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昨日あたりから、やたら右腕が痛くて肩より上に上げるのが辛い。
さて、53肩かな、などと笑いあっていたけれど、ふとその原因に思い当たった。 そういえば2,3日前に、よせばよいのに若い子に挑まれて腕相撲をしたのです。 やれくそ、と負けず嫌いの悪い癖で本気になってしまったけれど、ははん、それだな。 体が言うことを利いてくれないのは辛い。 さて、コップ一つを持ち上げるのも厄介で、人様の手を煩わせるのですが、いちいちお願いするのも気が引けるので、ついつい無理をしてしまいます。 するとそれを見て、また皆様が手を煩わせてくれる。 と、こんな按配で、言わずもがなの人との接し方に、ついつい想いはせることになるのですが、教育というテーマにしたのは、実はここのところに訳がありまして、そんな不自由な私に手を貸してくれる方々は、実に気持ちよく接してくれるのですが、それはまったく「人」としていい顔をしてらっしゃる。 無理をして、いやいやではなく、本当に自然に手を貸してくださる。 だからお顔もおやさしい。 それは当たり前で、皆さんがいるのは居酒屋で、何も人様と競い合ったり、戦いあったりする場所ではないんですね。 つまり、心に余裕がおありになる。 と言うよりも、本来の自分でいられる時間のなかにいる。 競らない、というのが、実に人でいるには良い按配なのですね。 本題に入ります。 「1リットルの涙」の亜矢さんが学校にいるとき、さて教育者と同窓の人々はどうだったのでしょうか。 彼らは、教育と言う場の、まさにその進行形の中にいたのですね。 教育とは、知識を与え、個人の能力を伸ばすためのいとなみで、一定期間、計画的、組識的に行なう学校教育をさす、と辞書に載っていました。 さて、「教える」。 神や上位の人がさとし、導くこと。教訓。戒め。 知識、常識を知らせること。 技芸などを伝授すること。 そして「育む」。 養い育てる。養育する。また、大切に世話をする。 心をこめて面倒をみる。 いたわり守る。かばう。保護して、それを伸長させる。 治療する。療養する。 いずれも、小学館の国語大辞典を参考にさせていただきました。 (人としての)知識、常識や技芸を、いたわり、かばいあう中で諭し、心をこめて面倒を見ながら伸張させる。 実は、ここに争いは無いんですね。 人らしくあるのに、人様と競い合う必要は無い。 何も、能力を友人と(教育者に)比較されることは無い。 あるのは、自分自身との比較で、昨日の自分より、良い人間になれたのか、良い人間としての能力が身に付いたのか、だけであって、その過程の中で人として成長していく。 亜矢さんが高校時代をすごした学校の現実は、勿論違います。 もっぱら教育者が「技芸」ばかりを教えているのですから、それも、人様との比較の中でなのですから、教えを乞う学生さんは可哀想なわけです。 昨日の同窓生より、少しでも秀でなければなりませんので、当たり前のことですが、人様をかえり見る余裕がありません。 というよりも、その「人様を省みる」、と言うことを、本来お教わりにいっているのですが、肝心なそれはお教わっておりません。 ですから、そんな感覚が身に付くわけは無いのでして、ひたすら自分の事を考えざるを得ないのです。 (そんな中での生徒さんたちと亜矢さんとの交流が素晴らしかったのは、そんなお子さんを育てた保護者の方々の人間教育が素晴らしかったからなのですが。) それは、生徒さん自身のせいではなくて、もっぱら、教育のあり方がそうさせているわけでして、致し方ないんですね。 「お世話をすることに疲れた」という言葉は、(本来教師が、亜矢さんのお母様に言うべきことではないのですが)だから、生徒さんが、そういう言葉をつい口にしたのは致し方ないんです。 致し方ない、と言ったのは、ただし、教師が言った意味とまったく違うのですよ。 彼らや、彼女たちは、「亜矢さんと同じ時間を過ごすことは、ごく自然のことで、常に亜矢さんの友人として自分たちがあるのは当たり前のことだが、そうさせてくれない学校の環境が私たちを疲れさせているんです。」と言っていたのです。 だから、そういったのは、致し方ない、と言えるのですね。 教育について、おそろしく、いやなことを見てしまいそうですね。 本来の学び舎で学ぶことが、教育と言う言葉がその上に覆いかぶさったとき、本質を変えてしまうようです。 亜矢さんと過ごし、ともに助け合いながら学ぶことが、本来の教育の目的だったはずが、その機会すら奪われてしまったのですから。 彼らからその言葉を聞いたとき、教育者は、教育者の中でその言葉をもっと真剣に噛み砕き、その問題の解決に真正面から向かい合わなければならなかったのではないか、と、私は考えます。 同窓生との競争を強いられていた学生の皆さんは、その戦いの中で、時間の使い方に、疲れてしまったのです。 亜矢さんに使える時間が無かったのばかりではありません。 彼らにもまた、時間が無かったのです。 どんなに早くから亜矢さんのために時間を作ろうと努力しても、彼らに課せられたスケジュールは、それをけして許してはくれなかった。 そしてそれを見ていた教育者は、それを根本から是正しようとはけしてしなかった。 きっとそこに気付かなかったのは、かれらもまた、いつのまにか、余計なものを押し付けられていた、あわれな大人たちだったからなのかもしれないのですね。 教育とは、学生との時間の過ごし方の中で、「教育」自身も徐々にその本質に迫り形を変えていく(人としてのあり方とその育て方)べきものです。 とくに、小・中・高校教育はそうあるべきで、闇雲に技芸を高めるべきところではないはずです。 すみません、この話はよさなければなりません。 教育のあり方を考える、と言う話ではなかったのですから。 何れにしろ、亜矢さんは、本当の学校のあり方をほんの少し教えてくれた、と、きっと今になって、母親になり、父親になった人々は気付かされていることでしょう。 いま母親になり、父親になった人々が、日々役立たせていることは、学校で教えてもらった技芸ではなく、知識、常識を知らせることを、養い育て、大切に世話をし、心をこめて面倒をみながら伝授することだと、亜矢さんとのかかわりのなかで教えてもらったことだろうからです。 長くなりましたね。 あの場にいた人々が、疲れたと言う言葉を口にし、それを教師の口から伝えられたお母様は、けしてそれを誤解してはいなかったのでしょうが、わたしなりに、その言葉の本質をあれこれ考えてみたかったので、ついつい、言わずもがなのことを書いてしまいました。 映画があります。 さて、そこいら辺のところを、監督さんはどう捉えてくださったのか、わたしなりに楽しみにしています。 どうも、「1リットルの涙」や、「いのちのハードル」は、いけません。 ついつい、様々なことを考え、思い悩ませてしまうのですから。 でも、そのあとで、いつもすがすがしく、晴れ晴れとした明日を生きようと、大切なものをあたえてくれるのですから、差引勘定で考えても、この本たちに出会えたのは、(名古屋風にいえば)ずいぶんとお値打ちだったと言えるかもしれませんね。 映画、最初は、一人で見に行きます・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年09月12日 11時05分24秒
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