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ロルファーサイトウのつれづれ日記

ロルファーサイトウのつれづれ日記

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カウンセリング・心理学

2007.06.30
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今日は半休をいただいて、横浜市港南区上大岡にて野田俊作先生の講演会に出席した。「アドラー心理学の新展開」をテーマにした講演会で、「新しい時代を迎えつつあるアドラー心理学はよりソフトでより強力な21世紀的な治療デザインが次々と開発され、他の流派との心理療法とも活発に交流するようになってきています。」という講座の説明に惹かれて参加を決めた。新たな治療デザインは何がベースになっているのだろうと楽しみに会場に行った。

先日、加賀野井先生の「メルロポンティの言語論」で言語の役割について講義を受けたばかりだったが、今度は心理療法の視点から構造主義の重要性が説かれた。レヴィ・ストロースやソシュールをこれまでのアドラー心理学の技法と融合させることが可能であること、そしてそれが有効であること。野田先生は今回の講義では「構造主義とは、一度すべてを言葉にしてみる方法」というコンテキストで話が進められたが、心理療法は言葉の療法であることを考えると、こうした構造主義の思想と心理療法は相性が悪いわけがない。講義の最中で、現象学は言葉に対する尊敬が少ない、言葉だけが自分と相手が持つ共通項であるということを重視しないと指摘したが、現象学は身体図式が核となるという観点から見たときには、ここは意見が重ならない部分だろうと想像できる。

先日書いたブログではないが、私たちは話している最中に、自分の思いを確認する。私などは、なんとなく不調があって病院に行き、医師に「どうしました?」と聞かれて「どうしたんだっけ?」と戸惑い、話しているうちに客観的に自分の症状を理解していく経験を持っているが、まさにこうした状態をカウンセリングで味わったことがある。「どうしました?」と聞かれてやっと、問題が「問題になる」のである。思いやフィーリング同様に、情念は、言葉として形を持つまでは存在しない。好き、と言葉にして、その思いがはっきりと「自分の定義の中での好きのカタチ」を持つ。そうした言葉と感情の発露の順番を理解できなかったり、感情を言葉として扱えないのであれば、感覚的で動物的であると言われても仕方がない。

子供などは、言葉を理解できた時点でやっとお絵かきができるようになる。顔、足、手という認識がなければそれは存在しない。外界というのは、言葉によって形になっていく。


こうして考えると、私たちの「語り口=storylying)によって問題がつくられるのであり、出来事の語りなおしができれば問題(そして住んでいる世界)は変わる。カウンセリングは、「何が起こったか」よりも「どう語るか」を知るための手段として使われる。そして、相談者とカウンセラーの間の共通点は言葉である。母親の言葉が「息子は勉強しないし生活習慣もよくない」と訴えたときにすら、息子の実際の行動(外界)も、母親の実の気持ち(内界)も分からない。確実に分かるのは、語り手の口から出てくる言葉だけである。

この後、表層構造、深層構造と、クライアントが問題に気づきやすくするための技法に話は移っていくのだが、その部分は省略するので興味がある方は講座に参加して欲しい。

アドレリアンは、「共有」はできると考えるが、「共感」ができるとは考えない。それは、言葉より感情が先にあると想定してしまうと、手が届かない部分が出来てしまうからである。誰も、相手になりきり、体験をすることができない。その事実を踏まえ、私自身もロルファーとして「共有」することに意義を求めようと思った。私は時に情に流されすぎるので、この言葉は素晴らしいストッパーの役割をしてくれるだろう。

加賀野井先生の言語論との比較を上手に入れることができればよかったのだけれど、まだそこまで理解できていないので、言語化できなかった。私の理解は、非常にゆっくりと起こる。


*********
先日、カッコつけてヒールの靴で早足で歩いたら、左の膝を痛めてしまった。でも、健康よりもオシャレがしたいときだってあるのである!






Last updated  2007.07.01 01:41:17


2006.07.04
アドラー心理学は、「他者を支配しないで生きる決心をすること」「他者に関心を持って相手を援助しようとすること」を思想として治療体系が作られている。理論体系については過去のブログに簡単に説明したものがあるので、興味のある方は参考にしていただきたい。 アドラー1アドラー2


