薔薇とサムライ
薔薇とサムライ新感線☆RX「薔薇とサムライ」作/中島かずき演出/いのうえひでのり作詞/森雪之丞出演/古田新太、天海祐希、他赤坂ACTシアター A席2階I列18番 入場料10,500円2010年4月13日火曜日 12時30分開演の部基本的に「新感線」の芝居が好きなので観るようにしている。が、それでも、野田さんの芝居ほどではないので、まあ、チケットが手に入れば観に行く程度である。さらに、が、「新感線」が始めて東京で上演したときから観ている。まあ、そんな立ち位置の中途半端なファンである。大体いつ観に行っても中身は一緒である。で、実は、それが良かったりする。中島かずきさんの戯曲のあとがきに「五右衛門ロック」のことを評して「(観客は)こういうスカッとする芝居を待っていたんだな」、としみじみ思った、とあった。さらに、「こういうスカッとする芝居ができるのは、新感線しかないな」とも、改めて思った、ともあった。で、私も思った。そう云えば、「スカッとする芝居ってあんまりないよな」。「スカッとする芝居を観るには新感線に行くしかないよな」と。で、それが新感線の観客動員の大きさの原動力なのだと思った。演出のいのうえひでのりさんは、「パッとしない世の中なのでせめて劇場では楽しいお祭り的なことをしたい」と語っている。実はいのうえさんは時代が読めているのだ、とも思った。時代に閉塞感が感じられる今だからこそ開放感に溢れた新感線の芝居が受け入れられるのではないか。誰だって高い入場料を払って貧乏くさい思いをしたくはないだろう。それはおそらく入場料が3,000円でもそうだ。何が云いたいかというと、「貧乏くさい芝居が多いってこと」。世の中節約ブームだからといって、芝居が節約してどうすんだよ、ってこと。それは、映画もテレビもそう。「アバター」が当たったのは3Dと云うことも含めてあの映画がゴージャスだからだと思っている。フジテレビの「わが家の歴史」が当たったのも実は同じ理由のような気がする。やはり、人は解放されたいのだ。どこかノビノビしたいのだ。どこかで贅沢したいのだ。そのどこかは人それぞれで何とも云えないが、芝居で云えばそれが新感線の芝居なのだろう、と思った。さて、中身の感想。一つは、ゲストの天海祐希さんを迎えて新感線の世界が広がった印象がある。宝塚的世界観の導入である。この作品、宝塚で上演しても何ら違和感を抱かないような気がする。むしろ、宝塚的である。で、それが新感線の凄いところ。例えば、染ちゃんをゲストに迎えればその世界観は歌舞伎的になる。そして、それと同時に新感線の世界が広がる。つまり、飽きさせないと云うこと。これこそがゲストを迎える理由でもある。ゲストを新感線色に染めるのではなく、ゲストに合わせて新感線が変わっちゃうのである。実はなかなかできない作業だと思う。そして、それが、新感線が長年支持されている理由だとも思う。かなり柔軟な集団なのだ。硬直しないのだ。しかし、新感線の世界観をがらっと変えてしまうほどのゲストがどれだけいるのかと云うのも問題である。新感線だけの問題でなく、日本の芸能の世界の問題だと思う。スター不在、ということだ。もし、田村正和さんなんかがゲストで出てくれたら……。古田さんと対決してくれたら……。もう一つ。感心したのは演劇の表現の方法論にチャレンジしていることである。具体的には「美術」。正式名称は分からないが、映像が「装置」の代わりをしていることである。この方法論は芝居にありがちな転換のための暗転などで芝居のリズムが落ちることを防ぐだけでなく、大劇場であるがために観客に伝わりにくい表現を伝えやすくするという機能も併せ持っているような気がする。具体的には「拡大」である。さらに「歌詞」をただ見せるのではなく、歌詞にも芝居をさせている。実に感心した。映像を使う意味があるからである。舞台で映像を使うことをイヤがる人もいるが、最早、新感線の新世界である。新感線の真似をしてコケている集団が幾つもあるが、真似するべきはその芝居に対する精神ではなかろうか。褒めすぎ?