ロカビリー探偵事務所ロケット88ホテル&ツアーズ

2007/01/18(木)13:30

ジョニー大倉 HEY MAMA ROCK&ROLL/ヘイ ママ ロックンロール

ロックンロール(17)

ジョニー大倉 【東京ロカビリーファンキーモンキーベイビーズ】 ー瀬川兄貴からのメール 弐ー 銀縁のレイバンのめがねに ノンスメルのポマードで固めたリーゼント 最近ロックンロール魂に拍車がかかった それがグループを作って3ヶ月で 世界に919名のロカビリーメンバーを集めている 東京ロカビリーファンキーモンキーベイビーズ 影の支配者 瀬川兄貴である 瀬川兄貴の今年の目標が決まった それは、ロカビリーで世界征服の夢でもなく ロックンロールで世知辛い世の中をぶっとばすことでもなく チンピラの映画みたいにスカジャンを着込んで おやじ二人でデパートの屋上でたそがれる・・ そんな夢でもなかった 瀬川兄貴 「今年の目標はなぁー、絶対 知花くららを       東京ロカビリーファンキーモンキーベイビーズ       にいれるぞー」 エルビス  「知花くららって       1982年3月27日沖縄県那覇市出身で       上智大学文学部教育学科卒業で、       大学時代に1年間フランスに留学してっ       大好きなフラメンコを学びにスペインに3ヶ月滞在して、         日本語、英語、フランス語、スペイン語と       4ヶ国語を自在に操り、         趣味はスポーツ トライアスロンにキックボクササイズ、       2006年アメリカ・ロサンゼルスで開催された       第55回ミス・ユニバース世界大会に、       応募者4200人の中から選らばれ、       日本代表として出場して。       準ミス・ユニバースなりナショナルコスチューム       (民族衣装)審査で、       戦国武将の甲冑をアレンジした衣装で会場を沸かせ、       最優秀賞を受賞して現在はフィーチャーリポーター       夢は国際的に活躍するインターナショナルリポーター       だからってどこにロカビリーな接点があるんですか?」 瀬川兄貴 「そんなことは、どうでもいい」 エルビス 「どうでもいいってロカビリーってことで       919人もメンバー集まってるんですよ」 瀬川兄貴 「いいんだよ」 エルビス 「ところで、知花くららってMyspaceやているんですか」 瀬川兄貴 「ブログやってるぞー」 エルビス 「兄貴 Myspaceをやってももらわなきゃ       メンバーに入れたくても       入れられませんけど」 瀬川兄貴 「ブログもMyspaceも同じでしょう!!」 エルビス 「兄貴・・・・       黙ってパソコン買ってください」 瀬川兄貴 「・・・・・・」 そんな瀬川兄貴からまたまた僕の携帯に 熱いメッセージが送られえ来た 【瀬川兄貴のちょっと言わせて!!】 第二回:ジョニー大倉「トラブル・メーカーを聴きながら…」  70年代のはじめ、 エルクのエレキギターとベースギターを肩にさげて 現われた若者達がいた。 その髪をポマードで黒くひからせ、 革ジャン着てマイクに唾をとばして腰をくねらせながら、 伝説のロックンロールバンド「キャロル」の登場である。  その旋風はまだ幼かった僕の幾つかの記憶の中に 存在している。 当時、池袋東口から有楽町まで都営バスが走っていた。 僕は月に何度かそのバスに乗って 有楽町へ行くことがあった。 たまたま乗り合わせたのは、 ものすごく前髪の突き出たリーゼントのおにいちゃん。 まだ仮面ライダーの主題歌しか知らない小学生の僕は、 大笑いしながら弟と前髪をビュ~ンと手で伸ばして 見知らぬおにいちゃんを真似て遊んだ。 そして「も、一度踊って、も、一度キスして、 お願い、だ・か・ら!(アオッ!)」