オーバーアチーブ
僕の苗字は「比良(ひら)」というので、塾の先生をしていた大学生の頃は生徒から「ひま先生」と呼ばれていました。(語りたくない論理を飛ばしてます)今も同じような職業をしてますが、さすがに「ひま先生」とは呼ばれてません。(これを見た同僚が明日から呼んだりしてね)これを「貫禄がついたから」と読み取ってくれる人、僕以外にいませんか。そんな「ひまそうに見える」僕も(あ、言っちゃった)最近は地味に忙しくしてました。仕事って、「人手が足りない」が常態なんだなと、つくず(づ?)く思います。まあでも、やるべき仕事があるってのはいいもんだと思います。定年退職なんかしたら、今のままだったらきっとウツになるな。そう思い、早めに手を打とうということで、吉本隆明の「老いの幸福論」を読んでいます。まあ、ビジネスタームで言うところの、先行管理ってやつです。一緒に仕事をしていて楽しい人っていますよね。もちろん、気が合う、趣味が合う、そういう相性の要素もありますが、そういう「友達的」な部分だけじゃなく、信頼がおけたり、つい手伝いたくなったりする、いわば「仲間的」(言葉は何でもいいんですが)な結びつき。そういうのを一緒に働いている人に感じられる職場は、ハッピーな職場だと思います。(今の僕は、そうです)この結びつきはどうやって生まれるのかが、最近の考えるテーマです。今のところの僕の考えは、「オーバーアチーブ」という言葉を軸にしてます。「一人ひとりがオーバーアチーブしてる職場」こそ、居心地のいい職場である。「オーバーアチーブ」とは、わざわざ説明しなくてもいいかもしれないですが、「期待を超えた仕事をすること」と訳すことができます。こういうと難しいことに思えますが、具体的に考えるとそうでもありません。。。。と言いつつ、具体的な例を挙げづらいことに気づきました。それは例えば「これ、Aくんに渡せるようにして」と頼んだ資料に「あ、Aくんの忘れ物が届いてるから一緒に渡そう」と気付いてそれをそっと添えるような、そんなようなことなんですが、多分これ、例えば同じ職場内でしかなかなか共有できない、一般化が馴染まない性質のものなんでしょうね。(なんとなく、わかるよね?)それでも無理矢理一般化を試みるならば、ありふれた言葉ですが「気遣い」とか「気を利かせる」っていうのが分かりやすい表現なんだと思います。「期待を超える」っていうとやれ「月間売上額」だの「新規獲得顧客数」だの無粋なことを言い始める人がいますが、僕が好きなのはそういうのじゃなくて、思わず「おお、ありがとう」と言ってしまうような、そんな仕事をする人なのです。なぜ「オーバーアチーブ」が大事かというと、「『オーバーアチーブ』は『オーバーアチーブ』を呼ぶ」と思うからです。「オーバーアチーブ」をされて「おお、ありがとう」と思った人はほぼ必ず、「オレもなんかしなくちゃな」って思います。「贈り物」を贈られたら、自分も贈りかえさなきゃって思う。人間、そういう風にできてると思うんです。なので、一度「オーバーアチーブ」が習慣になると、かなり無敵な気がします。循環さえできてしまえばね。では、循環はどうすればできるか。それは、「最初のひとり」が、絶対にいるんです。「オーバーアチーブ」って、言葉にするとカッコいいけど、それをする人ってのは、最初は必ず「損をする」仕組みになってるんです。「期待を超える」わけだから、言ってみると「給料より多く働く」みたいなことになるわけです。これは、やれ「生涯賃金」とか「キャリアパス」だとか言って「いかに自分がいい待遇を得るか」を最優先課題にする最近流行の労働観ではきっと受け入れられないでしょう。そういった労働観がいちばん嫌うのが、いわゆる「割に合わない」仕事ですからね。でも、「働くこと」の面白さは、そういう労働観を超えたところにある気がします。「自分の仕事」と「誰かの仕事」を区別して考えないで、「みんなの仕事」の一部を自分が担っているような感覚というか、まだうまく言えないけれど、そんなような感じで、「自分が関与することで『みんなの仕事』のクオリティーを上げること」を「みんなと喜べる」そんな発想の下に、素敵な職場と呼ばれる場所はできているような気がします。というわけで、この「最初のひとり」にどんどんなっちゃおう、というのが僕が思うことです。「オーバーアチーブを始める人」に、どんどんなっちゃおう。損をするのは最初だけだし、そもそもそれを損だなんて思わなくなるさ。そんな風に僕は思うので、そんな風にやってみようっと。