第五章 運命
1
ゆびきりげんまんの約束。
冬休みに入って、夏の約束を果たすときがきた。
ぼくは、名古屋駅の新幹線ホームで、さやかの乗ったひかり二○五号が到着するのを待っていた。浩一や絵里香も一緒だった。浩一たちが、さやかに会ってみ
たいといいだし、なんとなく四人ででかけることになったのだ。さやかにきいたところ、すんなりとOKした。ぼくとしては、さやかとの共有できる時間がじゃ
まされたような、ちょっと複雑な気分だった。
新幹線のドアが開くと、ぴょんとうさぎがはねるように、さやかが降りてきた。
「久しぶり、直樹くん」
ドキン。
久しぶりのさやかに、ぼくの心臓も驚いたみたいだった。グレーの帽子をかぶり、珍しくジーパン姿だった。
「なに突っ立ってんだよ」
ぼくが、だまったままでいると、浩一に背中を押された。
「浩一くんと、絵里香さんよね。直樹くんから、きいてるの」
さやかは、臆することなく話し出した。
「へぇ、かわいいじゃん。直樹には、ちょっともったいないよな」
「浩ちゃん!」
隣で、絵里香が浩一をにらみつけている。
さやかは、そんな浩一たちを笑っていた。さやかが浩一たちとうちとけるのが、なんだかねたましい気がしていた。
ぼくたちは地下鉄に乗り、名古屋港に行った。地下鉄の中でも、さやかは、浩一や絵里香と楽しそうに話していた。浩一と絵里香は、そのへんにいるカップル
と違和感がないくらいに、手をつなぎながら歩いている。半歩おくれる形で、その傍らをさやかが歩き、ぼくはさらにもう一歩おくれて、さやかの傍らを歩いて
いた。ぼくの手が、中途半端にぶらぶらしていた。
ぼくたちは、名古屋港水族館に入った。回遊魚の群れを見たり、海中トンネルをくぐったり、ぼくはさやかとほとんど口をきかずに歩いていた。ペンギンの前
にやってきたとき、さやかは、近くのいすに腰をおろした。
「疲れた?」
「ちょっとね」
ぼくは、先に行こうとする浩一たちの姿を見つけ、慌ててかけ寄った。
「ばーか、気をきかしてんじゃないか。おまえ、ほとんどしゃべらねーんだもん」
「そうよ、直樹くん。せっかく東京から来てくれたのに、あれじゃかわいそうよ」
浩一の陰から身を乗り出すようにして、絵里香がいった。 浩一は腕時計を見ながらいう。
「じゃあ、三時集合な。地下鉄のさっきの入り口のところに」
そう勝手に決めると、歩きはじめた。ぼくが、戸惑ってしばらく立ちつくしていると、なにを思ったのか浩一が引き返してきた。
「直樹、がんばれよ。タイミングがポイントだからな」
と、ぼくの耳元でつぶやいていった。
タイミング?
