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カテゴリ:思想
最近、ボディワークに関する内容のブログが少ないじゃないか、と思われそうなほどにボディワーク関連の事柄を書いていないのですが、ここには書いていないだけで別のところにまとめて書いてあります。毎日、セッションを終えて、夕飯をさっさと済ませてパソコンに向かっています。電車は、最近では仮眠のための場所となり、読書もなかなか進みません。 そんな毎日の中で、少しずつ読み進めているのが、先日のブログでも紹介させていただいた『「うるさい日本」を哲学する-偏食哲学者と美食哲学者の対話』 加賀野井秀一・中島義道著 講談社 です。 というのも、この貴重な往復書簡は、「騒音」について論じているようであり、実は私たち「日本人」の哀れむべき善人的態度と不和雷同な日和見主義を、見事に浮き彫りにしてしまっているからなのです。つまり、読んでいくうちに自分や周りの人間がダブってくる。私にとって、この本で語られているのは、出来れば直面したくない「物事にこだわりすぎる私自身」と「善意といいつつ悪意をオブラートに包んで平気で他者に嫌がらせを行なう身近な人物たち」です。 時間はかかりそうですが、すこしづつその内容を要約してみようと思います。 <第一信:音漬け社会 中島先生→加賀野井先生> この音と、その改善に対する行政や企業の無反応に業を煮やした中島先生は、「街を静かにする会」の名刺やゴム印まで作って戦うことを近い、実行に移すのですが、こうした行為はいつも日本人的「曖昧さ」「事なかれ主義」「情」によって玉砕されてしまう。 自然を愛でるべきお花見でも、日本人は大騒ぎをする。これは、日本人は「観念的に」季節感を含めた自然をとらえる能力を身に着けているから、と中島先生は推測します。つまりは「事実より、観念」が日本人の常としてあったと私は捉えています。「日本人の自然観とは、きわめて定型的な自然観であって、早春の訪れを喜び、桜の開花に胸をときめかし、秋風に心を躍らせる・・・つまり、感じるべきこと(だけ)を感じるという自然観なのです」という先生の文章を読み、季節を伴わない衣替えや、商品化された季節感を思い起こしました。 季節感から騒音に話は戻りますが、こうした音を垂れ流す人たちを「善意の人なのです!だから、こういう放送を流すことに何の罪の意識も持っていない。それどころか、胸を張って誇れる善行だと確信している。私は、いきなり胸元に短刀を突きつけられたような脅威を感じました」と文中でつづっていらっしゃいます。そしてご自分が戦っている相手は悪党ではなく、「正直で思いやりのある優しい人」であり、「よいことをしよう」といつも身構えている「善良な市民」であること、そういった方たちと戦うことの難しさに悩むのです。そんな中、「拡張期騒音を考える会」で司会をしていらした加賀野井秀一先生と出会うことになります。 そうした交流を元に、中島先生が発した「日本の街を変えられないのなら、せめてもっと学問的にここに潜む問題を探ってみよう」という疑問に答える形で、加賀野井秀一先生がご自分の見解を返信する。そして、その手紙が更なる展開を道づくって行く。それが『「うるさい日本」を哲学する-偏食哲学者と美食哲学者の対話』 加賀野井秀一・中島義道著 講談社 です。 「考える」ことに興味がある方、言語に興味がある方、日本人に、その歴史に興味がある方にはぜひ読んでいただきたい本です。ゆっくりになりますが、この後の加賀野井先生の返信の要約も、ブログにアップしていきたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.10.03 09:58:57
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