小さなkitchen-Garden

2014/05/30(金)19:17

太平記の里群馬県太田市2

旅先案内(88)

太平記の里新田荘の中にある"生品神社"に向かって歩いている途中、新田氏ゆかりの城跡と出会いました。 【上州寺尾城跡】 1180年に源頼朝は伊豆の蛭ヶ小島で平氏打倒のため挙兵し、関東の源氏の一門や源氏累代の家人に対して味方を募りました。相模の三浦氏や房総の千葉常胤と上総介広常らは味方することを約束し、同じ源氏一門である甲斐の武田氏や上野の足利氏もすぐにその呼びかけに応じましたが、新田義重は色良い返答をしませんでした。そして、新田一族独力で平氏打倒の挙兵をして上州寺尾城に兵を集めました。 これが頼朝の勘気に触れ、足利、山名、里見の厚遇に対して、以降新田氏は冷遇されてしまう歴史を辿ることになっていきます。 新田 義重(にった よししげ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の河内源氏の武将。武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の孫で源義国の長男。新田氏本家の初代であり、上野国新田荘を本拠としたため新田義重と称する。足利氏の始祖源義康は異母弟です。そして、新田義重は源頼朝の祖父とはいとこの関係になります。新田義重にすれば、この若造がという思いだったのかもしれませんね。 【上野国 新田郡庁跡(こうずけのくににったぐんちょうあと)】  新田郡の郡役所の中枢施設である郡庁つまり現在の市役所の庁舎の遺跡ということですね。 史跡上野国新田郡庁跡は、古代の文献の記載に一致する遺構のほぼ全体が保存されており、周辺には正倉などの関連遺跡も存在し、古代官衙遺跡のあり方を考える上で極めて貴重な遺跡ということです。  貴重な遺跡に寄り道しながら目的地に到着しました。  【生品神社(いくしなじんじゃ)】  生品神社は、新田義貞が後醍醐天皇の論旨を受けて、元弘3年(1333年)5月8日、鎌倉幕府 北条氏の討伐の旗揚げをしたところで知られています。 新田義貞が旗揚げを行った時はわずか150騎、しかしそこに越後の新田一族なども加わり数千騎にもなったといわれています。これで15日間で鎌倉幕府を攻め落とすことができたのでしょう。 【拝 殿】  生品神社の境内には、旗揚げ塚、床几塚(しょうぎ)があり、新田義貞が旗揚げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木が拝殿前に保存されています。生品神社は、平安時代に編集された書物に「新田郡従三位生階明神」と書かれていることから、平安時代には存在していたとされています。   【神代木】 この神代木は、新田義貞が鎌倉討伐に出かける際、大中黒の旗を掲げて戦勝を祈願した木といわれています。鬱蒼と茂り、高さ約33メートル、樹周囲6.6メートルにもなる大木でしたが、1904年(明治37年)大きな音をたてて倒れてしまったので、その木の一部を残して記念としたわけです。 【新田義貞公銅像】 新田義貞公はこれから鎌倉を攻め、後醍醐天皇を助勢し中央への進出の野望を抱いていたのでしょうか・・・・・。 《続く》 

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