アドラー心理学の講演は、会員も非会員も共に聴くことができるし、ワークショップやセミナーに参加するのも自由だ。学会のサイトには、アメリカで活躍しているアドレリアン(アドラーを勉強する人)と日本で基礎講座を教えるアドレリアンに「アドラー心理学とはなんですか?」という題目で4つの質問をしているページがある。それぞれのアドレリアンの答えに個性があって、非常に面白い。

以下、サイトからの引用で少々長くなるが一部掲載する。

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質問「アドラー心理学会には、非専門家の会員もたくさんいると聞きました。専門家と非専門家が一緒に学ぶことについてコメントをいただけませんか?」


ジェーンネルセン博士
回答:それはアドラー心理学の基本です。すなわち、すべての人への平等と尊敬ですね。人はお互い同士学びあうのです。教育程度が高いからといって他の人の上にいるわけではありあません。すべての人は違う体験を持って生きていて、その中に、他の人の助けになるようなものがあるのです。


野田俊作氏
回答:アドラー心理学はすべての人間のための宝物です。それはあらゆる人に向かって開かれていなければなりません。独占する権利は心理学や精神医学の専門家にはないのです。専門家にとっては、非専門家とともに学ぶことはとても有益で、狭い視野に陥る危険を、非専門家の健全な常識が予防してくれるのです。非専門家にとっては、アドラー心理学運動を通じて人類の未来に貢献する機会をもつことは、とても興奮する体験だと思います。


岸見一郎氏
回答:アドラーは、ある時、ニューヨークの医師会が、アドラーの理論だけを精神科の治療に使うために採用したい、ただし医師だけに教え、他の人には教えないという条件を提示した時、その申し出を断わりました。アドラーはいいました。「私の心理学は〔専門家だけのものではなくて〕すべての人のものだ」と。アドラーの時代も今もアドラー心理学は「すべての人」ものなのです。
 アドラー心理学を学び始めてまもない頃、野田先生にこんなことをいわれたことがあります。「井戸端会議のできる哲学者でなければ意味がないよ」と。
 ソクラテスは一日中アテナイの青年たちと議論をしていました。アドラーは講演が好きで講演の後、質問をしにくる人に囲まれるのが好きでした。場所を変え、熱心な学生や友人たちと夜遅くまでカフェで議論をしました。
 私もそんなソクラテスやアドラーのように研究室を出て、井戸端会議を楽しめる哲学者になろう、と思いました。以来、「肱掛椅子の哲学者」(armchair philosopher)ではなく、市井の人として生きたい、と考えるようになりました。「井戸端会議」から多くのことを学んでいます。
 アドラー心理学は専門家と非専門家が共同して作り上げてきた心理学なのです。


田中禎氏
回答:アドラー心理学そのものが専門家、非専門家をわけない心理学だと思うのです。誰が勉強してもいいし、誰がそれを実践してもいい。他職種の専門家が集まっても、非専門家がそこに同席しても同じ話ができる心理学です。



諸氏が異口同語にして言わんとするのは「良いものは外に向かって開かれなくてはいけない。」「学びは共同作業によって生まれるものだ」「教えは全ての人のものだ」であろう。

閉じられた空間で物事が行われるとき、そこには新しいものは生まれにくく、選民意識だけが高まっていくだろう。「知る者」はそこに存在する人々のみだという錯覚が生まれ、内部には新たな紛争が巻き起こっていくだろう。アイダ・ロルフが生きていたら、きっとアドラーと同じ考えを持っていただろうと想像した。






Last updated  2006.07.05 03:26:03
2006.06.30
テーマ:人間関係(902)
コーチングというテクニックがビジネスの世界に大きな功績をもたらしているという。コーチングとカウンセリングは比較されることが多い。コーチングをセラピーの仕事に取り入れている施術者の方もいらしゃるようだ。

コーチングはカウンセリングを受けるクライントが自分の立場についてはっきりとした認識を持つときに有効となる。たいていのクライアントは自分の居場所や望み(目的)がはっきりしていない。「~したいのだが」と相談してくるクライアントに対して、行動を導く助言を与えるコーチングは非常に有効なツールとなるだろう。

