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ロルファーサイトウのつれづれ日記

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思想

2007.10.08
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カテゴリ:思想

前回書いた『「うるさい日本」を哲学する』にコメントをいただいたので、気をよくして続きを書いてまいります。加賀野井秀一先生と、中島義道先生の往復書簡を読ませていただいていると、お二人の違い(気質やアプローチの仕方、好みや環境)がだんだんと明白になってきて、あたかもお二人のやりとりが目の前で成されているかのような錯覚を覚えてます。それほどリアルなやり取りであると言い換えることも出来るでしょう。

<第二信:言霊の国  加賀野井先生→中島先生>
加賀野井先生から中島先生に宛てて送られた第1信には、お二人の個性の違いと、共通点とが伺えます。ウィーンの中島先生宛てに、シチリア、パリと羽を伸ばして日本のご自宅に戻られた加賀野井先生から返信が送られます。

加賀野井先生と中島先生は、タイプとしてかなり違う。哲学へのアプローチの仕方も、加賀野井先生がフランス的とすると、中島先生はドイツ的。中島先生はいつかは死ぬ、とおっしゃる。加賀野井先生は「どうせ死んでしまうのなら今を楽しもう」と考える。食べ物の好みも全く違い、中島先生が食材の原型をとどめたものは受け付けないのに対して、加賀野井先生はナマコ、ホヤ、クサヤ、ウォッシュタイプのチーズ、カンガルー、ワニと何でも食べてみる。そして何と、加賀野井先生は中島先生の考える「嫌いな10人の人々」の半分以上の項目に相当するという。これで果たしてお二人の会話は成立するのかというほどの食い違い様で、読者の方が心配してしまいます。お二人が出会ったのは「拡声器騒音を考える会」でした。そのとき司会をしていらした加賀野井先生に、「こんなことをしてもあまり意味がない」と、会の士気を下げてしまうがごとき発言をしたのが中島先生だったと回想しています。

ただし、要の部分での共通点はあります。加賀野井先生ご自身も、劣悪な日本の音環境を憂い、それを嬉々として受け入れる人が居ることに驚くと中島先生に語っています。そして、30年以上にわたって、「音の発生源に向かって、怒鳴りつけたり、懇願したり、理路整然と反論してみたり、実力行使に訴えたり、はたまた、お役所への陳情や、マスコミまで巻き込んだ阻止運動を展開したり」したこれまでの憤りの敬意を述べていらっしゃいます。その結果、日本独自の文化や歴史の壁にぶつかってしまったと告白しています。

加賀野井先生は、騒音の問題は、大半の人が「たかが音くらいで」と考えることに問題があると、まず問題点をひとつ挙げています。加賀野井先生、中島先生が挙げている「騒音」とは、社会的に認知されておらず、騒音として問題化されずに隠蔽されているところに「まさしく日本文化に特有の問題点がひそんでいるように思われます」と指摘しています。日本人の「大多数が望んでいるのは、『理屈』や『実効性』ではなく、『善意』であり『情』であり『和』であることになるでしょう」と分析しています。私も、こうした日本人の(厳密に言えば、日本人が寄り集まったときの)精神構造に疑問を感じることが多々あります。例えば、倫理的に許されないことをしても、それを「おかしいのではないか」と正す人が居ない。それどころか「まあまあ、許しましょう。だって彼女は無償でがんばってきたんだから」と情を持って横槍を入れる人がいる。こういう輩は、自分が無償で働くことで周りから認められたい願望を持っているのでしょう。

話が少し反れてしまいましたが、文中には、「こうした日本人特有のおためごかしも同時に分析しつつ、書簡の往復を進めませんか」と加賀野井先生側からの提案があります。「同時に」というのは、加賀野井先生は、この回の書簡では、日本人は「言霊」信仰があり、それが問題の根本にあるのではないかと意見を述べていらっしゃるからです。言霊思想は、言葉の使い方一つにも意味を求め、お見舞いに「根付く」鉢植えを持たず、結婚式に「切れる」刃物を送らず、縁起を担いで「すり鉢」を「あたり鉢」、「するめ」を「あたりめ」という。こうした言霊思想は、現実のすり替えや隠蔽を容易にしてしまう。値上げは料金改定とされ、「海外派遣」を「人道援助」と呼びかえる。つまりは、少しでも不安や不信を煽るような言葉は「祝詞(のりと)」的な言葉に摩り替えられ、中身よりも耳心地のよさを求められる。心の伴わない、フォーマリティな言葉が車内で「○○線をご利用いただきありがとうございました。・・・・はおやめください」と祝詞の如く、繰りかえされる。それは、思いやりのある呼びかけとしてありがたく聞くべきであり、うるさいとか、余計なお世話だとか思ってはいけない言葉なのです。

