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今日はどこのTVも震災一色のように報道している。そして、災害に対する避難所などの状況は今もほとんど変わっていないことも。
あの日はまだ地元の食品工場に勤務していたが、とにかく長い地震だった。木造のわが家ではぐらぐらと揺れたのが1分も続いたように感じた。2階のベッドで目を覚まし、聞きなれないゴーッと言うような音がして、立ち上がった途端に揺れたのを記憶している。下のキッチンでは先におきた女房が朝食を作っていたが、突然の揺れでストーブを消そうと思ったが足が動かなかったという。TVをつけると大阪や姫路の震度は報道されているのに、神戸の数字がなかった。「神戸がやられたな」と、直感した。 はじめは「兵庫県南部地震」と言われていたように記憶するが、やがて「阪神・淡路」に変わった。確かに山陽本線で大阪の方に向かうと明石市を境にしてブルーシートがかかった屋根が急増していたものである。当時私は設備管理の仕事をしていたが、飲料水を積んだローリー車を見送った。神戸までは普段なら2時間ばかりで行けるのだが、8時間かけて運転手から「まだ着かない」と公衆電話から連絡があったのを覚えている。口上の被害はガラス瓶を積んだパレットが倒れ、瓶が割れた程度だった。 つけっぱなしのTVからは生々しい火災現場が報道される。「消火の水がない」と言う悲痛なものだったが、実際に消防士たちは為す術が無かった。道路がふさがれ、車が通れない。まだカーナビも普及する前だったと思う。西宮に妹夫婦が住んでいたが、幸い無事だったけれども、食器棚から全部が飛び出して壊れたという。 地元のスーパーから、インスタントラーメン、乾電池、水が消えた。兵庫県でも西部はたいした被害はなかったので、縁者に送られたか、出荷先の調整が行なわれたのだろう。 当時の生々しい記録を見ると、身内に犠牲者のいない私でも涙が出てくる。印象的な画面は、被害を淡々と語る頭に包帯をした老女に話しかけたアナウンサーが泣き出してしまい、報道番組にならなかったこと、当時NHKにいた有働由美子さんががれきの中からレポートしていたことを覚えている。神戸女学院出身の彼女が東京から飛ばされたのだろう。 3ヶ月ほどあとに、神戸出張があったが、訪問先の六甲アイランドにある会社に着くまで、延々うずたかいゴミの山だった。道路も陥没があったり、特に歩道は長く修繕に時間がかかったと記憶している。都市直下の地震はたくさんの人に犠牲を強いる。 自分の身に災害が降りかかるなんて、ほとんどの人は「ない」と考えている。そのための準備は無駄なように思ってしまう。また、無駄に終わるに越したことはないのだが、目の前の需要に対応してしまう。 ある小学校の校長は、学校が避難所になることを聞いて、まず運動場にトイレを作ったという。昔ながらの穴だけのものだが、水の出ない水洗トイレは役に立たない。どのくらい持ちこたえられたかは知らないが、英断だったはず。学校でもどこでも、定員をオーバーする状況では、自分の普段の生活は出来ない。食べること、排泄することは生きて行く基本だ。災害の度にそれを軽んじていることを思わせられる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2025年01月17日 21時36分37秒
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