|
カテゴリ:とりとめのないお話
『恋愛論』のつぎは、少し『生と死』に関するおはなしを。
『願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃』 西行法師のこの歌は、私にとっての理想の死、そのものですね。 私には不思議と『死』に対する怖れよりも、憧れの方が常に強いんです。 怖れるとすれば、それは断末の苦しみに対してですね。 『生きる』ということに不器用だから、と言うのがその大きな要因なんですが 宗教的な後押しも大きいです。 釈尊が出家を決意された時、詳細は忘れましたけど、病気に苦しむ人や、愛する者との 別れに泣く人やらの姿を見て、『生きる』=『苦しみ』であると悟られたんだそうです。 この考えはわたしの思いとも重なります。 『肉体を持つ』、と言うことは、人間にとって大きなハンディを持つことなんですね。 肉体があるために、飢え、痛み、病、煩悩、所持欲、そんなものが生まれるわけです。 実際、仏教の教えでは、人間の生きている現世というものは、地獄などよりは上でも 神界や霊界の下に位置する低い地位なんですね。 現世に生きることはすなわち、『ハンディを背負って精神を鍛える』という修業のため、 というのが私の考えです。 だから、いくら生きることがつらくても、自ら死を選ぶことは修業の放棄ですから 決して、してはいけない選択なんです。 断末の苦しみとは、簡単に修業放棄させない為の防止策なんですよ、きっと。 霊魂(精神的存在)を否定される方には無意味な論理でしょうが、この考えこそ 今、私の生きる力そのものなんですよね。いくらつらく悲しいことがあっても やがてそこから開放されて、神様の庭に辿り着ける。 そう思うと理不尽な現世も、乗り切っていける気がしませんか? よしんば霊魂がなくても、永遠の静かな眠り、それだけでも十分魅惑的ですが。 死がつらく悲しいのは、残された者にとって、ということが多いですよね。 ただ、誤解がないように申し上げますが、現世に生きることを楽しんでいないというわけでは 決してありませんので、悪しからず・・・・^^ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[とりとめのないお話] カテゴリの最新記事
|