言語論も専門分野である加賀野井先生は、さらに「言葉の記号化」にも着目しています。日本人は、現実をもっと記号的に捉えているのではないかと、掘り下げていきます。「日本人は、ものをじかに見るのではなく、むしろ、名称や、それについての言論、つまりは記号を解してものを見ているのではないか」と読み解いています商店街のセルロイドの桜を見て春を感じられるほどに、日本人は記号化されてしまっているのです。

まとめてみると、日本人は「言霊思想」に操られ、他者を思いやるような言葉や湾曲表現をも「祝詞」として受け止め、定型的な「記号」を生の体験と擦りかえることができる。「独自に言語化された騒音を騒音と感じさせないフィルターの役割」を私たちは感じ取ることができない。否、言い換えれば「選択的に敏感であることは、選択的に鈍感でもある。」だから騒音から身を守ることができる、と中島先生の問いに対応しています。

 

祝詞・・・「いつもお世話になっております」「ありがとうございます」「申し訳ございませんが」etc、いわゆる「相手を不快にさせないワンクッションの言葉」になだめられて生きている自分を再確認すると共に、こうした言葉が「サービスの一環」に成りえる国なんだと客観的に日本を観察しました。通りいっぺんではなく、私に向けて、相手から発せられた言葉は心に届きます。それに気づける感性を鈍らせないようにしたいものです。







Last updated  2007.10.09 23:47:57


2007.10.01
カテゴリ:思想

最近、ボディワークに関する内容のブログが少ないじゃないか、と思われそうなほどにボディワーク関連の事柄を書いていないのですが、ここには書いていないだけで別のところにまとめて書いてあります。毎日、セッションを終えて、夕飯をさっさと済ませてパソコンに向かっています。電車は、最近では仮眠のための場所となり、読書もなかなか進みません。

そんな毎日の中で、少しずつ読み進めているのが、先日のブログでも紹介させていただいた『「うるさい日本」を哲学する-偏食哲学者と美食哲学者の対話』 加賀野井秀一・中島義道著 講談社 です。
劣悪な日本の音環境に対し、二人の哲学者が互いの専門から「なぜ人はこうした音に鈍感でいられるのであろうか」という疑問を哲学的に解明すべく、往復書簡にて遺憾も遠慮もなくお互いの思うところを「言語化」しているのです。「言葉を(激しく信じている)二人だからこそ、言いたい放題に言い合いながらも」交流を深めていく様子が面白く、するすると読んでいるつもりが同じ文章を繰り返し読んでいたりします。

というのも、この貴重な往復書簡は、「騒音」について論じているようであり、実は私たち「日本人」の哀れむべき善人的態度と不和雷同な日和見主義を、見事に浮き彫りにしてしまっているからなのです。つまり、読んでいくうちに自分や周りの人間がダブってくる。私にとって、この本で語られているのは、出来れば直面したくない「物事にこだわりすぎる私自身」と「善意といいつつ悪意をオブラートに包んで平気で他者に嫌がらせを行なう身近な人物たち」です。

時間はかかりそうですが、すこしづつその内容を要約してみようと思います。

<第一信:音漬け社会  中島先生→加賀野井先生>
中島先生は、加賀野井先生に「私にとって耐え難い音とは、日本のどこでも垂れ流されている甲高い女声の機械音(テープ音)です」と、ご自分なりの騒音を定義しています。中島先生は、うるさい日本から騒音の無いヨーロッパに来るとほっとするとおっしゃる。決して欧米かぶれではないし、こうした静けさは全世界でも珍しいだろうと踏まえたうえで、日本の注意放送等になじめずにいるとご自分の心中を打ち明けています。そして、その騒音に対する周囲の無関心に驚き、腹立たしさと同時に無力感を覚えるのです。

この音と、その改善に対する行政や企業の無反応に業を煮やした中島先生は、「街を静かにする会」の名刺やゴム印まで作って戦うことを近い、実行に移すのですが、こうした行為はいつも日本人的「曖昧さ」「事なかれ主義」「情」によって玉砕されてしまう。