「どうしたいのかわからない」と訴えるクライアントは、カウンセリングの領域に入るだろう。ただ、こういったクライアントに対して自分の一方的な意見を述べるのであれば、これはカウンセリングにもコーチングにもならない。施術者は、果たして自分がコーチングをする十分なスキルを持っているのか、カウンセリングの知識があるのか、ただの施術者であるのかを自問自答しなくてはいけない。そして、クライアントが「何もする気力がない」といった場合には、心理療法の手助けを示唆しなくてはいけない。

目的がはっきりしている相手に対して「何を目標にしますか?」「現在、どんな状況にありますか?」「どのような方法で改善・実行しますか?」「いつから実行に移す予定ですか?」というコーチング独特の方法で導きをしていくが、この段階で、クライアントの答えは(残念ながら)認知枠に固定され、回答が出せなかったり、現実を見ずに目標を立ててしまう可能性も高い。

カウンセリングは過去に焦点を当て、コーチングは未来に焦点を当てるといわれる。だが、この定義には当てはまらない部分があることに気づくだろうと思う。

お分かりだと思うが、クライアントの心理的要素に深く関わっていこうと思うのであれば、クライントの思い込み=認知に関わる必要がある。コーチングの前段階である、カウンセリングや心理療法(認知行動療法)を理解している必要があるということだ。この領域は、困ったことに独学で学ぶのには大変に難しい技法だ。いわゆる心理カウンセリングでは、ばう犬のブログにもあるように、スーパーバイズの元に、ケースを取りながら会話を記録・分析し、ケースを重ねつつ臨床から学んでいく。

目的がわからないクライアントを目的を作る段階まで導くことができなければ、コーチングのテクニックを有効活用することは難しいと言えるだろう。
コーチングを学ぶのであれば、まずはカウンセリングの基礎が必要ではないか。そして、施術に取り入れるのであれば、心理的な部分に深入りしない工夫が必要だろう。

ということで、明日は心理学のセミナー出席のために一日お休みをいただきます。
皆様、よろしくご配慮くださいませ。






Last updated  2006.07.01 00:48:11
2005.12.11
12月10日。私は朝からとても感情的になっていて、クライアントさんの持ってきてくださったシュタイナーのカレンダーを利用したとても美しいお札入れに勝手な意味づけをして大きく感動し、おまけに涙ぐんでしまうという失態を犯して大きく反省、アドラー心理学のオープンカウンセリングに参加するため横浜駅に向かう途中の駅ビルで、いつも買い物をする洋服店で大きく衝動買いをして、脱いだ服が入った(ほぼ丸ごと着替えた)膨らんだ手提げ袋に舌打ちしながら電車を乗り継いで西日暮里に向かう。身体のサイクルの変化は、時として私の行動を適度な範疇から逸脱させる。女性ならばわかっていただけるだろう、このどうしようもない行動の意味を。

アドラーは有意義だった、なぜその人の考え方のクセは手に取るように傍観者には見えて、本人には見えないのだろうか。アドラー心理学では、その人を判断することはしないし、その人がその人となった過程を重視しない。問題が起こったときは、それを科学的に見ようとする。つまりは、まずは観察する→検証する→ライフスタイル(その人の思い込み)を変えるための方法を見出し、適応し、そして結果を見る。いままでやってきたことの一部をよく観察してみて、間違いが起こる場所を指摘する。具体的に説明すると、思い込みに基づいた行動に注目させ、その行動を起こさせる原因となる「考え方」が本当なのか思い込みなのかに気づかせる。思い込みのようだと気づいたところで、「違うやり方」を適応してみる。その結果がどうなるかで、新しい方法が「役に立つ」か「役に立たないか」の判断材料とする。心理学は目に見えないものを扱うと考えられがちだが、とんでもない。行動が変わるならば、それは目に見えないものを扱っているのではなく、実際に観測できるものを扱っていると考えてもいいかと思う。

もうひとつ、観察するというのは、考えるのをやめる、ということである。たかだか自分なぞの考えることなんかは、自分というちっちゃな井戸の中でぐるぐると回っているようなもので、問題解決になどなりはしない。考えて考えて出した結果は、より自分の認知枠が強く働いているのであまりいい結果にはならない。観察をやめるのには瞑想がいいらしい。そして音楽。音楽は理性を介さずに、ダイレクトに感情に届くからだそうだ。

