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青い島のひだまりで

ゆびきりげんまん 1



 
 この作品は、1998年~1999年ころに、「十四歳の休暇」の続編として書きました。十四歳の休暇 を書いている時は、その続編なんて書こうなどとは夢 にも思っていませんでした。ただ、自分の作品ながら、その後二人はどうなったのだろうと気になりました。
 これを書いた当時、学校ではナイフで友達や先生を刺すなどという痛ましい事件が多く発生していました。今とまた微妙に社会背景が違いますが、そのまま変 更せず掲載しました。さらに、今の中学生なら、Eメールやケータイメールで連絡とるだろうなと思いましたが、直樹とさやかが、手紙を出したり、家の電話を 話をするシーンもそのままにしてあります。
 単独で読んでいただいても、話は完結しています。

 不登校から立ち直った直樹が、白血病と闘うさやかと向かいあいます。学校では、またあらたな事件が起き、直樹をとりまく世界もまた微妙に変わってきま す。一歩、一歩、大人への階段を上る直樹。直樹とさやかの、微妙な恋心。「十四歳の休暇」で直樹の不登校の原因を作った浩一も、さらにひとまわり大きく なって登場します。
 十五歳の直樹は、生きること、命の重みをさらに強く受け止めることになります。

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ゆびきりげんまん  1
  
           第一章 再会

   
 中学二年の春休み。
 ぼくは、東京にいるさやかに会いに行った。半年ぶりの再会ということになる。
 名古屋駅を七時七分の『ひかり二○○号』で発つ。平日だけど、春休み中のせいか、車内は思ったより混んでいた。自由席車両の一番前のすみの席に、ぼくは 腰をおろした。
 窓ガラスを通して、暖かい光が差し込んでくる。窓ガラスのむこうには、まぶしいくらいの青い空が広がっていた。再会の記念の朝は、そんな水色の朝だっ た。
 さやかのことを少し話そう。
 さやかとは、中学二年の夏に、軽井沢で会った。
 ぼくは、夏休みに入る少し前から不登校だった。その不登校の原因は、よくあるいじめだ。三学期がはじまるまで、半年くらい学校に行ってなかった。そして 再び学校に通いはじめている今、ぼくにとってあの半年間は、『休暇』だったと思えるようになった。  その休暇の間、夏の暑い盛りに、母の実家がある軽井沢に行っていた。そこで出会ったのが、ぼくと同じ中学二年の辻井さやかだった。
 さやかは、白血病という病気で、夏の短い間、別荘のある軽井沢に来ていた。ぼくが、からまつ林を散策していたときに、ある別荘の庭から顔を出したのが、 さやかだったのだ。
 さやかから、病気のことは聞いていた。でも、そのときのぼくは、白血病の本当のおそろしさをまだ知らなかったのだ。
 おそろしい病気。そんな程度に、漠然としか知らなかった。それに、白血病であることを告知されていながらも、さやかは、前向きで明るくそして元気だっ た。そんな様子を見ていると、白血病がおそろしい病気とはとても思えなかったのだ。
 慢性骨髄性白血病。
   それがさやかの、正式な病名だった。骨髄幹細胞がなんらかの原因で、ガン化してしまい、白血病細胞におかされた白血球が異常に繁殖する。
 一時的に、薬で進行をおさえることができる。いずれ薬がきかなくなり、最終的には、骨髄移植でしか助からない。
 個人差があるが、慢性期といわれる時期は、三年くらい。その慢性期を経過すると、『急性転化』がやってくる。急性転化をおこすと、残された命は半年とな る。
  この半年、図書館に通い、白血病に関する本を、ぼくは何冊か読んだ。ぼくが思っていた以上に、おそろしい病気だと漠然と認識した。
 ただ、当の本人のさやかが、あまりに元気だったから。そのころのぼくは、さやかとの関係がずっと続くものと信じていたのだった。
 二時間あまりの旅。
 新幹線は、ゆるやかにスピードをおとし、東京駅のホームにすべりこんだ。網棚のボストンバッグをおろし、ぼくは降りる準備をした。
 ドッキン、ドッキン。
 どうしてこんなに、ドキドキするのだろう。手紙のやりとりもしていたし、電話でだって、たまに話していた。
 新幹線ホーム八号車のあたり。
 それが、待ち合わせ場所だ。新幹線の到着時間は、教えてあった。指定席をとってなかったから、どこにすわれるかわからなかった。だから待ち合わせは、ま んなかの八号車のあたりと決めたのだった。
 ぼくが、ボストンバッグを肩にかけ、ゆっくり歩いていくと、
「直樹く~ん!」
 まだ六号車付近にいたぼくをを呼ぶ、声がした。ぴょんぴょんはねるようにして、大きく手をふっているさやかの姿が見えた。
 まわりの人が、ぼくを見る。ぼくは、ちょっとはずかしくて赤くなって、さやかに見えるように小さく手をふった。
「もう! 待ちくたびれちゃったぁ」
 屈託のない笑顔を、ぼくにむけた。
 そこには、さやかのママと妹らしき女の子が一緒に来ていた。
「おはようございます」
 ぼくが、てれながら頭をさげると、
「おはよう。よく来てくれたわね」
 と、さやかのママも頭をさげた。
「あ、妹の綾香よ。小学校六年」
 さやかが妹を紹介する。夏の軽井沢には、来ていなかった。
「もう卒業したもんね」
 ふくれたように綾香がいい、
「わたしとママは、じゃまにならないうちに帰るけれど、お姉ちゃんをよろしくお願いします」 と、ちょっときどった感じに続けた。
 ぼくの荷物は、さやかのママが、ひと足先に家まで運んでくれる。
 身軽になったぼくは、さやかと並んで歩き出した。 「髪、短くしちゃったんだね」