自然を愛でるべきお花見でも、日本人は大騒ぎをする。これは、日本人は「観念的に」季節感を含めた自然をとらえる能力を身に着けているから、と中島先生は推測します。つまりは「事実より、観念」が日本人の常としてあったと私は捉えています。「日本人の自然観とは、きわめて定型的な自然観であって、早春の訪れを喜び、桜の開花に胸をときめかし、秋風に心を躍らせる・・・つまり、感じるべきこと(だけ)を感じるという自然観なのです」という先生の文章を読み、季節を伴わない衣替えや、商品化された季節感を思い起こしました。

季節感から騒音に話は戻りますが、こうした音を垂れ流す人たちを「善意の人なのです!だから、こういう放送を流すことに何の罪の意識も持っていない。それどころか、胸を張って誇れる善行だと確信している。私は、いきなり胸元に短刀を突きつけられたような脅威を感じました」と文中でつづっていらっしゃいます。そしてご自分が戦っている相手は悪党ではなく、「正直で思いやりのある優しい人」であり、「よいことをしよう」といつも身構えている「善良な市民」であること、そういった方たちと戦うことの難しさに悩むのです。そんな中、「拡張期騒音を考える会」で司会をしていらした加賀野井秀一先生と出会うことになります。

そうした交流を元に、中島先生が発した「日本の街を変えられないのなら、せめてもっと学問的にここに潜む問題を探ってみよう」という疑問に答える形で、加賀野井秀一先生がご自分の見解を返信する。そして、その手紙が更なる展開を道づくって行く。それが『「うるさい日本」を哲学する-偏食哲学者と美食哲学者の対話』 加賀野井秀一・中島義道著 講談社 です。

「考える」ことに興味がある方、言語に興味がある方、日本人に、その歴史に興味がある方にはぜひ読んでいただきたい本です。ゆっくりになりますが、この後の加賀野井先生の返信の要約も、ブログにアップしていきたいと思います。







Last updated  2007.10.03 09:58:57
2007.08.25
カテゴリ:思想

待ちに待った、哲学者・加賀野井秀一先生と同じく哲学者・中島義道氏との往復書簡を本としてまとめた『「うるさい日本」を哲学する―偏食哲学者と美食哲学者の対話』講談社が発売されました。

加賀野井先生とお会いしたのは、新宿朝日カルチャーセンターで開講された「メルロポンティシリーズ」を受講したのがきっかけでした。私にとっては、加賀野井先生が、生まれて初めてお会いする「哲学者」でした。それまでは、「哲学という学問のジャンルのイメージが先行して「哲学者=硬い人たち、難しい話を沢山する人たち、論理と情をはっきり切り離す人たち」という偏見をもっていたのですが、加賀野井先生の講座を受け、更に講座後の「一杯」にご一緒させていただくうちに、自分の考えを改めざるを得ませんでした。そして、先生の独特の人生観にすっかり惹かれてしまいました。一言では言い表せませんが、ヨーロッパ的なウィットに富んだ方なのに、土佐の男の心粋を持つ、絶妙なバランスセンスを持った方で、それでもやっぱり哲学の先生ならではの近寄りがたい鋭い意見がぱっと出たりする。でも、お酒を飲むときは私たちに合わせて、日常の話や思い出話を沢山してくださいます。

で、話題がそれましたが加賀野井先生の『「うるさい日本」を哲学する―偏食哲学者と美食哲学者の対話』ですが、ようやく読み進めた段階です。中島先生の序文が、すでに静かな好戦的雰囲気に満ち溢れていて、今後の展開が楽しみです。

加賀野井先生は、中央大学で教鞭を取りながら、メルロ・ポンティを中心に、ソシュールの研究、言語論、日本語に関する書籍の出版、NHKへの出演など八面六臂の活躍をされている方です。「加賀野井秀一」で検索してみてください。特に、身体関係に興味がある方は、メルロ・ポンティを読み解くことをオススメします。セッションの(治療の)ヒントとなる思想があふれ出るような一冊です。ちなみに今回の「メルロ・ポンティの幼児の対人関係」のクラスには、親しくしていただいているOTの方を筆頭に何人ものOTの方・心理関係の方が参加していらっしゃいます。

講座はあと2回。2回目はお休みをいただかなくてはいけなのが本当に残念です。書籍の書評は読後にアップします。







Last updated  2007.08.26 20:00:20
2007.07.12
カテゴリ:思想
言語は無意識に扱われているあまり、その役割の広さに関して顧みられることは少ない。