さて、メインのテーマだった「地図」について。(ばう犬のブログをご参照ください)
私たちは成長する間に、3つの学習をする。学習1:自分の範囲を知る(身体感覚の部分)。学習2:必要に合わせた生き方を知る。これは学校教育の範囲で、たとえば数学の公式を覚えるというのがこれ。マニュアルに沿った生き方と言えるかもしれない。学習3:地図を場に合わせて考える。この(3)が重要であり、その時々に柔軟性を持った対処の仕方が必要であり、そのためには路線地図、住宅地図、水道が埋まっている場所の地図などなど、地図を使い分けることが必要なのだそうだ。この(3)こそが生きる知恵なのだろう。マニュアル世代の私たちには適応が難しいのだろうが・・・。

アドラーは、いい。昨日の私と今日の私が違っていたとしても、それを不都合なこととは考えない。他人に迷惑をかけない限り、私は私を表現することが許される。

東京アドラーのオフィスは窓の3方が大きく開け放たれていて、すっかり風邪っぽくなりつつばう犬とMSaitoは中野に向かった。






Last updated  2005.12.11 23:12:40
2005.11.30
今日はロジャースの来談者中心カウンセリング講座。講師の諸富先生がピエール滝に非常に似ているので驚き!講義は笑いに溢れてとても面白かった。埼玉カウンセリングセンターの講座は、技法について学ぶ趣旨なのに、受けていると自分に対する洞察が生まれ、癒された気分で帰路につくことが出来るので不思議だ。理解することが、癒されることの第一歩になるんだと確信できる。

ロジャースは、クライアントの話を傾聴することで、クライアントに気づきを起こさせる対人技法だ。よく、「クライアントの話を繰り返すだけ」と勘違いされるが決してそうではない。クライアントに沿って、クライアントの色に染まり、クライアントの世界に生き、その状況下でカウンセラーの中に生まれてくる言葉をクライアントに投げかける。丁度、心を許した者同士が並んで(横目に顔がかすかに見えるくらいの位置で)歩いていて、一方がぽつぽつと話し始め、もう一方は無言で聞いている、そんな関係だ。聞いている方が、話の合間にふと受け答えたその一言によって、話し手が「こいつはオレを知っていてくれる」と絶対的な信頼感が生まる。そして、そこに気づきの奇跡が起きる。そんな例えがロジャースのカウンセリングには合うだろう。

来談者中心療法のテクニックとして、自分の本心を確認するために、気持ちと身体感覚を結び付けるフォーカシングという方法がある。私たちは、このテクニックを無意識的に使っているが、カウンセリングという設定で行われると、また認識の仕方が違うのだろうと思う。からだに意識を向けるという観点からすると、フォーカシングはボディワークに応用できそうだと勘違いしがちだが、いわゆる身体派のSIには応用できないだろう。フォーカスが心理寄りになりすぎ、構造や動きに、SIには不要な意味づけを行ってしまうからだ。


1940年代から1970年代へと、ロジャースのカウンセリングは彼の生き方とともにそのスタイルを変えていくのだが、スタイルに関わり無くカウンセリングを受けるクライアントは高い確率で治っていく。普遍にカウンセリングの場に存在したものは、言葉と洞察(クライアントとカウンセラー双方の)、つまりは対話だったのだろう。理解に基づき、相手を尊重して生きる原点はこの2点だと思わざるを得ない。なぜなら、往年のロジャースは、対話によって世界平和を実現したからだ。対立する団体同士を対話で和解させるという偉業を成し遂げ、世界ノーベル平和賞にノミネートされていた。

私たちの日常に、この「言葉」と「洞察」を持ち込むのはどうだろうか。
加えて、相手に沿うこと。側に寄り添い、自らを幽かにしながら存在すること。相手の世界に自らを浸透させることで、理解を深めようとすること。
この心を持って、明日の私は変われるだろうか。
変わらなくてはいけないと思う。より良く生きるためには。より愛するためには。






Last updated  2005.12.01 01:01:10
2005.10.20
アドラー心理学の個人カウンセリングを続けているが、受けるたびに自分がいかに無意識に言葉を発しているか、無意識ながらも実は意識的にメッセージを発してしまっているかを痛感させられる。