キスするタイミングのことか……。
いつかの浩一の言葉を思い出して、ぼくは耳まで熱くなっているのを感じていた。
「浩一たちさ、ふたりで見てまわるって。だったら、来なきゃよかったのにさ」
そういうと、さやかは笑った。
「気をきかしてくれたのよ。直樹くんがね、あまりにもだまりこんでいるから」
「だってさ、浩一たちがいたら、いつもみたいに話せないよ。はずかしいもん」
「だから、気をつかってくれたんじゃない。行こう、直樹くん」
さやかは、ぼくの手をとって歩き出した。いつだってそうだ。さやかにうながされ、後についていくように行動するぼく。
「さやかってさ、人見知りしないんだな」
ぼくは、浩一や絵里香と、ずっと前からの友達のように話していたさやかを思い出した。
「だって、話してみなくっちゃ、なにもはじまらないでしょ?」
「そうだけどさ。でも、ぼくにはできないな」
「そこが直樹くんのいいところでもあるのよね」
さやかは、軽井沢でいったことと同じことをいった。
「だって、なにもわざわざ東京にいるわたしとつきあわなくても、まわりにいっぱい女の子いるのに」
「それは、さやかだって同じだろ」
同じくらいの年頃の男の子や女の子は、学校にも塾にも、そして街にも、たくさんいる。それでもやっぱりぼくは、浩一やさやかと友達でいたいと思う。それ
は、ぼくのことを少しでもわかってくれている。そう思うからだった。
水族館から出ると、太陽の光にくらっとした。薄暗い中にいたからかもしれない。冬とはいえ、暖かい光がさしていたが、海からの風は冷たかった。風は、さ
やかのコートのすそをまくりあげた。
「さむーい」
ぼくは、マフラーをとって、無造作にさやかの首に巻いてやった。
「どこ行く?」
さやかは、隣にある遊園地の観覧車を指さした。ぼくたちは、海からの風に追い立てられるように、海岸から立ち去った。
「直樹くん、いる?」
さやかは、ポケットからキャンディーをとりだした。包みをあけ、口にほおりこんだ。甘いいちごの味がひろがった。
年の瀬も迫っているためか、遊園地はすいていた。どの乗り物も、貸切状態の様子でほんの幾人かが申し訳程度に遊んでいた。観覧車も例にもれず、貸切だっ
た。
「あったかーい」
中は、風を通さずガラス張りになっているせいか、温室のように暖かだった。ぼくが、さやかのむかいにすわると、さやかはぼくの隣にやってきた。
ふたりっきりの小さな世界。
観覧車は、ゆっくりゆっくり上っていき、名古屋港が見渡せ、幾隻もの貨物船が行き来しているのが見えた。そして反対側には、名古屋のコンクリートの街並
みが続いていた。 空は、青く晴れ渡り、そして海と空の境には、かすみがかかったように白っぽくなっていた。
「水平線?」
「あ、うん」
「昔の人は、海をずっと進んでいくと、大きな滝があって、海の水がざあって落ちていくと思っていたんだよね」
ぼくと、霞がかったような海の果てを見た。
「地球が丸いって、わからないときの話だろ?」
「そんな気分なの、わたし……」
突然のさやかの言葉に、ぼくはだまりこんでしまった。
「だって、一年半よ。発病して……。残された時間は、長くてもあと一年半くらい……。受験だって、できないんじゃないかとか……高校生にだってなれないん
じゃないかとか……」
さやかは、水平線のずっとむこうを見ているようだった。
「……ごめんね、こんなこといわれても、直樹くん、困っちゃうよね」
ぼくの方を見て、ぱたんと大きくまばたきをした瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。ぼくが、今までに見たこともない、さやかの一面だった。
ぼくは、だまったままさやかの肩を引き寄せて抱いた。ぼくには、かける言葉もなかった。ぼくにできる、精一杯のことだった。
「でも、直樹くんに会えたから……」
カタン、カタン、カタン。
重くきしむような音とともに、ぼくたちは、上へ上へとあがってきた。
真夏とも錯覚してしまいそうなくらい、空は水色に澄んでいた。
マフラーをはずしたぼくの喉もとを、さやかの髪がくすぐっていた。
「直樹くん?」
「ん?」
さやかの息が、ぼくの首もとにかかった。
ドキン、トク、トク、トク。
ぼくの心臓が、眠りから覚めたように、動きはじめた。息苦しいくらいに、動いている。 ぼくの心臓は、こんな近くにさやかがいたことを、たった今、気づ
いたみたいだった。
「動いてる。……直樹くんの心臓。生きてる証拠、だね」
「えっ?」
ぼくの心臓は、こわれるのではないかというくらい鼓動していた。ぼくは、さやかの視線を感じ、すっと目をそらして空を見てつぶやいた。
「もう、てっぺんだよ」
ガタン、ガタン、ガタン。
けだるい音とともに、観覧車は、ゆっくりと下りはじめた。
「直樹くん?」
「ん?」
「……キスして」
ぼくの心を見透かしたような、さやかの言葉だった。