 夏に軽井沢で会ったときは、長かった。今は肩のへんで、切りそろえられている。
「あ、髪?」
 さやかは、そういうと帽子をとった。
「へん?」
 ぼくは、あわてて首を横にふった。
「ほんとうは、長い方が好きなんだけど……。最近、薬の副作用でぬけてきたのよ。長い髪がぬけるのって、ごっそりって感じでしょ?だから、切っちゃったの よ」
 薬の副作用……。
「ごめん」
 ぼくは、さやかのことを傷つけた気がしてあわてた。さやかは、そんなぼくを見ると、クスッと笑った。
「直樹くん、あいかわらずね」
「なにがだよ」
 あやまったぼくの気持ちも知らないで……。ちょっとむっとした感じにいった。
「そうやって。すぐに気をつかうところ。そこがいいところよね、直樹くんの」
 すぐ気をつかう……。
 ぼくは、学校でいじめられた経験から、やっぱりすぐに人の顔色をうかがってしまうらしい。
 人ごみにもまれるようにして、ぼくたちは歩いていた。
「直樹くん、こっち」
 さやかは、半歩うしろを歩いていたぼくの手をとった。
「迷子にならないでね」
 夏の軽井沢に続いて、二度目のデートだった。
 ドッキン、ドッキン。
 あの夏の日は、こんなにドキドキしただろうか。
 ぼくの左手と、さやかの右手。
 このドキドキの感触が、手を通してさやかに気づかれるのではと、ぼくはさらにドキドキした。ぼくたちの二度目のデート場所は、東京ディズニーランドだ。  電車に乗り込む。あいている席を見つけ、さやかをすわらせた。ぼくは、さやかの前に立った。
「さっき新幹線から降りてきたとき、すぐにいおうと思ったんだけど……。直樹くん、背が伸びたね」
 そうだった。夏には、さやかと同じかぼくの方が少し低いくらいだった。
「今は、このくらい大きい」
 さやかは、右手の親指とひとさし指で、六センチくらいの幅をつくった。
 そういったとき、車内アナウンスが入り、まもなく列車は舞浜の駅に着いた。
 ディズニーランドも、平日にもかかわらず春休みのせいか、混んでいた。
パスポートを買って入る。ちょっと高いけれど、どのアトラクションも入れるというものだ。
ぼくたちは、とりあえず入口でもらったパンフレットを手に、ベンチにこしかけた。
「どこから見る?」 さやかが、ぼくの顔をのぞきこむようにしていう。 ドキン。 またぼくの心臓が、速くなった。
「ど、どこでもいいよ。さやかの行きたいところで」 ぼくは、ちょっと緊張していた。久しぶりに会うさやかに、どうしてこんなにドキドキするんだろう。 「そう?」 さやかは、パンフレットに目をうつす。
「あ、あのさ、ぼく、ああいうの苦手なんだ」 ぼくは、うしろを指さしていった。
「ああ、あれ? ビッグサンダーマウンテン?」
鉱山から列車が、暴走するかんじ。ものすごいスピードでぐるりとまわるように下りてくる。ちょっと間違えれば、そのまま曲がりきれずに、空中に飛び出しそ うなスピードである。 さやかは、ふふっと笑ってぼくの背中をぽんとたたいた。
「男の子のくせにぃ。……でも、安心して、わたしも苦手だから」
「なんだ」 ぼくは、さやかの言葉でほっとした。実は、ディズニーランドに行こうといわれたときから、ずっと気にかけていたのだ。
ぼくたちは、『ピーターパン空の旅』だとか『しらゆき姫』だとか『シンデレラ城』など、おだやかなアトラクションを選んで見ていた。それでも待ち時間が、 三十分だとか一時間というのがあって、気がつくとお昼をとっくに過ぎていた。
「直樹くん、お昼は、『カリブの海賊』の中にあるレストランって決めてきたのよ」
さやかは、今まで何度か来たことがあるが、混んでいて一度も入ったことがないというのだ。
 もう二時近かった。
「こんばんは、いらっしゃいませ」
夜という設定らしく、中は薄暗くというより、かなり暗いといった方がいいくらい。ぼくたちは、案内された席についた。
「ぼくがごちそうするよ」
朝、父から一万円余分におこづかいをもらってきたのだ。『デートするには、資本がなくっちゃな』と。続けてこうもいった。『男はたいへんなんだぜ』と。
「いいのよ、本当はね、ここの入場料代もパパにもらったのよ。せっかく名古屋から来てもらったんだからって」 ぎりぎりの時間でランチメニューを頼めた。暗さに目が慣れてきた。まわりのテーブルは、大学生くらいの年齢の若いカップルばかりだった。
「ここ、女の子どうしで来たり、家族で入るって感じじゃないでしょ? 直樹くんと来ようって決めてたの」 ドキン。 またぼくの心臓が息づいた。
そのとき、ちょうど料理が運ばれてきた。
 ぼくは、あわててそのひとくちステーキをほおばり、ポテトも口につめこんだ。デザートのアイスクリームまで、おなかのどこに入ったのかわからないくらい だった。
食事のあとも、ぼくたちは少しアトラクションをまわった。『カリブの海賊』では、いきなり舟がすべって落ちる瞬間にひやっとしたし、迫力ある銃撃戦もおも しろかった。九九九人の霊が住み着いているという『ホーンテッドマンション』。突然現れる幽霊に、さやかが悲鳴をあげて、となりにすわっているぼくの腕に しがみつくようにとびついた。 そのたびに、ぼくの心臓は、『ドキン』と収縮をくりかえした。
「疲れた?」 ぼくたちが、またベンチに腰をおろしたのは、もう五時近かった。
「ちょっとね。はしゃぎすぎちゃったかな」 さやかはそういいながら、時計を見た。
「あ、そろそろ帰らないと。ママがね、直樹くんのために、腕をふるって夕食をつくるっていってたから」
そういったものの、さやかは少しつらそうだった。
「大丈夫?」
「少し休めば……。最初のころはね、五メートル走っただけで息切れがしたのよ」
最初のころ?