アドラー心理学では、問題は対人関係の中で起こると考えるので、問題が起こったときの対話をとても大切に考える。言葉のやりとりの中に、自分が陥りやすい傾向を見つけ、また、本当に相手に伝えたかったのはどういうことだったのかを探っていく。そういった分析を行なうことにより、同じパターンを繰り返さずに、一瞬一瞬の「選択」で新しい道を選ぶことを可能にしていく。

カウンセリングにはロールプレイが使われることが多い。いざこざのときの会話をできる限り正確にホワイトボードに書き出し、カウンセラーと私、もしくは2名のカウンセラーが喧嘩となった場面を再現する。その時語られた言葉と、その時の状況を事実にかなり近い形で再演することによって、自分が見えてくるのだ。「疲れちゃった」という言葉は「励ましてくれる?」だったり「ごめんね」が実は「そっちが悪いんでしょう?」だったり、言葉の裏に隠された本意やメッセージが浮かび上がってくるのだ。言葉だけではなく、その時の私のボディーランゲージ(座っていた位置や視線、動作や態度など)も再現される。視線を合わせない会話はコミュニケーションではなく相手が入り込む余地の無い独白で、ドアを乱暴に閉める動作は哀しみの表現だ。

なんて、面倒な作業をしているんだろう。もっとシンプルに正直に気持ちを伝える術もあるだろうに。生きていく中で学んだ痛みや悲しみ、思い込みが、簡単であるはずのコミュニケーションを捻じ曲げ、難解なものに(それどころか伝わらないものに)してしまっているんだなあ。

役割を交代して、私が相手役を演じてみる場合もある。すると、自分の思い込みが見えてくる。相手の言葉を言いながら、自分がそれを聞いたときと、相手の立場で話しているときのそのギャップに驚くことがある。「ちょっと待って?今のセリフ、プレイバック」と言いたくなってしまう位に、全く違う意味を持つ言葉となって心に降りてくることがある。そんな時には、怒りをぶつけてしまった相手に対して申し訳なくなって、涙を抑えきれなくなってしまう。

そういった「道を逸らせる」「相手を変えようとする」言葉の変わりに「私はあなたを信頼します」「あなたは私の仲間です」という、相手を勇気付ける言葉を使って、新しい展開を作っていく。感情を利用して相手を操作するのではなく、相手を尊重しながら自分の意思を伝えていこうとする。

アドラー心理学では「目的」を明確にする。ただし、その目的を持つためには決心が必要だ。「どんな状況であれ、私はこれをしていきます」という意思があって初めて、行動が生まれる。「どんな飲んだくれの亭主でも、この人と一緒に居たい、と思ったら、あなたは自分の意思でその選択をやっていなかくちゃいけないのよ。それをするためには、しっかりと決心を持たなくてはいけないのよ。相手を変えようとせずに自分を変えていく努力は、決心なしにはできないんだから。」とアドバイスを受けたが、本当にそうだと思う(私には飲んだくれの亭主は居ないが)。自分の気持ちを左右するのは、相手でも、相手の状況でもなく自分自身だ。関わろうと決心したのであれば、真摯にそうしよう。ただし、決心の段階で腹をくくれるのであれば。
決めるのは「やるか、やらないか」。それだけだ。至ってシンプルだ。






Last updated  2005.10.21 00:49:14
2005.09.14
アドラー心理学の基本前提の続き。

4.認知論
・人はその人の意味づけの世界に生きている
状況判断をする、他者の判断をする場合に、自分の主観が入らないことはない。
(例)Aという状況にあって、ある人はそれを面白いと思い、また別の人はそれを不快だと思う。

5.個人の主体性
・結局は、生き方をその人が選び取っているのだ
・だから選びなおせるのだ
アドラー心理学では、「性格」と言わずに「ライフスタイル」と呼ぶ。性格と呼ぶと、それが固定されたものというイメージを作ってしまうので、代わりにライフスタイルと言う。スタイルなので、自分にあったものを選択していくことが出来る。人間は環境によって左右されるのではなく、その環境をいかに解釈するかによりライフスタイルを決めるときに大きな意味を持つ。そして、そのライフスタイルが自分にそぐわないと思うときには、いつでもそれを変えることが出来る。

