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カテゴリ:思想
以前から予定していたのに、仕事の都合でどうしても出席することができずにいた加賀野井秀一先生の講座「メルロ=ポンティの言語論」。第5回目にしてやっと初受講となりました。言語論は難しいだろうなあと心配していましたが(実際に、難しいですが)今期はこれまで以上に分かりやすい実例を挙げて説明をしてくださったので、なんとか着いていくことができました。
さて、今回のテーマは「言語が世界をどう切り取るか」について。ノートの大半は、ばう犬によって見事に要約されていて、自分の稚拙な感想をはさむ隙間がないくらいで悔しい~。 ばう犬のブログより <言語を習得するというのは、言葉によって世界を切り取り、少しずつ切り分けていく過程であるということです。そのようにして、ボキャブラリーが増えることで、世界は区分され、細かく識別されていきます。言わば、言語習得は、認識獲得に等しいわけです> 私たちの多くは、言語とはコミュニケーションの手段であると考えていると思うのですが、メルロ・ポンティは世界を切り取り、さらに細かく分別し、認識していった結果に残る音だと考えます。 ばう犬のブログより <乳幼児の頃の「生体験」では、「快/不快」などの単純な印象で世界を見分けています。それが、成長のある時点から、言葉なしで世界を見分けることが不可能になってきます。たとえば、「愛」などの抽象的な概念は、言葉なしには、明確に感得(体験)できません。 「生体験」は、しだいに自己組織化され、世界認識が形成されていきます。> 例えば私に気になる相手がいたとして、その人にまつわる事柄・・・例えば、触れ合いたいとか、欲を言えば肌同士をくっつけ合いたいとか・・・・そういう事柄を「愛」でくくれば愛になるし、「愛」という言葉を持たない言語圏の人々にとって、それは単なる性衝動である、ということです。ちなみに「愛」なんて言葉をひっつけずに男女の性差を利用して親密な関係をつくるというのも、ひとつ素敵な関係だとは思いますが(これじゃサルトル的か?)。 そして表現されることで思考は確認されるのであれば、表現せずに心のうちに隠しているうちは、もやもやとした感情のままで、自分にも相手にも曖昧なままでいることが出来ます。「好きです」といった途端にその感情が取り返しのつかない「好き」になってしまう経験はありませんか?曖昧なままで、淡いままで取っておきたいと思うのであれば、文字にしてしまったりしないように、小声でつぶやいたりしないように気をつけましょう。「好きです」と言った途端に「いや、この言葉はウソだ」と気付ける場合もありますので、表現は慎重に、もしくは大胆に行うのがよろしいかと思います。 なんか、今日は恋に悩む友人に向けて書いた内容になってしまったので、後日、講座になるべくに忠実に「言語論」を再び書いてみようと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.06.29 10:36:57
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