病気になったばかりころという意味か、とぼくは気づいた。
「綾香が笑ったわ。お姉ちゃん、なにペンギンみたいに歩いているのって」
自分では、一生懸命走っているつもりでいたらしい。だがまわりからは、ペッタンペッタン、左右に身体をふりながら歩く、ペンギンのように見えたようだ。
「直樹くん、大丈夫。行こっ」 さやかは、しばらくして立ち上がった。そして、今度は、ぼくからさやかの手をとった。 さやかを守ってあげなくっちゃ。
そんな思いがぼくの中にあった。ぼくの心臓は、やっぱり小刻みにふるえるように、トックン、トックン息づいていた。


   
さやかの家は、下北沢の駅からほど近いところにある。都心に近くて便利な反面、少し騒々しい感じがした。
中でも、さやかの家は立派だった。家を囲むように塀がめぐらせてあって、ほどよい広さの庭もある。
「お姉ちゃん、デート、楽しかった?」
帰りを待っていたかのように、玄関まで出てきたのが綾香だった。
「いいなぁ、ディズニーランド!」
「だから一緒に行くって、聞いてあげたでしょ?」
靴をぬぎながら、さやかはいう。
「だって、気をつかったんだもん」
綾香の言葉に答えず、さやかはぼくをかえりみた。
「さあ、あがって」 ぼくが、靴をぬごうとしたとき、さやかのママも出て来た。
「直樹くん、今日は、さやかのわがままにつきあわせちゃって、ごめんなさいね」 部屋に入ると、さやかのパパが待っていた。
「おお、この子がさやかのボーイフレンドか?」
「やだぁ、パパったら!」
さやかが笑っていう。
ドキン。 また顔が赤くなった気がする。
ぼくは、うながされるままにすわり、夕食がはじまった。
ちらしずし、茶碗蒸、いく種類もの揚げ物。おさしみ、サラダ、フルーツ……。
「盆と正月がきた感じだ」 さやかのパパの言葉に、
「まあ、いやですわ。普段、何もないみたいで……」 と、さやかのママが続けた。
「いい友達ができてよかったな、さやか」
「病気のおかげよね」 パパの言葉に、綾香はそういう。
ドキン。
今度は、違う感じのドキンだ。
ぼくのそんな様子を察してか、パパがいった。
「直樹くん、さやかを白血病だという目で見ないでやってほしいんだ。うちでは、病気だからといって特別扱いはしていないから」
「もう、パパったら。わたしが、白血病とわかって一番驚いたのは、パパでしょ?
あのね、直樹くん。パパは、わたしが救急車で運ばれてから検査結果がでるまで、すべてのオペをキャンセルしたの」
さやかのパパは、大学病院の外科医なのだ。
 疲労や耳鳴り、息切れがひどくなって、倒れて救急車で運ばれたとき。その大学病院に勤務する父親にも連絡が入り、結果がでるまではメスは持てないといっ たそうだ。
「誰にきいたんだ」
「看護婦さんたち」
「まったく、おしゃべりなやつらが……」
 軽井沢の夏。
白血病であるということを、臆することなく受け止めていたさやか。さやかには、こんな家族がいたからだ。ぼくは、さやかの強さの秘密がここにあるのかと気 づいた。 夕食後、入浴をすませると、さやかの部屋に通された。
「直樹くん、わたしの部屋はあっち。お姉ちゃんはここ。直樹くんの部屋は、あそこだから……。夜にしのびこむつもりなら、部屋をまちがえないでね」
「こら、綾香!」 綾香は、ペロッと舌を出して、自分の部屋にもどった。
「あれ? まだ飾ってあるの?」 さやかの部屋には、まだお雛さまが飾られていた。
「あ、お雛さま?」 さやかがそういった時、ママが、冷たいオレンジジュースをもって来た。
「ほら、いわれちゃうじゃない。お雛さまをしまうのがおくれると、お嫁に行くのもおくれますよっていってるのに……」
「もう、いいのよ。直樹くん、わたしお風呂に入ってくるから、雑誌やアルバムを見たり……。好きなことしてて」
母親の言葉を打ち消すようにいって、部屋から出て行ってしまった。
「ごめんなさいね、おちつかない子で。あの子、不安なのよ。来年は、お雛さま、飾れないんじゃないかって」
「えっ?」 ぼくは、意味がよくわからず、かすれた声を出した。
「元気にしていても、いつまでこうしていられるか不安なの。来年の今ごろは……。ごめんなさい。だから、いいお友達でいてあげてね。あの子、直樹くんのこ とが励みになっているの」 さやかのママは、涙ぐむと部屋を立ち去った。 ぼくは、ひとり部屋に残された。 来年の今ごろ……。
ぼくは、中学を卒業する。そして、高校生になるだろう。ぼく自身に、大きななにかがおこらない限り。さやかにとって来年は、その前の段階で、命があるかど うかということ?
