社長室 業務日誌

2012/09/17(月)22:03

20120301三七歳の冬だから(1)

たらればの話をいくらしたって仕方ないけど、 自分で、思ったけど、やらなかったことを挙げてみる。 2004秋(30歳): I社に誘われたけど、行かなかった 2004冬(30歳): 創業直後のG社に行って、 どベンチャーでやって、眩しい創業者を支えたい。と思った。 けど行かなかった。 2005夏(30歳): M社に完全に差をつけられたG社の資本再編の処理に、 R社の40代体質を嗅ぎ取った。 30世代での勝負に憧れた。 しかし、行かなかった。 2005冬(31歳): K氏にMBA行ったら? と言われた。 でも行かなかった。 英語を勉強して、推薦もらって行く手はあった。 2006冬(32歳): O氏にH社の株を薦められた。 外食割引を考慮すると配当利回りが相当高いと。 この人が買うってことは本当に得なんだろうな、と思った。 でも買わなかった。 2008初(34歳): どベンチャーであるRP事業に、 KとSを連れて、やりたい!と考えた。 しかし、RS事業を選択した。 この8年間: そもそも、いつかはコーポレートVCをやりたい、 と考えていたのに、企画すら出してない。 何しにRへ入ったのだ? 俺は。 K氏に提案していれば、 RSPにT氏と共に従事できたはずだ。 今のキャリアは大きく異なっていただろう。 2011年(37歳): 全国の地場の代理店網をつくるべき、と思った。 けどやらなかった。 そしたら、O氏がやってしまった。 ■Case 2004年秋~2005年5月(30歳)の頃に、 I社の、1.0 or 1.5クラスレイヤーのマネジメントとして、 声をかけてもらった しかし、行かなかった。 行かない。と明確に決断した。 =========================== その理由は、 (1)自分は資本を主たる武器とした提携交渉や、 金融分野での企画推進でキャリアを積もう、と考えたため。 当時、JV設立や会社分割などの案件が進んでいた。 眼前のものの面白さにおぼれたため。 (2)経営チームの若さ、事業計画の甘さ、 収益志向の弱さから、 収支計画の未達を強く警戒した それは即ち、 キャッシュ・インカムは減少する代償に得るオプションが、 割に合わない可能性が高い、と警戒したということだ (3)斯業におけるCGMとしての圧倒的ポジショニング、 及びそれを維持するための人材・組織文化、 の2点を備えている点がコアコンピタンスだった。 が、この強みについては、 CGMの盛衰は脆い側面もある、と警戒したため 当時、M社でさえもCGMの収益化はチャレンジングだった。    ※だからこそ、収益志向とのバランスが取りづらかったのだ。    故に、ECサイト自社運営などの、    遠回りな戦略をとらざるを得なかったようだ。 そして、これは、上記2とは異なり、 メディア価値が落ちてしまったら、完全にExit戦略が絶たれる。 こうなってしまうと、失敗のときに唯一得られる、 Corporate Investment Bankerのキャリア面でも何も得られない、 ということを恐れた。 =========================== なお、もし行っていたら、 7年後の今、1本級のストックを形成し、 かつ、7年間の苦難と、 ダイナミックな資本政策を切り抜けたCFOという キャリアを得たことになる。 =========================== 2012年、もうすぐ38歳になる今、 行かなかったことが、人生のミスだった、 とは全く思っていない。 しかし、 ここで自分の胸の内・思考回路、 リスクへの対峙の弱さを検証し、 38歳以降の人生の示唆を得てみたい。 =========================== ■振返り(1) 経営チームの若さ・甘さ・・・という点だが、 実際には、自分の見立ては間違っていなかった。 なぜなら、実際、I社は、 その後2006年~2009年度まで約4年もの間、 一旦は大赤字に陥る道を辿ったからだ。 そして、息を吹き返してさらに3年、 TOTALで7年、成功に時間を要した。 しかし、そんな予測が当たった、とかはどうでもいい。 今、思うと、 当時の自分は思考の軸がずれていた、 と言わざるを得ない。 なぜなら、そのリスクは、出資だとコントロールできないが、 自分が飛び込めば、コントロールできるかもしれないからだ。 もう一度いう。 出資じゃなくて、 自分の体力・知力を投じる、という案件だったのだ。 本件は。 むしろ、だからこそ、行けばよかったのでは?  という要素ですらある。 「自分を信じる」ならば。 重要なのは、 自分の生殺与奪権を握るオーナーが信頼できるか、 経営メンバーが信頼できる仲間かどうかであり、 自分がインサイダーとして飛び込んで、 自分発で話し合って、変えていけばよかったのでは?  「自分を信じる」ならば。 =========================== 第一に、 私は、困難に対して、過度に「客観」してしまう傾向がある。 自分を投じて「主体」となるのと、 サイレントインベスターとして物事を捉えるのは、大きく異なる。 今後、物事を考える際、強く留意すべきであろう。 =========================== 第二に、 私は「意外と自分を信じてない」のかもしれない。 これは、自分の潜在意識にある大きな陰であると、自覚すべきだろう。 自分は、やろうと思えば、なんだってできる。 資本提携交渉のプロだが、出資募集はやったことなかった。 でも、やればできた。絶対に。 というか、やれば今だってできる。絶対に。 =========================== 第三に、 「もし、失敗したら・・・ 次に転職だ」 という点に、相当の恐れを抱いていたのだろう。 当時の自分は。 実際、I社は、 その後2006年~2009年度まで約4年もの間、 一旦は大赤字に陥る道を辿った。 自分だったらどうしただろう?  途中で逃げ出しただろうか?  結果的に、 I社マネジメントチームは誰も抜けなかったようだ。 そして、結果的にそのさらに3年後、トータルで7年後にIPOを迎える。 その心胆、まさにストックで社会から報いられる資格がある。 本当に賞賛すべき、心胆である。 脱線してしまったが、 最後まで殿軍を勤め上げて、か、 もしくは戦場放棄する形であっても、 もし、34歳で2009年にドロップアウトしたとしても、 CFO・経営企画マンとしてのキャリアは積めたわけである。 また、結局、回り道はしたものの、 最終結果として、 R社のような無理やりな収益志向を強いて、 メディアとして死なせたような馬鹿を、 彼らはしなかったわけだ。 結果として、成功だったのだ。 当時は、CGMのビジネスモデルが確立した、というわけではなかった。 M社でさえも、収益拡大に苦慮していたのだった ⇒その後、類似C社のビジネスモデル(課金)で、 一気に息を吹き返すこととなった。 一定規模になったならば、最悪、課金すればいい。 というモデルは確かに当時から存在していた。 そこの見極めができなかったのだ。僕は。 リスクの方に目を向けてしまったのだろう。 ============ 以上の事実を踏まえて、 自分を見つめ直す必要がある。 以上

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