例題:「象は鼻が長い」

「象は」で頭の中にはその人それぞれが思い描く象が現れる。それは、あなたにとってインド象かも知れないし、アフリカ象かも知れない。子象を思い浮かべる人もいるだろうし、絵本の象を想像するかも知れない。
―世界の切り取りにより、象と非象が現れる。―


「鼻は」で、まるでビデオのモニターがどんどん象に近づいていき、象の鼻が画面の中央に来る。
―鼻と非鼻が現れる。そもそも象同様に鼻という言葉が無ければ鼻は存在しない―

「長い」に於いて、あなたが思い描いた象の鼻が、大写しに脳裏を占める。もしくは象の鼻が何かを器用にくるむように掴んでいる様子が目に浮かぶかもしれない。
―言葉が先にあるのではなく、それは関係性に依って生まれる。他の動物との比較が無ければ象の鼻は長くは無かったかも知れない―

加賀野井先生が「言葉は身体である」と言うとき、言葉はあたかも身体の代わりのように相手を操作することを示す。私は例題の「象の鼻は長い」によって、映像を思い描く行為を行わせられた。また別の時には、実際に手を取る代わりに、言葉に導く役割を行わせることも出来る訳である。


芝居や舞踏といった身体表現が言葉の代わりをする、と誤解しがちなのだが、メルロ=ポンティの云わんとすることは、そこには無い(それも含まなくは無いがそれを意図としない)。新しい知識を学ぶ時の落とし穴は、新しい考え方をそのままに受け取れず、すでに知識があるものに置き換えて考えてしまう事だ。もしくは、既知の知識との比較をしてしまう事だ。


加賀野井秀一先生のメルロ=ポンティシリーズで一番難解だったのが、この言語論だ(しかも2回しか出ていないし、ソシュールも出てくるし)。シニフィアンなど、ラカンの精神分析に関わる考え方が出てくるという点でも、出席出来ていたら興味深い講座だったであろうに、全講座を受けられなかったのが残念だ。ボディサイコセラピスト(バイオエナジェティックスとかライヒアンセラピーとか)の方たちは精神分析的な言語の役割はしっかり勉強してるんだろうなあ。ブログに質問しに行ってみよう。


ちっとも進まない原稿なんかほったらかして読みたい本を真剣に、思い切り読んでみたいものだ。







Last updated  2007.07.13 01:38:41
2007.07.04
カテゴリ:思想
メルロポンティは、時間も愛も、言葉(観念)がなければ起こらないと表現したが、私たちの身体は時間によって確実に変化しています。つまり、その様相こそが時間なのではないでしょうか。時間の観念がない社会で生を営んでいたとしても、ヒトは直感的に今と昔を、からだの「差異」を通して捉えるのではないでしょうか?

昨日と今日の区別がつく、10時と11時の違いが分かるのは、社会通念という観念の賜物ですが、私たちはそれにずいぶんと縛られている気がします。特に女性に置いては、年齢が生(性)に直結することもあり、観点を変えると性=時間と考えることはできないでしょうか。産む性を持っていなければ、私たち女性はもっと自由な時間の捉え方ができただろうと考えるのです。つまりは、実態のない「時間」という一瞬一瞬の連続は、実は身体的変化として実感することができるのではないでしょうか。

愛については、いまだよく分かりません。が、これはやはり観念に左右されると思います。例えば男女間の恋愛。これも友情と愛の境界・情愛を表現する手段の固定観念(常識、良識、倫理と呼ばれているもの)がなければ悩まされなくて済む問題のような気がします。ただし、愛という言葉が存在しない動物間にあっても、一生涯を共にするつがいの話は少なくないし、その純粋さに心を打たれたりします。人間観であっても、こうした概念や理屈を超えたつながりがあるというのは神秘的であり、ある意味救いでもあります。相手を選ぶ基準が身体的な特徴に基づくという説がありましたが、それ以外にも五感や六感など、言葉にするのが困難な理由によってヒトとヒトはつながっていくのかも知れません。



この場を借りてMさん、異性であっても、友情であっても恋愛であっても楽しい時間を過ごすことはできると思うんだよねえ・・・リアルな時間の共有がなければ恋愛にも友情にも発展できないのではないでしょうか。Mさんと話してから頭の中で繰り返し流れているのはjanet jacksonの"Let's Wait Awhile"。今聴いているのはビセンテ・アミーゴの「魂の窓」。7月は最低でも2度はライブに行くつもり。

