あの日から
もう今日は3月13日。3月11日は日記を書こうと思っても言葉がみつかりませんでした。だってまだ終わってないから・・・避難所で暮らす人たちは、明日の事すら全く見えない。家に帰れるのか、いつまで避難生活が続くのか。仮設住宅はこの福島で生活するには過酷すぎます。マイナス10度になるかと思えば、夏は35度を超える。そして未だに行方不明の人たちがたくさんいる。海側はほぼ、あの日のまま。道路も壊れたまま、瓦礫の処理も一向に進まない。壊れたままの建物。私の住む内陸はずいぶん良いけれど、ひびの入った建物に住む不安は拭い去れない。10日の朝方も茨城沖で震度5の揺れがあった。びっくりしたよ。怖かった。余震は一向におさまらない。それでもあの日がとても遠く感じる時もある。多分自己防衛なのかな・・・忘れたいのかも知れない。ちょうどあの日は東京にいたんだ。物凄い揺れで思わずしゃがみこんだ。大きな揺れは二回だった気がする。お店の人がすぐにパソコンで調べてくれた。どうも宮城の方らしいと。そしてすぐに福島もかなり被害があるらしいとわかった。少し落ち着くまで建物の中にいたけど、電車が止まってるんじゃ?と外へ出た。もう駅前は人の波だった。電車が止まって道路には車があふれていた。家路を急ぐ人の行列。歩いていくとビルのガラスが割れ、道路にたくさん落ちていた。でもまだ被害のことは良くわからなかった。宿泊先に着きテレビをつけると、どうも大変なことが起こったらしいって。携帯はなかなか通じないし気が気じゃなかった。当日の日記は色々あって消してるから今では振り返ることもできない。ただ、その日にはわからなかったんだよね。未曾有の災害なんてことは。一番の仲良しが福島の南相馬に住んでて連絡が取れたときは本当に安堵した。旦那さんが、逃げる時に戦争中なのか?って光景をたくさん見たって。その義理のお父さんたちが住む家は車もすべて流され、影も形もなくなってしまった。友人家族は数日たってから、郡山に逃げてきたんだよね。ガソリンをかき集めてやっと。私も飛行機で家に戻って、お店が閉まってるし、開いてる店の棚には調味料しかなくて驚いたんだ。食べ物がないって。もちろんガソリンもね。もうどうかあんなことが起きませんように。何かあると弱者が犠牲になります。病人、子ども、お年寄り、動物・・・生きられた私はまだいい。今も苦しい思いをしている人や動物がいる。犠牲になった多くの命がある。もう二度とこんなひどい人災が起きませんように。どうか。どうか。亡くなられたすべての魂が安らかであるよう祈ります。そして、あたたかく励ましてくださったすべての方に、ありがとう!