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なにげに連休なので、東京の実家に帰っています。 「節電モード」の街に驚きつつ、旧友との再会なんか果たしちゃったり、 実家のおいしいご飯をたらふく食べたり食べたり。 「東京に来ること」はいま大阪に住んでいる僕にとって、 他のどの場所に行くこととも違う意味合いを持って存在しています。 それは「ああ、実家だなあ」ということだけではなくて、 「人間のモード」が変わる、そんな体感がある。 就職してすぐに大阪に移った僕にとって、大阪は「働く場所であり暮らす場所」です。 大阪での僕は、基本的に「働いている」か「生活している」のどちらかなんですね。 その状態は、基本的な構えとして、「なにかを背負ってる」状態です。 仕事は言うに及ばずですが、 生活だって、「洗濯物を外に干すべきか」とか、「大根をどのスーパーで買うべきか」とか、 いろいろ決断して、リスクを受け入れるって構造は一緒ですからね。 「労働者モード」や「生活者モード」であるとき、人はとても具体的になるんじゃないかと思います。 僕はその「具体的であること」が、割と好きです。 でも、思いもよらぬ気づきとして、「具体的じゃ考えられないこともあるなあ」とふと思うのです。 実家にある東京にいると、僕は働いても生活してもいない、「ただの人」になります。 あえて表現するならば、「あそんでる」状態になります。 「あそんでる」状態というのは、働いてたり暮らしてたりする状態とだいぶ違うなあ。 それは、「具体と抽象」、「理屈と感覚」、「正しさと楽しさ」のような、 わかりやすい二項対立のテーゼが当てはまりそうなくらいです。 この、「ただの人」として人に会って、おしゃべりする。 すると、普段の「具体的な僕」が思いもつかないようなことを、「あそんでる僕」がしゃべり出すんです。 それで、「オレ、こんなこと考えてたんだ…」ってなります。 それはきっと、「具体的な僕」が考えてはいたけれど、 「具体的な僕」のままでは語る言葉を持てなかった、そういう考えなのでしょう。 嬉しくて、たくさんおしゃべりしてしまいましたとさ。 暮らしてたり働いてたりする場所から離れて、あそぶ。 そのことの豊かさがなんとなくわかった気がします。 哲学とか思想がヨーロッパで深まったのは、バケーションの文化があるからじゃないかなあ。 人間のモードが変わることがもたらす恵みに、やられてしまいました。 「会ってくれた人たち」の素晴らしさについても、また語らせてくださいねー。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年05月03日 06時57分54秒
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