慢性骨髄白血病。慢性期間は、三年くらい。場合によっては、もっと早くに急性転化がおこるかもしれない。一年、二年なんていわれても、ずっと先のような気 がしていた。
コチッ、コチッ、コチッ。
さやかの部屋にある丸い壁にかけた時計が、時を刻んでいた。 翌日、ぼくは夕方の新幹線に乗った。
さやかは、東京駅の新幹線ホームまで、ぼくを送っていってくれた。
「直樹くん、約束のゆびきり」
「ゆびきり?」 ぼくは、ふと思い出した。
 軽井沢の夏が終わったとき。ひと足先に東京にもどるさやかを、軽井沢駅に見送りに行った。来年の夏も軽井沢で会おう。そうぼくたちは、約束したのだっ た。約束のゆびきりを。
「夏は、軽井沢で会おうね。ゆびきりげんまん」
ぼくは、半年前の夏と同じに、だまって右手を差し出した。
新幹線が出るまで、さやかは窓のそばにいて手をふっていた。ゆっくりと走り出したとき、ぼくは身を乗りだすように手をふった。
さやかの顔は、走り出したとたん見えなくなった。でも、さやかがいつまでもあのホームに立ち尽くしている気がしてならなかった。
ドキンと何度も収縮した心臓と、右手の小指の感触を、新幹線のゆれの中で思い出していた。



     第二章  若葉まぶしきころ


   
   新学期がはじまった。 ぼくは、中学三年になった。一年、二年までは、南校舎だった。でも教室は、今日からは北校舎の二階だ。
クラス替えもなく、担任も、引き続き女の山岸先生。変わったことは、校舎と教室だけだった。
「直樹、帰るぜ」 浩一が、自分のかばんをぼくの机に、たたきつけるように置いた。
浩一は、小学校からの友達だ。でも、ぼくが不登校になった原因でもある。中学二年の春ころ、当時いじめをしていた浩一に、もういいかげんにしろといったの がきっかけだった。いじめられていたのは、和広という、ぼくたちが小学校から一緒の男子だった。当時、浩一は両親が離婚して、かなり荒れていた。和広が学 校に出てこなくなると、その対象はぼくにとかわった。
あのころのぼくは、友達だと思っていた浩一に、うらぎられた気分でいっぱいだった。どうしていじめをするのかと、浩一の気持ちなど考えてやるゆとりもな かったのだ。
「あ、今日さ、ぼくの家に寄っていかない? おみやげがあるんだ」
「お、行く行く。それにさ、おれ、数学でわからねーとこあるんだ。直樹に教えてもらおうと思ってさ」
「数学?」
ぼくは、驚いて声をあげた。
「ばーか、声がでけーんだよ」
ぼくは、ぽかんと頭を軽くたたかれた。
「少しくらい勉強しとかねーとさ、おれ、いく高校なくなっちゃうだろ?」
浩一も、最近は、自分の将来について少し考えるようになったらしい。
ぼくは、最初に浩一に数学を教えてやった。せっかく浩一がやる気になっているから、気が変わらないうちにと思ったのだ。
「まったく……。こんなの勉強して、何になるんだよ。こんな計算できなくても、生きていけるよな」
「うん、それはぼくも思う」 さやかは、こんな計算問題が解けたって、生きていけないのだ。
「お、直樹、どうなってんだ」
「なにが?」 気がつくと、浩一は、写真たてを手にしている。
「あっ! かえせよ」
いつもは、ひきだしの奥にしまってあるはずの写真たて。きのう、さやかに手紙を書いたときに取り出して、そのままになっていたのだ。
「かわいい子じゃないか」
 軽井沢のさやかの別荘でとった写真だ。このときのさやかは、まだ髪が長い。 浩一は、ぼくの首に腕をまわしてきた。
「苦しいよ、やめろよ」 ぼくは、この半年で背もかなり伸びたけれど、まだ浩一の力にはかなわない。 そのとき、ドアがノックされ母が入ってきた。
「まあまあ、騒々しいこと」 ジュースとスナック菓子と、母の手作りケーキを運んできた。
「浩一くん、うちで夕食、食べていったら? 味付けご飯なのよ。少し多めに炊いたから」
「あっ、でもいいっす。おれ、今日、食事当番だから」
浩一は、今は父親とふたりで住んでいる。
「そう、じゃあ、包んでおくからお家に持っていって」
「今日は手抜きができるぞ」 浩一の言葉に、母は笑いながら部屋から出ていった。それを待っていたかのように、
「で、どうなんだ」
と、浩一は話の続きをはじめた。
「あ、これおみやげ」
ぼくは、棚に置いてあったクッキーの箱を浩一に渡した。そして、ディズニーランドに行ったこと。さやかの病気のことなどをおおまかに話した。
「骨髄移植? なにそれ?」 ぼくは、東京から帰ってきて、また少し調べてみた。
骨髄移植とは、ガン化された骨髄液を放射線や抗ガン剤により死滅させ、
そこへ健康な人の骨髄液を点滴と同じ方法で入れる。この骨髄移植ができないばかりに、亡くなっている患者が多いのだ。
ただ、骨髄移植には、HLAといわれる白血球の血液型のようなものが一致していないとだめなのだ。HLAとは、両親からの遺伝によるもので、兄弟姉妹間で の一致率は、四分の一。それが血縁者以外から探すとなると、確率は、五百人から一万人にひとりの割合というものになってしまう。
HLA検査には、二万から八万かかる。その検査を個人でやれば、数億円の費用を出して、それでも見つかるか見つからないか程度の確率でしかない。
「さやかのお母さんから聞いたんだけど、妹の綾香ちゃんのHLAとは一致しなかったらしいんだ。万が一と思って、両親の検査もしたけれど、だめだったらし い」 親戚筋にも当たったが、それもだめだったようだ。