って 幼かった兄弟は歌ってた。  あまりの話題性からテレビの刑事ドラマに 出演したりもした。 彼らが見せてくれたパフォーマンスが 僕のロックンロールとの出会いだったのかもしれない。  75年にキャロル解散。 わずか3年間の活動で僕の前から姿を消した。  後に登場したダウンタウン・ブギウギ・バンドの スモーキング・ブキをほうきギター抱えて 大人のまえで披露したこともあった。  ソロ活動を開始した矢沢永吉は 少年雑誌の通信販売のページで 月のおこづかいでは足りない ロゴタオルと星型プリントのシャツを着た ポスターの中にいた。 資生堂のCMで矢沢永吉はよりスターへと駆け上がる。 日本テレビだったと思うけど 後楽園球場でのコンサートの模様を放送した。 テレビに噛りついて見たのを覚えている。 「成りあがり」 そして映画「RUN&RUN」 僕は矢沢永吉の虜になっていった。 その頃の僕の中には ジョニーが残してくれた記憶は薄れはじめていた。  再び彼に触れることが出来たのは二十才まえ。 友人のドラマー、太郎がもってきた一冊「暴力青春」。 解散直前にメンバーひとりひとりが書き下ろした本。 それには矢沢永吉の「成りあがり」の序章ともいえる 星を手にする前のキャロルの永ちゃんがいて、 対照的な道を歩んだけど愛にあふれた僕の好きな 「彼女は彼のもの」や「雨のしずく」 そして「二人だけ」を書いた 詩人「ジョニー大倉」に再会できた。 「逃げていくよダディ。 長い髪を切り捨てた…」 そんなジョニーの詞や文に胸ときめかせた。 太郎は原宿辺りでバイトしてた。 よく家に遊びに来ては酒を呑みながら ロックやキャロルの話や自分達の夢を語り明かした毎日だった。 「ジョニー、渋谷で映画の撮影してるぜ」 バイト先で撮影があったらしい。 それが「チ・ン・ピ・ラ」だった。  キャロル解散後、 ジョニーはソロ活動をするが、 俳優として脚光をあびることの方が多かった。 仲間とあるライブハウスに行った時、 そこの店でやるジョニー大倉ライブの ポスターを見つけてうれしかった。 ちいさな店だけど、しっかり活動してるぞ!って思った。 やがて元キャロルのメンバーと高橋ジョージを加えて 「プリーズ」結成。 でも、いつも元キャロルのメンバー。 つまらない事件をおこしたり、 矢沢永吉の後で見え隠れしてる。 ロックン・ロールを誰よりも知ってるジョニー。 ロックン・ロール・センスが違っていた。 シャウトのしゃがれ声、ブレイクの呼吸。 「ロックン・ロールは、こう歌わなきゃ」って すべてがお手本だ。 矢沢永吉のあらけづりな曲に 日本語をのせて日本のロックン・ロールを確立させたのが ジョニー大倉の偉業なのである。  2006年にソロデビュー30周年を迎えて ジョニー大倉が帰ってきた。 第一弾セルフカバーアルバム 「HEY MAMA ROCK&ROLL」をリリース。  ジャケットを拡げると23才当時の憂いのある ジョニーに出会う。 その若き日のジョニーへの本人からコメントを読む。 そして、はやる気持ちで再生ボタンを押してみた。  久しぶりにアルバムを聴いて興奮した。 近頃、あんなに音楽を聴いて興奮することがなかった。 聴いていて酒がうまい。 ジャパニーズ・ロックン・ロールのバイブル的なアルバム。 当時のキャロルナンバーにブラスセッションを加えたり、 オリジナルのムードを残しながらジョニーが ロックン・ロールを満喫している。 これは多くの人に聴いてもらいたい。 同じ時代を歩いてきた人、 バンドの方向性に悩んでいる人、 何かに落ち込んでる人。 誰にでも聴いてもらいたい。 そこにあるのは、 「ロックン・ロールはやっぱり理屈抜きにかっこいい!」 その答えだけなんだけどね。 2007年1月 デパート屋上にて キャロル 無料動画

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