ガタン、ガタン、ガタン。
「キスも知らなくて死んでいくなんて、かわいそうでしょ?」
さやかの涙は、もう乾いていた。
ガタン、ガタン、ガタン。
ぼくは、そっとさやかの唇にふれた。
いちごミルクのキャンディーの味がした。
ぼくたちは、浩一たちと合流して、名古屋駅に戻った。そろそろ帰省ラッシュがはじまりだしたのか、新幹線ホームは長蛇の列をつくっていた。
あと十分。
時計を見て、新幹線の到着を確認した。
「直樹くん、約束のゆびきりは?」
「えっ?」
ぼくは浩一たちの前で、真っ赤になってうつむいた。
「もう、照れ屋なんだから! 直樹くんは!」
「なんだよ、ゆびきりって?」
さやかの言葉に、浩一までがぼくをからかいだした。
「今度はいつ?」
「……春休みかな」
ぼくは、うつむいたまま、ぼそっといった。
「じゃあ、ゆびきりげんまん」
ぼくは、あきらめて右手の小指をさしだした。やっぱり、さやかの指は、折れそうなくらい細かった。その瞬間、観覧車の中でのさやかの涙を思いだした。
「なんかあったらさ、電話してこいよ」
さやかは、こくんとうなずいた。
「あー、浩ちゃん、あたしたちもしよう。ゆびきり」
「いいんだよ、おれたちは。いやでも毎日、顔あわせてんだから」
浩一たちの会話に、ぼくとさやかは顔を見合わせて笑った。
新幹線が到着した。さやかが乗り込み、ぼくたちを引き裂くように、ぴしっとドアが閉められた。胸がしめつけられる想いで、見送っていた。
2
さやかと会った一日を除いて、ぼくの生活は、受験一色に染まっていた。クリスマスからお正月へと街は装いを、一瞬のうちにかえていた。クリスマスケーキ
を売りさばく声が、生鮮食品をはじめとする、正月料理へと変わっていた。
水が増した梅雨時の川の勢いに飲まれるように、ぼくの生活も世の中の慌ただしさに押し流されていった。
大晦日。
ぼくは、両親とともに、熱田神宮まで初詣に行った。いつもは、近くの神社ですませるのだが、今年はぼくの高校合格祈願のためということらしい。正月三が
日には、初詣客は二百万人を越すといわれるだけあって、夜中にもかかわらず境内は混み合っていた。着物姿の若い女性や、家族連れ、若者のグループ。ぼく
は、もみくちゃにされながら歩いていた。
こんな人混みの中にいると、逆にぼくは、ひとりぼっちのような気がしてくる。もちろん、父と母は、ぼくの前を歩いているんだけれど。
「直樹、お祈りしておかないと」
母は、ぼくに百円玉を渡してくれた。
「たった百円?」
「小銭がなかったの」
「一万円札でもいれるか?」
父の言葉に、とんでもないという母の顔。ぼくたちは、顔をみあわせて笑った。
賽銭箱なんか、もちろん見えない。多分、ビニールシートで広く囲ってあって、とりあえず賽銭はそこに納められるのだろう。
ぼくの投げた百円玉が、篝火をうけて、鈍く光り宙に舞った。ぼくが考えていたことは、さやかのことだった。受験なんかぼくの努力で、なんとでもなる。
ゆびきりげんまん。
さやかの声が、ぼくの頭の中でこだました。
春休み、さやかに会えますように。
ぼくの、ささやかな願いだった。
冬休みは、なんとなく気分の重いまま過ぎ去った。
二月に入ると、ぼくにとってはすべりどめの私立高校の受験があった。そして、さやかにとっては、第一志望の白百合女学院高等部の試験があった。
ぼくたちは、最後の追い込みの時期、短い電報のようなはがきのやりとりと、市内電話であれば十円でおつりがきそうな程度の会話を、ほぼ毎日していた。
「直樹、郵便きてるわよ」
二月十四日。
大きい茶封筒に入った、厚みのある郵便。
バレンタインデーのチョコレートだった。
ぼくが包みを開け、チョコレートとともに送られてきたカードを開く。カードは、開くとはがきサイズ程度のもので、大きく『すき』と書かれていた。真っ黒
のカードに、はやりのミルキーペンのピンクで書いてある。カードのすみには、ハートマークが添えられていて、それもピンクでぬられている。
「わかりやすくていいじゃない」
カードをのぞきこんだ母にいわれた。
さやからしいというか……。
大胆というか、単純というか……。
「ホワイトデーには、このカードに数字の2を加えておくってあげれば」
「数字の2?」
「そう。好きの二乗ってこと。さやかちゃんの気持ちが、2なら直樹は、4。3なら9になるわけよ、二乗ってことは」
最近ぼくは、母にまでからかわれる。
「食べる?」
ぼくは、照れ隠しのために母にチョコレートの箱を差し出した。
「ドナーって、見つからないのね。なかなか」
チョコレートを口にほおりこんだ母は、思い出したようにいった。
ぼくは、さやかのパパが話してくれた、五百人から一万人にひとり。場合によっては、数万人にひとりという、気が遠くなるような数字を思い浮かべていた。
その夜、九時。
電話が鳴った。ぼくたちは、暗黙の了解みたいに、一日交代で電話をかけていた。
あれ?