と、最後は私生活の報告にて締めくくり。






Last updated  2007.07.05 01:45:26
2007.06.28
カテゴリ:思想
以前から予定していたのに、仕事の都合でどうしても出席することができずにいた加賀野井秀一先生の講座「メルロ=ポンティの言語論」。第5回目にしてやっと初受講となりました。言語論は難しいだろうなあと心配していましたが(実際に、難しいですが)今期はこれまで以上に分かりやすい実例を挙げて説明をしてくださったので、なんとか着いていくことができました。

さて、今回のテーマは「言語が世界をどう切り取るか」について。ノートの大半は、ばう犬によって見事に要約されていて、自分の稚拙な感想をはさむ隙間がないくらいで悔しい~。

ばう犬のブログより
<言語を習得するというのは、言葉によって世界を切り取り、少しずつ切り分けていく過程であるということです。そのようにして、ボキャブラリーが増えることで、世界は区分され、細かく識別されていきます。言わば、言語習得は、認識獲得に等しいわけです>

私たちの多くは、言語とはコミュニケーションの手段であると考えていると思うのですが、メルロ・ポンティは世界を切り取り、さらに細かく分別し、認識していった結果に残る音だと考えます。


ばう犬のブログより
<乳幼児の頃の「生体験」では、「快/不快」などの単純な印象で世界を見分けています。それが、成長のある時点から、言葉なしで世界を見分けることが不可能になってきます。たとえば、「愛」などの抽象的な概念は、言葉なしには、明確に感得(体験)できません。
「生体験」は、しだいに自己組織化され、世界認識が形成されていきます。>

例えば私に気になる相手がいたとして、その人にまつわる事柄・・・例えば、触れ合いたいとか、欲を言えば肌同士をくっつけ合いたいとか・・・・そういう事柄を「愛」でくくれば愛になるし、「愛」という言葉を持たない言語圏の人々にとって、それは単なる性衝動である、ということです。ちなみに「愛」なんて言葉をひっつけずに男女の性差を利用して親密な関係をつくるというのも、ひとつ素敵な関係だとは思いますが(これじゃサルトル的か?)。

そして表現されることで思考は確認されるのであれば、表現せずに心のうちに隠しているうちは、もやもやとした感情のままで、自分にも相手にも曖昧なままでいることが出来ます。「好きです」といった途端にその感情が取り返しのつかない「好き」になってしまう経験はありませんか?曖昧なままで、淡いままで取っておきたいと思うのであれば、文字にしてしまったりしないように、小声でつぶやいたりしないように気をつけましょう。「好きです」と言った途端に「いや、この言葉はウソだ」と気付ける場合もありますので、表現は慎重に、もしくは大胆に行うのがよろしいかと思います。

なんか、今日は恋に悩む友人に向けて書いた内容になってしまったので、後日、講座になるべくに忠実に「言語論」を再び書いてみようと思います。






Last updated  2007.06.29 10:36:57
2007.05.14
カテゴリ:思想
構えてしまっているのだろうけれど、ここのところ、ずっとブログが書けなくなっている。
ばう犬がどんどんボディワークを思想として追求している傍らで、私は文献を繰って、あちらへ行き、こちらへ戻りしている。そんな中で、軽めの「今日の出来事」やヘヴィな「○○についての批判」なんて文章はかけない。日記的に時系列に「先週あったこと」「今週体験したこと」と書こうと思ったら、今日から過去へと日にちを遡らなくてはいけない。そうしている間にも、時間は刻々と過ぎていく。

先日、ばう犬と、現代思想について話し合う機会があった。話し合うといっても、私はもっぱら聞き役だけれど。ばう犬とは、仕事について、新しい考え方について、新しい取り組み方について、さまざまな可能性について、よく話をする。

現代は、再びファシズムの時代の臭いがする。「良い」「悪い」の二分化を極端に行い、皆が平等に幸せになるように規律をつくり、その中で「平和に」暮らしましょう、という没個性の理屈が受け入れられ始めている。二分化は個性も混沌も作らない。そして、本当に「考える」作業を私たちの生活から引き抜いてしまう。

「良い」「悪い」は、行動だけではなく生活様式にも安易に取り入れられている。「豊かな暮らし」が善で、それに到達できない種類の人間は、悪か哀れむべき対象である。もっと悪いことに、「豊かな生活」が金銭的に潤っていることを意味することが多々ある。「あなたの幸せのために」といいつつ自らのマテリアリスティックな欲望を満たそうとする誘惑の、なんと多いことか。