「だけどさ、まだ死ぬって決まったわけじゃないだろ?」
「骨髄液を提供するドナーが現れない限り、だめなんだ」
ぼくは、はじめてこのことを口にした。
そう、あの軽井沢の夏のころは、白血病のおそろしさを具体的に知らなかったのだ。血縁者以外の骨髄移植のむずかしさとか。血縁者以外の移植は、年に全国で も一ケタ程度らしいことも。
「でも、可能性はゼロじゃないんだぜ」 浩一の言葉に、ぼくはうなずいた。
「で、どうなんだよ」
「なにが?」
先ほどから、同じような会話がくりかえされている。
「だからさ、さやかちゃんとだよ」
「えっ?」
「ばーか、にぶいヤツだな」
そういうと、浩一はぼくの額をクイッと指で押した。
「キスくらいしたのか?」
「キ、キス?」 ぼくは、どもりながら聞き返した。
ドキン。ドックン、ドックン。
また、ぼくの心臓が息づいた。
「真っ赤になって……。ったく、ガキだな、おまえは」
そういうと、のどを鳴らしながら、浩一はオレンジジュースを飲み干した。


   
「ちゃんと掃除してってよね」
ぼくと浩一が、教室に入った瞬間、そんな声が耳に飛び込んできた。
「うるせーな。塾の時間があるんだ」
「塾行ってるの、彰だけじゃないんだから」
彰は、そんな言葉を無視し、掃除のため移動させた机の合間を縫うようにして教室から出ていこうとした。
彰は、二年生の二月に転校してきたのだ。いまだに転校生の領域を脱していない。
「おい、待てよ」 浩一がそういい、彰の腕をつかんだ。
「はなせよ」
「掃除していけよ、当番だろ?」
「ふん、キミみたいに、ぼくはひまじゃないんだ」
彰は、転校してきて常に成績はトップクラス。ほとんど一日中、だれとも口をきかずに、教科書や参考書を広げている。
「なんだと……」
 浩一が、彰の襟元をつかんだ。
 その瞬間ぼくは、慌ててとめにはいった。そのすきに、さっと彰は身をひるがえすようにして、教室を出て行った。
「むかつくよな、アイツ」
「だからってさ、浩一がアイツを殴ってみろよ。浩一が悪いことになっちゃうぜ」
 ぼくたちをとりまく世界は、やっぱりいろいろなことが起こっている。
ぼくへのいじめはなくなった。でも、とぐろを巻くヘビのように、次のターゲットにねらいをさだめている。
 ぼくたちのクラスの雰囲気が。
 ぼくたちの学校の雰囲気が。
 もっというと、
 ぼくたちの世代。
 そんなぼくたちをとりまく、世の中が。
 クラスでのいじめは、なくなったわけではなかった。ぼく自身は、いじめられなくなった。やはり半年の不登校というのは、いじめをするやつらにも精神的に 影響を与えたのだと思う。
 そもそも、男子の中でも、浩一の存在は大きい。最も、学級委員のような存在とは意味が違うが……。いじめる、陰の独裁者みたいなのがいる。だから、その 浩一がそこから手をひけば、芋づる式にみんなやめる。
 浩一は勉強こそできなかったが、人を従わせてしまうものをもっていた。それが、クラスメートにしては恐れかもしれない。そんな恐れからいじめをし、恐れ からいじめから手をひく。
 少なくとも浩一は、ぼくの不登校から、いいように変わった気がする。
 クラスの雰囲気でわかる、いじめ。
 今度のターゲットは、真希だった。女の子が中心になってのいじめだった。絵里香の機嫌をうかがうように、真希をいじめる女子。真希のなかよしだった、由 美まで絵里香についている。
 ちょっとまちがえば、彰がその対象になってもおかしくなかった。
 ただ、いじめというのは、ひとりの男子を数人の男子が、あるいはひとりの女子を数人の女子がいじめる。とかく、同性間でおこりやすいものだ。あとは、そ のグループに男女がまざって、荷担する感じだ。
「ほら、しょうがねーからさ、掃除やっちまおうぜ」
 浩一の言葉で、みんな動き出した。
「直樹、手伝えよ」
 ぼくは、あわてて浩一の言葉に従った。
 机を運んでいるときだった。ガタンという音とともに、ぼくは彰の机を倒してしまった。
「何やってんだよ、直樹」
 そういいつつ、浩一がぼくのところに寄ってきて、手伝おうとした。
 浩一が、机にもどそうと拾ったものを見てさけんだ。
「ナイフだ!」
   ぼくたちは顔を見合わせた。浩一の声で、ぼくと浩一を囲むように、掃除当番が集まった。
「おまえら、だまってろよ」  浩一はそういうと、そのナイフを自分のポケットに忍ばせた。
 翌朝。
 ぼくが教室に入ると、真希のまわりには、人だかりができていた。いつも人から避けられている真希のところだっただけに、ぼくは思わずのぞきこんだ。
「かわいい!」
「どうしたの?」
 子犬らしき頭が見え隠れした。真希は、捨て犬を拾ってきたらしかった。
 一方、彰は、そんなどよめきには無関心に、机の中をのぞきこみ、がさがさしていた。
「おい、これだろ」
 浩一がさしだしたナイフを見て、
「おまえが盗んだのか」
と、彰はあざけるようにいった。
「おれが、職員室にこれを持っていったら、どうなってたと思うんだ」
「ぼくと、キミのいうことと、どっちを信じると思う? 先生は……」
 にやりと笑うと、ナイフをひったくるようにして浩一の手からうばった。
 ホームルームの時間。
 ガラッと戸をあけて入ってきた山岸先生は、やはり真希の机に目がいったらしい。
「どうしたの、その犬」