ぼくがかける日なのに……。
「直樹くん、ビッグニュース!」
受話器をとった瞬間に、さやかがぼくであることも確認しないまま、叫んだ。
「受かったんだろ? 白百合学院高等部。今日、発表だったもんな」
「あたりまえよ」
「いばってらぁ」
ぼくは、電話口で笑った。ほんの数日前には、自信がないといいだしたり、あんなお嬢さま学校行きたくないといいだしたり……。そんなさやかの様子に、
やっぱり普通の女の子なんだと思ったことを思い出した。
「もうひとつあるのよ、なんだと思う?」
「もうひとつ?」
「……なんだと思う?」
ぼくがちょっと考えこむと、その間すら待てないように、さやかがうながした。
「さあ……」
「見つかったのよ、ドナーが」
ドナー?
「きいてるの、直樹くん?」
ドナーって、骨髄液を提供するっていう人?
「直樹くん!」
受話器をもったままだまりこんだぼくを、さやかは呼んだ。
「ん?……うん」
五百人から一万人にひとり。場合によったら、数万人にひとりのドナーが?
「だから来週、入院するの」
さやかは、これからのことを簡単に話してくれた。
骨髄移植は、春休み中に行われるそうだ。それまでに、放射線と抗ガン剤による治療をうける。白血病におかされていても、骨髄の中には正常な白血球も残っ
ている。それすらも、死滅させてしまうため、免疫力はゼロになってしまう。そのために、無菌室というところに入るそうだ。無菌病棟では、面会はできない。
両親のみの面会が許され、兄弟姉妹の面会すら許されないのだ。
「ゆびきりしたのにね。延期になっちゃうね」
ゆびきりげんまん。
次は、春休み。
「ぼく、日曜日に東京行くよ」
「えっ?」
そういったまま、電話のむこうでさやかが絶句していた。
「……直樹くん、火曜日、試験でしょ?」
ぼくは、本命の公立高校の受験を目前にしていた。
「今さら勉強したって、変わらないさ」
「でも、会ったらびっくりするよ」
「どうして?」
「多分、日曜日までに丸坊主になってるから」
「えっ?」
「どうせぬけちゃうんだから、丸坊主にすることにしたの」
ぼくは、名古屋に来たときのさやかを思い出した。ボブくらいだったのが、丸坊主?
