ではなくなる。"でしょう。長官の言葉ぐらい私も覚えている。そのために私たちはこんな日の目も浴びれない機関で実験材料をかき集めてるのよ。」
それを聞いて呆れた声を上げるマーガレッダ。
「これは失礼。だが、俺にはまだやる事がある。この家の子供が一人生きててな。そいつを殺して俺も研究所に帰る。さきに彼女を頼んだ。」
「さっさと消して早く帰ってきなさい。やる事はまだ山ほどあるのよ。」
そして、チヨを受け取ったマーガレッダは、空間の渦と共に消えていった。
「これは正義だ……世界を救うための犠牲なのだ……」
そう小声で言いながら、イレンドは懐から仮面と錆びた十字架を出すと、仮面をつけて十字架を強く握り締めて目の前に横たわる二人の死体にしばしの黙祷をささげた。
「彼らの御霊を救いたまえ。」
彼はそのまま無言で立ち去った――
八節:~レン一族の末裔~
イレンドが家から出ると、外には戻ってきたバーネットの姿があった。急いでいたのか、彼の呼吸は乱れていたが、顔は鋭くイレンドを睨んでいる。どうやら蜥蜴亭に行く途中に引き返したようだ。
「おや…おかえり、バーネット君。お父さんとの用事はもう終わりましたよ。」
「さっきの悲鳴……」
仮面をつけたイレンドがドアから離れると、バーネットは家の中に駆け込んだ。
それからしばらく彼の息は止まった。玄関から見える廊下に横たわる二つの死体。一つは体の各部を切断され、ごった煮のように無作為に横たわっている。もう一つは上半身と下半身に分けられて、その場で無残な様子である――これが両親の死体だとわかるのに、それほど時間はかからなかった。
「そんな……父さん……母さん……」
「人は生きながらにして罪を背負う。彼らは救われた。そして、お前も……」
静かにそう言ってから、イレンドはバーネットの喉元に手を伸ばした。それをさっと避けて外に出ると、再びイレンドの方を向く。
「チヨは……チヨはどこだ?!」
バーネットの言葉に、イレンドは少し次の言葉を考える素振りを見せた。
「"No.37564"の事かい?彼女は元あるべき場所へ帰ったよ。」
「ナンバー…?一体どういう……」
「それはつまりだね……」
そう言ってイレンドは足に力を入れた。
「こういう事ですよ。」
その言葉が終わる刹那、いつの間にかバーネットの横にイレンドが立っていた。
「なっ?!」
そして、逃げようとするバーネットの首元をつかみ、ゆっくりと締め上げる。片手で持ち上げられた彼の表情から、戸惑いと恐怖の色がはっきりと出ていた。必死に両手でイレンドの手をはずそうともがいている。いつもハワードがやられているのとは訳が違っていた。
「恐れる事はない。"死"は弱き者の心を救済する唯一の手段だ。」
彼は一層力を入れた。
(タスけて…誰か……)
そう思った次の瞬間、バーネットは風を切る轟音と共に窒息の危機から解放され、地面に落とされていた。そして、目の前には吹き飛ばされて倉庫に突っ込んだイレンドと、彼の元いた場所に、両腕の赤いカタールを構えて立っている、灰色の服を着て、頭に頭巾、目元には義賊の眼帯をつけたマロンヘアーの男がいた。
「大丈夫か?」
男はカタールから出ている刃を引っ込め、バーネットの手をとった。
「あ、ありがとう……でもあんた、誰?」
「俺は"ハーツレン"。何年も前からこの男たちを追っている者だが、やっと対峙する事ができた……っと、それより小僧。走れるか?」
「でも、チヨが……それに……」
「今は家族の事は考えるな。己の生きる事のみ考えろ。奴はすぐ起き上がる。それまでに走って蜥蜴亭に行ってこの事をサマンサたちに伝えるがいい。この男は俺が引き受ける。行け!」
早口にそう言うと、バーネットを道のほうへ押しやった。彼は何度か振り返ったが、ハーツレンがコクリと頷くのを見て、蜥蜴亭に向かって走り出した。
「強い子だな……っと、さっさと起き上がれ、クソ聖職者。こんな一撃痛くもないだろう。」
ハーツレンが再びカタールの刃を押し出して構えた。すると、粉々になった倉庫の壁から、肩の粉をはたきながらイレンドが歩いてきた。ゆっくりと、怒りに震えながら。
「どこの誰だか知らんが、カタール使いの分際で俺を吹き飛ばすとはなかなかの腕前。だが、その程度の力量で邪魔してくれるな。俺には使命がある。」
「悪いが、今のは本気じゃない。それに、お前は知らなくても、俺はネオ・イージスには借りがあるんでな。それにしても、死体を集めるのはあまりよい趣味とは言えないな。」
その言葉にわずかだが、イレンドの仮面がぴくっと動いた。
「我々という組織を知っているのか。ならば、いっそうわかるだろう。貴様ごときで俺には勝てないと。そして我々の目的もまた、貴様ごとき下賤の者には理解できまい。」
そう言って、イレンドは拳を前に構えた――拳法の構えだ。
「聖職者が拳法などやるのか。」
答えるように、ハーツレンもカタールを彼の方へ向けた。
「これは強くなる前の名残だ。一瞬でケリをつけてやる……」
再びぱっとイレンドが消え、次の瞬間には、ハーツレンを攻撃していた。
「三段掌!」
「キィンキィンキィンッ!」
それに反応したハーツレンのカタールの刃が、彼の腕を捕える…が、それは金属のように硬く、一思いに切り裂くことができなかった。
「おかしな体をしてるな。」