以上、アドラー心理学講座からの覚書1から5のまとめ。

今日も、もう眠くなってしまったのでここまで。

仕事が終わってから、新しいプロジェクトの打ち合わせで渋谷へ。終電近くの電車で帰宅。新しいプロジェクトのためにお会いした方から、マーケティングやPR戦略、企画の立て方など、たくさんのお話を伺う。社員でもなければ聞けないような貴重な情報を惜しげもなく提供してくださった。実現すればいいな、プロジェクト。ダメでもともとだ、だって本当は一人でやっていこうと思ってたアイディアなんだから。

ボディワーク入門、アマゾンで第2位!すげー、やっぱり本が一人歩きしている。これからは高望みして生きていこうなんて、一瞬強気になる。これからますますがんばっていこう、出会っていく人に幸せになってもらえるように、貢献できる人間になろうなんて思った。ついでに、海辺で犬と猫が飼えるような生活が早く来ますようにと何の神様か分からないけど祈った。






Last updated  2005.09.15 02:32:16
2005.09.13
「ボディワーク入門」アマゾンの代替医療部門の売り上げ1117冊中3位に繰り上げ、こんなことは人生でたったの一度だろうから、嬉しくってばう犬と喜びあった。

さて、先週土曜日は、埼玉カウンセリングセンター主催の「カウンセリング講座」があり、今回のテーマは「アドラー心理学」だった。講座講師はアドラー心理学心理療法士の伊藤毅先生。東京生まれ、東京育ちだが関西弁で講義をする。師である日本アドラーギルドの野田代表が関西人で、彼に育てられたかららしい。私も日本生まれ日本育ちだが、英語で話すほうがぴったり来るときが時々だけれどあるので、そういう感覚が分からないでもない、なんて思いながら講義を聴く。

さて、アドラー心理学の基本前提。

1.目的論
・行動も
・感情も     → 目的がある。
・症状も

(例)あなたのためを思って、とか、心配をかけたくなくて、なんて相手を思う発言には、隠された「本音」が潜んでいて、実は「自分にとって便利」だからそうした、という場合がほとんどだ。
(例)出来事が人を怒らせるのではない。感情は、目的を達成させるために使われている。
(例)仕事が出来ない言い訳として体や心の不調を作り出すと考える(病気が、自分の評価が下がった言い訳になる)。

<行動>も<感情>も<症状>も、相手を動かす(状況をコントロールする)ために使う。

目的論をベースに考えると、M Saitoが飛行機を怖がる目的は、今に留まっていたい気持ちと関わっている。これまで知らなかった世界を知れば知るほど、今に留まっておけなくなるのではないかという不安があることに気づいた。慣れ親しんだという意味で居心地の良い「今」を手放すのは怖い。


2.全体論
・意識と無意識
・理性と感情     → 対立はない。
・葛藤している状態も

(例)本当はこうしたいんだけれど、理性がそれを阻むんだ、という場合は、理性によって制限されているのではなく、「それをしないことを選択している」だけである。
(例)頭では考えているけれど、行動できない。これも「行動しない」ことを選択している。
つまり、意識と無意識は矛盾しないし、対立はしない。選択があるだけ。

「思っていたんだけど出来なくて」じゃなくて「やらなかったんだ」とか「しなかったんだ」と言われたほうが、その人の本音として受け取り易いなあ。そこには自己責任があり、言う側にとっても謝罪の余地がある気がする。


3.対人関係論
・すべては、対人関係の中で起きている。

問題を、人と人とのかかわりの中で起こる出来事として捕える。ある人に起こっていることを理解するためにはその人の環境をも観察しなくてはいけない。なぜなら、私たちの言動は、言動が向けられる相手からの応答を<引き出そうと>しているから。

<続く>


アドラー心理学は、他の心理学とは大きく異なるアプローチをする。現在関わっているプロジェクトがいくつかあるのだが、発想の転換が必要な時期にアドラー心理学に出会えたのは、ラッキーだった。出来事の責任は自分にあると考えるこの心理学は、被害者意識から程遠く、選択する積極性と勇気が必要とされる。人と人とは平等だと考える(これは次回に説明)し、ひとつ考え方としては私好みだと思いつつ、今日はここまで。






Last updated  2005.09.14 02:27:02
2005.09.03
9月23日はワンデーセミナーがあるので、予定していた埼玉カウンセリングセンター主催の「ユング心理学」の講座に出席できない。ワンデーセミナーのスケジュールを立てる際、うっかりダブルブッキングをしてしまった。