「でも、よくなれば生えてくるんだろ」
「もちろんよ。それまでカツラでもかぶってようかな。金髪でくるくるってしたのとかぁ……」
さやかの強さなのか、もともとの楽天的なのか、ぼくは驚きを通りこして呆れていた。電話をきった後、チョコレートのお礼をいうのを忘れていたことに、ぼ
くは気づいた。
日曜日。 ドナーのことは、ぼくの父や母も喜んでいた。でも、受験前の日曜日に東京へ行くというぼくに、母はちょっと呆れたみたいだった。
「二乗どころか、三乗ねぇ」
さやかのバレンタインのカードの話をまたもちだした。
往復の交通費二万円にプラス一万円を、父がぼくに渡してくれた。
「男はたいへんなんだからな」
前に東京に行ったときと、同じことを父はぼくにいった。
「お父さんのこづかいはこれでパアだから、お母さんに交渉しないとな」
なんだかんだいいつつ、父も母も快く送り出してくれた。
3
東京駅の新幹線ホームで、さやかは待っていた。 ぼくたちは、上野公園にやってきた。
季節は、冬だというのに、それでも大勢の人がいる。風がなくおだやかな日で、春と錯覚するかのような暖かい光が降り注いでいる。
「大人の恋人どうしみたいよね」
「えっ?」
「だって、前に会ってから二ヶ月もたってないもん」
さやかは、水色の毛糸の帽子をかぶり、水色のコートを着て、水色と白のチェックのマフラーをしていた。
「丸坊主にしたらね、寒いのよ、頭が」
「寒い?」
「そう、髪の毛って大切な役割を果たしているの。だから、つるつるのおじいちゃんはたいへんよ。寒いし、頭になにか落ちてきたらすりむいたり、ひっかいた
り……」
頭をすりむくとか、ひっかくという発想に、ぼくは笑った。軽井沢にいる、祖父のことをぼくはふと思い出した。
「でも、おかげでこんなかわいい帽子かぶれたし……。髪があるとね、静電気でぴとってくっついちゃって、気持ちがわるいの」
さやかのおしゃべりは、まだまだ続いていた。
髪の毛がぬけるということも、もちろんショックはあると思うけれど、悲観していない。同じことでも考え方や見方をちょっと変えるだけで、感じ方が変わっ
てくる。
「ドナーが見つかったときね、生かされているって思った」
「生かされている?」
「そう。だって、ドナーが見つからなければ、死ぬしかないんだもの。どっちみち、みんな死ぬんだけど、でも自分の命の終わりがあと一年ちょっとと宣告され
ているのって、結構、酷なことよ」
ぼくは、だまってうなずいた。
「白血病になったのも、たとえばドナーが見つからなかったにしても、それは運命だと思うの」
「運命?」
「運命って言葉、好きなの。だって、あきらめがつくじゃない」
あきらめ。さやかの強さは、それが原点だったのだろうか。あきらめているから、かえって前向きになれるのかもしれない。
「運命は変えられなくても、過程は変えられるはず……」
「過程?」
「そう。たとえば、直樹くんは、名古屋に帰らなければならない。これがおおげさだけど、運命。でも帰る方法は、新幹線だけじゃない。バスでもいいし、寝台
特急でもいいし、飛行機でもいい。どの交通手段を選ぶかで、出会う人だって変わってくるでしょ?
隣にすわる人とか……ね。名古屋に帰るという運命でも、変わってくるはずよ」
ぼくは、深くうなずいた。さやかのそんな発想に、たまに感心することがある。
「最初に直樹くんに会ったときね、はりたおしてやろうかと思ったくらいよ」
十四歳の軽井沢での夏。
いじめにあって、不登校だったぼく。
まわりの環境が変われば、ぼく自身も変われるはずだと、さやかにいわれた。
そして、さやかは、自分のことは『避けられないことだから』といっていた。
ぼくは、ふと空を見上げた。まぶしいくらいの水色の空だった。
「さやかと会うときはさ、いつも晴れるよな」
「そうね」
さやかも空を仰ぎ見た。雲が風にゆっくりと流れている。
「直樹くん、あさっての受験、がんばってよね。東京に来たから落ちたっていわれても、わたし、しらないわよ」
「わかってるって」
「合格できるおまじない、してあげようか」