「あの、捨てられていたんです。家につれて帰りますから、帰るまで教室においてください」
 柴犬の子犬らしかった。ダンボール箱からくりくりっとした目で、背伸びをするように様子をうかがっている。
「もうすぐ一時間目だから……。体育が終わったところで、職員室に連れてきなさい。放課後まで預かります」
 山岸先生は、時計を見ながらそういい、ホームルームをはじめた。
 事件は、体育のあとにおきた。
 着がえを終え、教室にもどったぼくの耳に、女の子の悲鳴や泣き声がとびこんできた。
 一時間前まで、くりくりした目でまわりを見ていた子犬が、血まみれになって死んでいたのだ。
 ぼくは、その様子を見て、すぐに顔をそむけた。身体を切り裂かれたように、内臓がでていた。
 二時間目の英語の時間で、担任の山岸先生が教室に来た。と同時に、この光景に驚き、教壇にすわりこんでしまった。
「誰だよ、こんなことしたのは!」
 浩一の声に、あたりはシーンとなった。そして、いつも絵里香の様子をうかがいながらも、金魚のフンのように絵里香につきまとっている数人が、おそるおそ る絵里香を見た。
「し、知らないわよ。あたしじゃない」
 絵里香も、少し青い顔をしながら、否定した。
「だって、みんな、体育の授業に出てたでしょ?」
 絵里香の言葉に続いて、だれかがいった。
「彰は、休んでいたよな」
「あいつ、ナイフ持ってたぜ。きのう、掃除の時にさ、机たおれちゃって」
「これは、ナイフで引き裂いたかんじだぜ!」
「体育の時間しかないもんな、やるとしたら」
 口々にみんながさわぎだした次の瞬間、いっせいに視線が彰に集まった。
「ぼくは、図書館で自習してたよ。ただ、証明してくれる人はいないけどさ」
 彰は、みんなの視線に臆することなく、おちついた口調でいった。
「見学もしないで、なんだよ」
 浩一のこのひとことで、またざわめく。
「雨が降り出したからだよ。ぼくは、ちゃんと先生の許可はとったからね」
「おれたちは、その雨の中、サッカーしてたんだぜ」
「そうだよな」
「やめて! こんなことしていても、この子犬は生き返らないから」
 泣きながらそう叫んだのは、真希だった。
 いつもは、仲間はずれにされても、靴や運動着を隠されても、なにもいわず、歯をくいしばっているような真希だった。
「お墓つくってやろうよ」
 ぼくは、思わずそういって、真希に歩み寄った。
お墓なんて、子供じみたことかもしれない。でも、犬だろうが人だろうが、ひとつの命であることに変わりない。そして、子犬が無惨な殺され方をした以上、そ のくらいのことしか、ぼくたちにはできない。
 人や動物の命を、命とも思わない。そんな人が、増えているのだと思う。
 ぼくは、さやかに会ってからそんなことも考えるようになっていた。
「バッカみてー。先生、はやく英語の授業はじめてくれませんか」
 彰は、教科書を開きながらいった。
 山岸先生は、やっと落ち着いたらしく、立ち上がった。
「ちょうどわたしの英語の時間だから、自習にします。子犬のお墓をつくりたい人は、先生と一緒に外に出て。このままにはしておけないでしょう」
 ぼくは、ダンボール箱をかかえた真希とともに教室から出た。女の子数人がぞろぞろとついて来て、それから浩一を含む男の子が幾人かと残りの女の子が続い た。
 校門の奥にある植え込みの片隅。そこに、その子犬のお墓は作られた。すすり泣く女の子たちの声とともに、子犬は白いタオルに包まれて葬られた。白いタオ ルが、血で真っ赤に染まっていた。
 ダンボール箱に入れられていた子犬。捨てられたけれど、真希に拾われた。せっかく拾われたのに、命の芽をむしりとられたのだ。
 ぼくたちは、教室に戻った。
 そこにポツンと教科書をひろげていたのは、彰だけだった。


   
 六月に入り、梅雨となった。ぼくの家の庭先のあじさいは、毎年のことながら、淡いブルーの花を咲かせていた。雨上がりには、葉に大粒の水滴が残される。 水滴は、左右にゆっくりゆれながら、ぽろりと落ち、ぱっとはじける。降ったりやんだりの中で、そんな戯れをくりかえしていた。
 ぼくは、塾の帰り浩一の家に寄った。浩一の家は、ぼくの家からも近いアパートだった。スーパーの倉庫の隣にあるので、少し日当たりが悪く、またトラック が行き交うので騒々しいところだ。
 浩一から借りたままになっていたマンガと、ゲームのソフトを返そうと思い寄ったのだ。
 学校では、たまに持ち物検査もあるが、最近はあらかじめ連絡がある。生徒の人権とかいって、地元の教育委員会がうるさくなってきたらしい。だから、学校 で渡してもよかったのだ。それでも、面倒なことになるのがいやだったから、ぼくは塾帰りに寄ることにした。
 ピーンポーン。
 しばらく待ってから、ドアに手をかける。
 開いている。ぼくは、そっとひいてみた。
「浩一、いるんだろ?」
 子供のころから遊びにきているから、勝手は知っている。
「……浩一?」
 キッチンをぬけ居間に入る。
 入った途端。
「あっ! ごめん」
 突然のことで、慌てて身をひるがえし、キッチンにもどろうとした。
「……直樹、入れよ」
 浩一に、呼び止められた。
 ドッキン、ドッキン。
 ぼくの心臓は、まだ驚いている。ぼくが見たものは、浩一がセーラー服の女の子とキスして抱きあっている姿だった。
「直樹くん、入れば」
 今度は女の子の声が、ぼくを呼ぶ。
 直樹くん? ぼくのことを知っている人?