ばう犬は、「外的な大きな決まりは無い、大きな物語は死んだ。善悪の基準は本人の中に存在する。だからこそ、コミュニケーションが必須である」と言ったが、その点には大きく同意したいと思った。暗黙の了解で「~あるべき」があるとき、そこにコミニュケーションは不必要だ。

善悪の基準に戻るが、私たちの生活に直接に関わってくる人間関係もその罠に嵌っているようだ。その人が「悪人」なのではなく、ある人と自分との関係が「良くない」という、人格と関係を切り離した考えを持たない限り、私は善悪と快不快の区別がつかない生活を続けることになるだろう。

しばらく前には、「善悪」を問う内容のブログを書くこともあったが、善悪の基準について考えているうちに、主張的な文章を書くことに躊躇を覚えるようになってしまった。

ただし、思想は、問題を投げかけてくれるが、その答えを教えてはくれない。「あなたはこうなりたくはありませんか?それならばこうしなさい」などという、手軽なマニュアルは、誰にも当てはまらない。







Last updated  2007.05.15 00:59:39
2007.02.15
カテゴリ:思想
何が真実なのかも確かめることはできないし、具体的に、自分にどんな行動が求められているのかも分らない。

それは、隣国の傍若無人さには怒りが湧きます。

けれど、報道が白熱すればするほど、罪の無い人々が、暴行されたり差別されたりする事件が多くなります。

通学する電車の中で、女子学生のチマチョゴリが切り裂かれる、そんなニュースに心を痛める<一人称>の自分がいるのであれば、<三人称>で送り込まれてくるプロバガンダに、考え無しに同意の拳を突き上げることはするまい、と思います。









Last updated  2007.02.16 01:35:00
2007.01.25
カテゴリ:思想
昨日から、中央大教授の加賀野井秀一先生による「『身体論』の歴史を探る」がスタートした。1ヶ月に1回のペースで、3ヶ月に渡って講義を拝聴させていただく。今回は、ギリシャ哲学の時代の身体論。ギリシャ哲学は錬金術的に似た考えを持っていた。火、水、土、気、魂とは何かを探る過程で、身体とは何かという思想が出来上がってきた。

身体は、遡って現在との比較でしか語ることができない。そして、身体に対する考え方は日々新しくなっていく。身体に関する温故知新の考え方も、現在という基点が無ければ存在しない。

加賀野井先生の講義に関しては、余力のある日にまた改めて書こうと思う。

今、とても面白い本を読んでいる。ポール・ワツラウィックによる「よいは悪い」。パラダイムの変換によってイデオロギーが変わり、美徳とされていたものが人間を貶めるものに変わることがある。そのひとつとして、マニ教的な「両極」が例に挙げられている。「悪くないものは良い。良くないものは悪い」、白の反対は黒であるべきだという極端な考え方だ。
発想の転回や、回避法を見出すことの知恵。安全性や確実性を敢えて手放していくことによって手に入る安泰。パラドキシカルな内容、読みやすい文体ではあるけれど、治療哲学がそこここに隠されている素晴らしい本。

毎日眠いといい続けている毎日。  






Last updated  2007.01.26 00:43:45
2006.07.06
カテゴリ:思想
●「僕らは友達だよね」と言っていた友人が、あなたのお財布からお金を抜き取りました。

●「痩せたい」と言いつつ間食を止めない女性が居ます。

●「お父さんを大切にしなくちゃ」といいながら夕食を作らずパチンコに行くお母さん。

●「エンコーは良くないって知ってるんだけどーw」といいながら援助交際を続ける女子高生。

●「大切なことだと知っている」と言いつつも行動に移さない団体。

あなたは彼らの一人ひとりを良く知りません。例えば一緒の時間を過ごしたことがあるとか、同じ趣味を持っているとか、同じグループに属しているとしても、深く話し合った事はありません。こういう前提ならば、彼らの言葉と行動のどちらが信頼しやすいですか?

中毒だとか病理だとか、そういう理由で「出来ない」場合と違い、大抵は「しないこと」を選択しています。選択の先には目的があります。その目的が全ての人に利益をもたらすのであれば、それは隠し立てすることではなく、むしろ胸を張って目的に向かっていくことができるのではないでしょうか。






Last updated  2006.07.07 02:17:13

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