国宝彦根城と国友鉄砲の里&長浜探訪の巻
3月29日に国宝彦根城と国友鉄砲の里を訪ねました。参加の諸将は伊達籐次郎殿(看1)、長尾景虎殿(看1)、栗林中将殿(看1)、猿飛佐助殿(社2だったが19日に卒業)、南方の総勢5名でした。朝8:30に短大に集合しまして中将殿と佐助殿を南方ATENZAに乗せ、籐次郎館へ行きますと、すでに駐車場で待機されておられました。その後、北陸自動車道小杉I.Cに入りまして、徳光P.Aで景虎殿と合流しました。P.Aでは中将殿が自販機でドリンクを買ったのですが、なんとアタリ・・ハッピー缶(サンバホイッスル)が出まして、うれしそうにしていました。くれるのかと思いましたら大事にしまっておりました・笑 一同よくわからないワクワク感が高まりましたぞ。その後、加賀温泉など通過しまして越前国(福井)に突入、そのままノンストップの南方走りで長浜I,Cを降りたのが11:00頃でした。最初の訪問地は国友鉄砲の里資料館です。鉄砲が日本に伝来した頃から幕末に至るまで、つまり織田信長の時代から徳川幕府の幕末まで国内の鉄砲生産の重要な拠点だったところです。里の歴史や鉄砲生産のプロセスのVIDEOを見たり、本物とほぼ同型の展示に触れたりして、思いおもいに楽しみました。とくに火縄銃はかなり重いらしく、六波羅一同たいへん勉強になりました。やはり、気軽に撃てるものではないですね。それにしても人命治療、人助けを学ぶ諸将と鉄砲とは・・南方としては複雑な心境でございました。他に国友村内の司馬遼太郎の碑文など見まして、またまた腹が減っては戦さができぬと長浜市内で昼食を食べることにしました。当初リサーチしてあったのは近江牛スエヒロでしたがなんと満員行列・・これはまずいと思い長浜商店街に打って出ましたところ、かなり風情のある町並みとお店が・・・ガラス館や曳山会館、珈琲屋や饅頭屋などたまらなく素敵でした。やっとたどり着いたのがお食事処今濱屋さん。なんとここには黒トンカツなる竹炭入り黒パン粉であげた見た目が怪しげなカツカレーがありました。籐次郎殿、佐助殿はさすが一番槍系だけあって即注文されておりました。お味はと訊いたところ、あっさりしてたいへん美味とのことでした。以前のイカスミソフトとは違ったようです。これもオススメですぞ。満腹になったところでいよいよ彦根城へと商店街を進んでおりましたら、なにやら怪しげなミュージアムを発見。これは北斗の拳のケンシロウではないか。点滴の入りやすそうな血管を見ながら思わずポーズ決めたのは中将殿でした。ここは海洋堂フィギュアミュージアムといいまして、食玩を作っている会社が立ち上げた博物館で、中はフィギュアだらけの人だらけ・・エヴァンゲリオンやら恐竜やらマニアもうなるラインナップで展示販売されておりました。予算をもっともってくればと嘆いた諸将もいたと思いますが、まさかの発見でした。長浜を訪ねたら一度はのぞいてみるとよいでしょう。ここですでに時間が少なくなってきまして「このままでは徳川の知将井伊直政公をモデルにした籐次郎殿が大のお気に入り「ひこにゃん」の登場時間に間に合わないとのことで、琵琶湖を右手に「直政公とのギャップ大きすぎ」などひとりごとツイートで国宝彦根城に向かいました。着いたのは14:30頃でバッチリひこにゃんを見ることができました。ゆるきゃらの殿堂入りをしただけあってたいへんな人集りでしたぞ。その後は彦根城博物館、天守閣など堪能し、気がついたらなんと17:30でした。時間の経つのも忘れるくらいそれはそれは素晴らしい名城でした。歴史に興味が無いという方でも「城」とは何かを知るには、国宝姫路城と並んでうってつけの場所でございます。ここで少し井伊直政公の解説をしてみましょう。南方が敬愛する小和田哲男先生の文章から引用します。「井伊直政」生年: 永禄4.2.19 (1561.3.4) 没年: 慶長7.2.1 (1602.3.24) 戦国・江戸前期の武将。戦国大名今川氏の重臣井伊直親の子として遠江の井伊谷に生まれる。母は奥山親朝の娘。幼名万千代。永禄5(1562)年,父直親が讒言によって今川氏真に殺されたため各地を放浪し,天正3(1575)年,浜松城下で徳川家康に見いだされて仕えた。翌年早くも遠江の芝原における武田勝頼の軍勢との戦いで初陣。以来,直政の姿が,本多忠勝,榊原康政といった家康の旗本先手役と並んで先鋒の中にみられるようになる。天正10年の武田氏滅亡,さらに本能寺の変後の家康による甲州経略の際,武田遺臣の招撫に功があり,家康は武田遺臣120名を直政につけ,山県昌景の「赤備え」を継承させた。そのため,このあとの戦いでは旗や具足などを赤一色で統一した「井伊の赤備え」がみられた。同12年直政24歳のとき,修理大夫に任ぜられ,次いで同18年家康の関東移封に際し,上野国箕輪で12万石を与えられたが,これはこの時点での徳川家臣団の石高で最高であった。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では,家康の4男松平忠吉の後見役を務め,福島正則と先陣を争う形で戦いの口火を切ったことが知られている。敵中突破を試みた島津軍を追撃し島津豊久を討ち取るが,その最中に銃撃を受けた。戦後の論功行賞で近江佐和山18万石が与えられたが,このときの傷がもとで,2年後没した。(小和田哲男)直政公は関ヶ原の戦いの島津追撃戦の負傷がもとで、彦根城の構想を抱いたまま亡くなっています。ですので彦根城は直政公が没後、家老などが徳川家康公と相談しながら築城するに至ったと伝わります。 つまり、あんまり彦根城とひこにゃん(直政公)はつながってないんですね~。おっともうひとつ忘れておりました。映画にもなりましたしセンター試験にも出てくる「桜田門外の変」で有名な井伊直弼公の銅像にもお会いして参りました。朝廷の意見を入れずに開国したことや不平等条約の締結、安政の大獄などマイナスイメージで語られておりますが、世界情勢を鑑みれば致し方ないと考えられるところが多々あります。彼の決断が当時の日本の民百姓を苦しめたとは必ずしも思えません。地震災害などの天変地異が多かった安政年間は、もっといろいろな角度から研究されるべきと・・おっと小難しい話になりました。失礼いたしました。話を戻しましょう。彦根城を探訪した後は彦根I.Cから名神経由にて北陸自動車道で富山に帰還しました。夕食はやっぱり尼御前S.Aでした・笑急に決まったこともあって、OBOGのみなさまにご案内できませんでしたが、今回もたいへん充実した旅になりました。やっぱり歴史探訪はいいですね。次回は5月頃に加賀国一向一揆と第九師団を巡る旅を予定しています。権大納言さま他のご参陣を期待していますぞ。今宵はこの辺で・・・