 ぼくが振り返ると、そこにいた女の子は、絵里香だった。
「なに突っ立ってんだよ、すわれよ」
 ぼくは、浩一にいわれるまますわった。
 絵里香がなんでここにいるんだ?
 浩一は、高校生とつきあっているって、二年の三学期に聞いた気がする。
「つきあってるんだ。おれと絵里香」
 そういうと、浩一は絵里香の肩に腕をまわした。
「ちょっと、浩一くんってばぁ」
 絵里香は、乱れたセーラー服のリボンを結びなおしていた。
「だって、浩一は……」
「あ、高校生の彼女のこと? 別れたんだ、春休みに」
 別れた?
 ぼくは、浩一の行動のテンポの早さに驚いた。そして、別れるだとかつきあうだとか、彼氏、彼女なんて言葉は、少なくとも高校生以上のためにあるような気 がしていた自分に気がついた。
「直樹くん、あたしたちのことは、秘密よ。クラスのみんなにはね、いい?」
 ドッキン、ドッキン。
 まだぼくの心臓は、息づいている。絵里香が、年上のお姉さんのようにも見え、ぼくは、彼女の言葉にこくりと素直にうなずいた。
「あ、これ」
 ぼくは、かばんからマンガとゲームのソフトを取り出した。そして、そそくさと帰ろうとした。
「いいじゃないか、ゆっくりしていけば」
「そうよ、お菓子もあるわよ」
「……でも、ぼく、邪魔みたいだし」
 ぼくが、もぞもぞ答えると浩一は笑った。
 男どうしの中に加わるのと、わけが違う。
「いいじゃないか。直樹だって、デートしたりしてるんだから」
「えー、直樹くんに彼女いるの?」
「まあ、そうだよな、直樹?」
「だれよ、クラスの子?」
「なんたって、中学生にして遠距離恋愛だもんな」
 ぼくは、浩一と絵里香の会話に、真っ赤になってうつむいていた。
 彼女? さやかが?
「ぼ、ぼく、帰るよ」
「そっか、じゃあ、また学校でな」
 浩一の言葉で、ぼくはやっとアパートから出られた。
 ふう。大きく息をついた。
 ぼくは、カーテンがされた浩一のアパートをふりかえったが、そのまま駆け出した。
 どんよりしていた空から、ぽつり、ぽつり、大粒の雨が落ちてきたのだ。
 英語の教科書を開いていたはずだった。
 机の前には、さやかととった写真。
 今日届いていた、さやかの手紙。
気がつくと、ぼくは、さっき浩一のところで見た光景に、ぼくとさやかの姿をかさねていた。
「直樹、電話よ。さやかちゃんから」
 突然の母の声で、ぼくは現実にひきもどされた。
 ドッキン、ドッキン。
 ぼくは、階段をかけ下り、コードレスホンを取るとまた部屋にかけもどった。
「もしもし」
「あ、直樹くん? わたし、さやか。手紙ついた?」
さやかの声をきくと、さらに息苦しくなる思いだった。
「あ、うん。さっき読んだ」
「何してたの?」
「えっ?」
 またドキリとした。さやかとキスする瞬間を考えていた、なんていえない。
「勉強?」
 だまったままでいるぼくに、さやかはまた問いかけた。
「あ、うん。英語の……」
 そうだ、教科書は開いていた。
「えー、本当? わたしも今まで、英語やってたのよ。同じ時間に同じことしていると、一緒にいる感じよね」
「うん……」
 ぼくは、そんなさやかの発想に、笑う。
「ねぇ、いつにする? 軽井沢行くの……」
 あと一ヶ月で夏休みだ。
「塾だってあるでしょ?」
 ぼくがだまったままでいると、さやかが続けた。
「あ、うん」
「ああ、はやく直樹くんに会いたいなぁ。……でも、今の方がいいのかな」
「どうして?」 一日だって早く、さやかに会いたいとぼくは思っていた。
「だって、会っちゃったら、次に会えるのずっと先になっちゃうもん。それに……ううん、なんでもない」
 それに……もう会えないかもしれない。次はないのかもしれない。さやかは、そう思ったのかもしれない。そんなことがふと脳裏をよぎると、ぼくの胸がキュ ンと痛んだ。
「塾の予定、調べておくよ。また手紙書く」
「うん、わかった。おやすみ、直樹くん」
「おやすみ」
  ぼくは、いつまでも電話の切れたプーップーップーッという音を聞いていた。
 さやかが発病したのは、一年前の六月だ。ちょうど一年。さやかに残された時間は、長くてあと二年くらい?
