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冒頭からいきなり暗い話かもしれないけど、ぼくはかなりペシミスティックな世界観を持っている。
一言で言えば、それは「この世において喜びは相対的であるけど、悲しみは絶対的である」ということだ。例えば、「幸せって何?」という問題は、今まで人々の中で無数回繰り返されてきたが、「不幸って何?」という疑問が提起されたことをぼくは聞いた事がない。簡単なことで、幸せが「他人よりマシ」というかたちでしか確認しづらいのに対して、不幸は誰もが目に見える形で体験できるからだ。 さらに言おう、生きるものを殺すのはたやすいが、死んだものを生き返らせることは畢竟できない。これほどなまでにぼくのペシミスティックな世界観を裏付ける確かな例はないのだ。 いつしかぼくは様々な挫折を経て、心底から一つのことを悟るようになった。人々が生まれるのは、この世界と戦うため、つまり押し寄せてくるリアルな不幸たちをかわし、時には正面からぶつかり、傷だらけになりながら乗り越えることでファンタジックな幸せを感じることだ。ここで肝心なことは、この戦いには必 ず 負 け る。つまり要は負けると分かっていながらあえて戦おうとするかが、この人生を生きるモチベーションとなりうる。 シェイクスピアの有名なto be or not to be が「生きるか、死ぬか」と訳されることについて、そしてそのセリフがこんなにも有名であることに対しぼくは長い間釈然としていなかったが、今となってはとても理解できる。この人生で遭遇する全てのことへの対処法は結局2通りしかなく、生きていくか、死ぬか。どんな困難に遭遇しても、生きていくつもりならとりあえず空気を吸わなければならない、ごはんを食べなくてはならない、水を飲まなければならない、生きていくためのお金を手に入れなければならない、人と関係を維持していかなくてはならない、この退屈な時間を一秒一秒過ごしていかなければならない。それに対して死が意味するのは文字通りの無だ。自殺したりする人を安易に責めてはいけない。彼らは疲れて、少し早めにこの戦いから退いただけだ。ぼくだって時々退きたいと思うことがある。 悲しみが喜びに対して絶対的にリアルで、かつ勝ち目のない戦いを続けようと思えば、神様を信じていなければ、ちょっとやっていれない。小沢健二の名曲「天使たちのシーン」には、多くの人が言うように「癒し」の要素がある。それは突き詰めて行けば、絶望を受け入れてくれる安静なのではないか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 17, 2004 11:39:47 PM
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