触れ合ってなくちゃわかりあえないの?
日記を書いていて登録ボタンを押したら、メンテ時間に突入していたらしく書いた文章が全て抹消されてしまいました。まぁ日頃ここに来てないから定期メンテの時間を把握してなかった僕にも非があるんですが、久々に会心の出来だった文章を呑まれて以来ちょっとしたスランプ状態に陥っているので、今現在楽天Dに対する心象がすこぶる悪いです。そのとき書いた日記は、人同士の不和性についてのもの。以下、覚えてるところを概要のみ記述。親兄弟、ふたご同士でも完璧にわかり合えないものをどうして人は完全にわかり合おうとするのだろう?そして、どうして「わかり合ってる状態」が「仲がいい」で、「わかり合えない状態」は「仲がよくない」「わるい」だと思うのだろう?人同士「わかり合うことは素晴らしいことです」って、道徳の教科書やいろんな人達が言葉では言ってるけど、その言葉を傘に着て「だから、わかり合おうとすることはいいことなんだ!」なんて概念を、自分で思い込むだけならまだしも、人に押し付けるのは何か間違っている。わかり合ってる状態はあなたにとっては心地いいかも知れないけれど、彼や彼女はあなたがわかり合うために彼らの領域に踏み込んで来ることを、嫌っているかもしれない。わかり合おうとするために傷付け合ったり苦しめ合ったりして、得られた答えが「彼や彼女とは決定的に歩めない」なんてものだとしたら、それは「わかり合えない」という事実をしっかり認識した上で、互いに近づけるギリギリの距離に立とうとするよりも不毛で残酷な結果にしかならないんじゃないのか。わかり合えることやそのために努力することはとても美しいことだけど、「そうあるべきだ」を押し通そうとするのは何か間違っている。「わかり合える」という言葉一つを持って人と向き合うのは、結局それは、相手を見ていないことと同じこと。見ているようで見ていない。そのくせ、半端な思い込みが邪魔してその事実にも気付けない。「わかり合えない」という事実や「これ以上踏み込めない」という現実を正しく認識することで、より理想的な関係を築ける、ということもあるんじゃないだろうか。協調や対話は融和とは違うものだけど、多くの場合における協調とか対話とか言う言葉は、ある一方の人間の「最善」をもう片方に押し付けるためにしか機能していない。その果てに待っているものは、お互いを恨んだり憎んだりする感情によって互いを攻撃し、どちらかがどちらかに屈服するまで続く争いの世界でしかない。そして、そんなものを「わかり合う」と言うなら、やっぱりこの世界に本当の意味での「わかり合う」なんて状態は存在しないのだ、ということを、僕達は覚えておかなくてはならないのだ。これがもっとキレ良く、しかも少ない文章量で書かれていました。とりあえず何ともガックリ。