ぼくもさやかと同じで、会いたいという気持ちと、会ってしまったら次がないのではという恐れのようなものを感じはじめていた。
 ぼくは、塾のかばんをとりだし、スケジュール表を見た。夏期講習の日程……。
 彼女、いるの?
 突然また、昼間の絵里香の言葉がよぎった。
 彼女? さやかが? つきあっている?
 ぼくは、まださやかに、好きだともいってない。それに、さやかの気持ちだって、わからない。
 英語の教科書を開いたまま、そんなことを考えているうちに、時計は十二時をまわっていた。


   
 子犬の事件は、誰のしわざかもわからないまま、ぼくたちの記憶にうずもれていった。犬とはいえ、ひとつの命が無惨にも断たれたというのに、ぼくたちの日 常とはそんなものだ。
 数学の時間。
「この前、出しておいた課題、やってきたかな。うしろから前の席の人にまわして集めます」
 先生の言葉で、がやがやと教室が騒がしくなった。ふと、真希の様子を見ると、かばんをひっくり返し、机の中をのぞきこみ、あたふたしている。
「忘れたのかね」
 先生は、教壇から靴音をたてながら、真希のもとに歩み寄った。
「……いえ、さっきまであったんです」
 真希は、青ざめた顔でうつむいた。
 隠されたのかな、また。
 ぼくは、かつての自分を思いだし、胸がしめつけられた。ぼく自身が、またいじめられるのなら、今のぼくなら耐える自信がある。でも、真希をかばった ら……。真希は、女の子だから、気があるからだとかいわれるに決まっている。
 耐える。……そう、いじめられる側は、人の何倍も忍耐力がなくては乗り切れない。
 ぼくは、きゅっと下唇をかみしめて、うつむいていた。 「絵里香、おまえ、さっき真希からわからないところ、教えてもらってたんじゃなかったのか」
 浩一の声だ。
「ごめん、真希、忘れてた」
 ほんの少し間をおいて、絵里香が立ち上がった。緊迫していた教室の空気がゆるんだ。
いつもの数人の女の子たちが、いぶかしげにそんな絵里香を見ていた。 帰り道。 ぼくと浩一に、絵里香が一緒になった。最近は、そんな日が多い。
「絵里香、おまえいい加減にしろよ、真希のこと」
突然、浩一がこんなことをいいだしたので、ぼくは、はっと顔をあげた。数学の宿題をかくされた真希のことを、ふとに思い出した。
「だってぇ」
 絵里香は、ふてくされた顔をした。
「だって、じゃねえよ。おれは、そんな根性曲がった女とはつきあわねーからな」
「わかったってば、浩ちゃん」
 浩ちゃん?
 ぼくは、絵里香を見た。
「おれさ、後悔してるんだ。和広は転校しちまったし、こいつのことだってさ。いじめたのは、自分自身が満たされてなかったんだよな」
 浩一は、乱暴にぼくの頭をぐいっと押した。
「そんなおれがいうのって、説得力ないけどさ。今だったら真希のこと、とりかえしがつく。いいか、わかったな」
 一方的な浩一の言葉に、絵里香はこくんとうなずいた。
 絵里香は、気が強くてプライドが高い。勉強だってそこそこにできる。だから、ちょっと近づきがたい感じで、先生だって少し遠慮しているところがある。絵 里香をとりまいている女の子たちだって、本当はいつも絵里香の機嫌をうかがっている。
 そんな絵里香が、浩一の言葉に素直に従う。
 好きな人の言葉だから?
 人を好きになるということは、不思議なエネルギーがはたらく。
「なにニヤニヤしてんだよ」
 浩一に、突然、肩をつかれた。
「いや、お似合いだと思ってね。浩一と絵里香って」
 続いて絵里香に、背中をたたかれた。
「もう、やだぁ。直樹くんったら。まだ内緒よ、クラスの子には」
 絵里香の頬が、うっすらと赤く染まっている。
「わかってるって。じゃ、ぼく、ひとりで帰るからさ」
 ぼくは、そういうと、浩一たちを残し足早に立ち去った。
 その後、真希へのいじめはおだやかになった気がする。絵里香が、少し変わったのかもしれない。それでもあいかわらず、絵里香には数人の女の子がとりまい ている。
 中学生なんてそんなものだ。
 卵からかえったばかりの雛鳥みたいに、身体を寄せあって、仲間という意識の狭い巣に群がっている。自分ひとりだけ、その巣からおとされないように、みん な懸命なんだ。
 ひとりぼっちになる不安を、ぼくたちはいつも心のどこかにかかえている。
 そんな意識から、一時、解放されるようにまもなく夏休みがくる。
 七月半ばの空。
 梅雨が明け、真っ青に空に、入道雲がたちあがっていた。



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