ユング心理学講座の出席者は「14日間の夢をメモしてくること」という課題が与えられている。欠席は決定しているものの、課題はこなしたいと思う。覚書として、このブログを使うことにした。

9月1日の夢「呪われたトイレ」
劇場の地下にあるトイレは、3列に並んでいて、右から子供用、洋式、左端が和式だ。
トイレに入ると空気はひんやりとしていて重い。下から邪気がわきあがっているような気配がして「この建物は呪われた地に建てられている」と直感する。逃げようと思うが、身体が動かない。
・・・この夢を見ながら、実際にうなされていた。


9月2日の夢・・・どこかの商店街、アーケード、昔一緒に暮らしていた人が夢の中にいる。場所は変わってダンスホール、メンズノンノのモデルをしていたMが、似たような雰囲気を持った外国人の女性と楽しそうに踊っている。またしても画面が変わり、伯母宅で無くなった伯父と再会を果たす。
・・・すでに過去になってしまった人たちが、夢の中に大勢出てきた。


以前、夢日記のサイトを持っていて、毎日更新していた。夢と現実の関連を探ろうと始めたサイトだった。ロルフィングのホームページ内に、すぐには見つけることが出来ない入り口を作って、そこからサイトに飛べるようにしていた。結局、ロルフィングと夢の関連は無いということで、ホームページの更新と同時にクローズしてしまったのだが、なかなか評判は良かった。夢を記録しようと思い立ってから、眠りが深くなっているようだ。意思の力はすごい。






Last updated  2005.09.03 08:53:49
2005.08.26
来月は、3週連続で埼玉カウンセリングセンター主催のカウンセリング講座がある。この講座は埼玉、東京、神奈川、静岡から13名の出席者が集う。年齢も様々で、自分のために勉強がしたい方や仕事に役立てたい方、単位取得が目的の方と、モチベーションもいろいろだ。

この講座で得た単位は、日本カウンセリング学会認定カウンセラーの資格取得試験の対象単位となるため、毎月埼玉まで通っているのである。認定カウンセラーの道は2つ。第1方式は、すでにカウンセラーとして活躍している方が承認を受けて認定カウンセラーとなる方法。第2方式は、学会所属者が筆記による技能試験を受けて合格する方法で、私が目指しているのはこちらだ。第1方式は、学術論文やその口頭発表があるコースで、私はこの口頭発表に恐れをなして第2方式で行こうと決めたのである。現在論文は、ばう犬と共同で執筆中なのだが、一番大変な内容の記述はすっかりばう犬任せで、私はデータ係となってしまっている。ばう犬は慣れているから、という勝手な理由で面倒な部分を押し付けていると言えなくも無い。これでは、第1方式で認定を受けたとしても内容が伴わない認定カウンセラーになってしまう。

カウンセリングの勉強をする、というのは、自分の生き方を変えていく作業にもなり得る。真剣にカウンセリングを学ぼうと考えてからは、自分の反応を見逃さず、不適当な考えや信じ込みに気づき、それを改めていく行為を行おうという意思が生まれてきた。私はずっと、白黒つける生き方が潔くカッコいいと信じ込んで生きてきたのだが、曖昧にして生きる人が大半だろうという話を聞かされて、とても(本当にとても)驚いたのである。多数決で言えば、少数派の私の生き方では「生き難い」のであるが、生き易いか否かよりも、不便である。不便と言えば、人が何かを決めるときに多いのは「好悪」の感情に基づいて、だけれども、便利か不便かを基準にしたほうが、ずっと効率よくすっきりと生きられることに気がついたのも、カウンセリングの効力だといえるかもしれない。好悪に基づくと、自分の行動範囲を狭めてしまうからだ。

現在、私の拠り所となっているのが、論理療法である。アルバートエリスが提唱した楽に生きられるようになる方法なのであるが、ばう犬がこの方法を取り入れて以来、人が変わったように怒らなくなり、彼が敵対視していると思えた人物に対する評価が変わったからだ。その秘密は何であったのか、現在探求中である。

Walk on the wild side改め、中庸で行こう、がモットーの今日この頃。もっと生き易くなるだろうか。






Last updated  2005.08.26 22:52:29

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