「特殊な技術でエルニウムの硬さを手に入れた。カタールごときには砕かれんぞ。」
「その余裕……いつまで続くかな。」
今度はハーツレンが一歩下がり、体制を立て直して素早くイレンドの懐に入り込んだ。
「早い…!」
「ソニックブロー!!」
素早く押し出された両腕のカタールでわき腹に強力な斬撃を繰り返す。
「ザザザザザザザザザザン!」
「…ぐっ!」
これにはさすがのイレンドも少し顔を歪めて、距離をおいた。
「どうした?"ネオ・イージス"の手に入れた力はこんなものか。」
今度は逆に余裕を見せたハーツレンに、イレンドの怒りはますます大きくなる。
「否!」
そして、再び音速で近寄り、攻撃態勢に入った。しかし、今度はハーツレンも反撃のカタールを挙げていた。
「猛龍掌!」
「メテオアサルト!」
「ドゴーンッ!」
カタールと腕のぶつかる鈍い音と共に、二つの体は宙に浮かび、正反対の方向へ吹き飛ばされた。だが、お互いにすぐ立ち上がる。すると、イレンドは高笑いを始めた。
「何がおかしい?」
「ハハハハハ!本当によく鍛錬された男だな。だが、お前はまだ致命的なミスに気づいていない。」
「?」
「それは俺が聖職者だという事だ。自らの力を高め、支援する魔法を…すでに俺は習得している!」
「……」
ハーツレンが黙るのを見て、仮面の下から勝利を確信した。
「言葉も出ないか?今までの俺とお前はほぼ互角、だが俺は魔法でさらに強くなれる。やはり、凡人ごときが我々には勝てぬという事だ。……だが、安心しろ。」
そう言って彼は手を開き、片手を空に伸ばした。
「よく戦った。お前の死体も、我らが崇高なる目的のために捧げてやろう!死は……弱き者の心を救済する唯一の手段なのだ。」
しかし、それからしばらく二人の間に沈黙が流れた。太陽が高いところまで昇り、ジリジリと地面を焼く音が聞こえる。人の声はしない。その静寂を破ったのは意外にも、黙っていたハーツレンの方であった。
「どうした?魔法とやらを唱えないのか?それとも唱えられないのか?」
イレンドは自分の両手を目の前で広げて、信じられないといった様子であったが、ハーツレンの方を恐る恐る見つめた。
「まさか…貴様のそのカタールは…」
すると、ハーツレンは自分のカタールをイレンドによく見えるように横にして見せた。赤いカタールがきらりと光ったその時、イレンドの驚きが確信に変わる。
「"爆炎のカタール"。我々の間ではそう呼ばれている。古代、対魔法用に開発された、"沈黙を呼ぶ女神のカタール"だ。だが、これももはや不要。俺は最初に言ったよな。本気じゃないと。」
その言葉に、恐れおののいたイレンドは2,3歩後ずさりした。ハーツレンは両腕の"爆炎のカタール"を外すと、後ろのポケットにしまってあったナイフぐらいの大きさの短剣を二本取り出した。
「二つの短剣?そんな物で今度は何を……」
「さぁ、茶番は終わりだ、"ネオ・イージス"。俺の本気を見せてやろう。俺がカタールしか使えないと思ったら大間違いだ。」
ゆっくりと、獲物を追い詰めるように近寄っていくハーツレン。
(ハッタリだ……これはハッタリだ。考えてみろ。カタールならまだしも短剣ごときで俺の体を砕くことなどできはしない。今は無きアユタヤのある一族のみが所持する事を許されるという秘剣"メイルブレイカー"を除いて……ん?……まさかっ!?)
「それはまさか……」
再び後ずさりするイレンド。仮面の下からはっきりと恐怖が覗える。
「"古より伝わる秘密の製法により製造される秘剣。秘術の書では、弱く柔らかい物を傷つける事はできず、強く硬い物を砕く事のみが可能とされる。その威力は絶大で、一度手にすれば、一人で数万の衛兵をなぎ倒すこともできる。そして、我らレン一族に伝わる秘儀"両刀"により、この秘剣の効力は無限に押し広げられる。"」
「まさか、貴様はアユタヤの!?」
「そうさ、俺は……」
イレンドの数メートル前で止まると、ぐっと彼をにらみ付けた。その顔には、はっきりとした復讐心が見て取れる。
「ロード・オブ・デスによって崩壊寸前のダメージを受け、さらに貴様ら"ネオ・イージス"によって、完全に抹殺されたはずのアユタヤ一族の生き残り"ハーツ・レン"だ!」
「ウオォォオッ!」
ハーツが言い終わるか終わらないかの内に、スキをついて攻撃を仕掛けてきたイレンド。しかし、それを両手をクロスさせて腕で受け止め、攻撃を受け流した。イレンドは両腕を放り投げる形になり、大きなスキができた。
「まずは一人目。犠牲となった者の痛みを味わうがいい。」
静かにそう言うと、ハーツは二本のメイルブレイカーを逆手に持ち替え、回転する構えを見せた。
「デュールフラジャイル(固たるモノの破壊)!」
「バリバリーンッ!」
次の瞬間、一回転後にイレンドの背後に立つハーツと、割れるような音を立てて胴の部分から血が噴出しているイレンドが、両膝をついて倒れていく姿が交差した。
「な…なんという……強力な…技……」
イレンドがまだ息があるのを確認すると、呆れたようなため息をついて、イレンドの近くに寄って行った。そして、片方のメイルブレイカーを両手で握り、仮面の下から血が流れているイレンドの背中に振り下ろした――
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