「おまじない?」
「そう。目をとじてね。いい? 絶対あけちゃダメ」
ぼくは、目をとじた。ぼくの頬に、さやかの唇がふれた。
「さやか!」
ぼくが叫ぶと同時に、さやかは駆け出した。ぼくたちの足もとに群がっていた鳩が、いっせいに飛び立った。
東京駅の新幹線ホーム。
一日はまたたくうちに過ぎ去った。ぼくたちは、ベンチに腰かけていた。
「さやか、ゆびきりは?」
「次は……高校生になってからかな」
骨髄移植が終わって、おちつくころには、高校生になっているだろう。
「でもね、夏休み前に会おうよ」
「うん。……高校生になったらバイトでもしようかな、新幹線代の」
父の言葉を思いだした。
「その前に、高校に合格しなくっちゃ」
「わかってるよ」
「高校生になって、そうね、次は大阪に一泊旅行かな」
「一泊?」
ドキン。
さやかの言葉に、ぼくの心臓は驚き、多分ぼくは真っ赤になっていた。
「もう、スケベ! 直樹くんったら」
「からかうなよ」
ぼくは、うつむいたまま、ぶっきらぼうにいった。
新幹線がホームにすべりこんできた。
「直樹くん、入院して電話できなくても、手紙、ちゃんと出してね。毎日ね」
「わかった」
「じゃ、ゆびきり。ここで話したこと、全部の約束のゆびきり」
ゆびきりげんまん。
五回目のゆびきりだ。
ぼくは、このとき、さやかの瞳にうっすらとにじんだ涙を見た。
「がんばれよ」
ぼくは、よく浩一にやられるみたいに、さやかの額を指でクイッと押した。
新幹線に乗り込んだぼくに、さやかは小さく手をふった。新幹線は、ぼくの心を残したまま、東京駅を発った。
4
ぼくは、無事、第一志望の公立高校に合格した。合格発表の日、ぼくは張り出された受験番号を見て、ほっとするとともに喜びがこみあげてきた。学校の試験
発表では、順位を見て、大きなため息とともに、安心する。高校に合格したということは、ひとつの通過点でしかないはずなのに、ぼくは妙にうれしかった。
発表を見に来た人だかりの中に、彰の姿もあった。
「よかったよな」
「絵里香も受かってたよ」
ぼくたちは、はじめて互いの結果に喜ぶことができた。 ひとつの壁を乗り越えた感じに、やっとぼくたちにも、人のことを考える余裕が生じた。
浩一も私立高校に合格しており、それぞれの春をむかえていた。
「これからどうするんだ」
「えっ?」
「やっと解放されたんだしさ、どこか寄って行くか?」
彰の言葉に、ぼくは驚いた。
「あ、でもさ、ぼく……」
今日ぼくは、バレンタインデーのおかえしを買いにいこうと思っていたのだった。あと一週間余りでホワイトデー。そして、さやかの骨髄移植の日は、三月二
十五日と決まっていた。
「ぼくも、一緒に行っていいかな」
「買い物? いいよ」
ぼくと彰は、学校外ではじめて行動を共にした。
「高校入ったら、今度は大学だよな」
でもぼくは、まだそんな先のことは考えられなかった。
「彰、将来、何になるか決めてるの?」
「ぼく? さあな、公務員か父みたいなサラリーマンかな。レールの上を走る列車だよ、むなしいよな」
「むなしいって、中学生のいう言葉かよ。列車に乗っても、途中下車はできるんだぜ」
途中下車。
ぼくの不登校は、途中下車であったのかもしれない。それでも多くの人は、まわり道はしても、途中下車などせずに、着々と人生のレールを走っていく。
「ぼく、父の仕事の関係でさ、転校が多かったんだ。友達ができてもさ、二、三年で転校しちゃうだろ。転校して思うことは、友達の輪ができてるんだ。途中か
らだと、入れなくってさ」
「その気持ちは、ぼくもわかるよ」
友達の輪から、はじきだされたとき。ぼくも、その輪には入っていけなかった。
「だからナイフなんか持っていたんだ」
一匹狼でいるには、それなりの盾が必要だ。ナイフは、武器のつもりではなく盾だったのだ。ぼくは、はじめて気がついた。
「あの犬、ぼくが殺したんだ」
「しってた。彰、ナイフふりかざして、あの犬みたいに八つ裂きにしてやるっていってたから」
「ぼくが?」
彰は、覚えていないみたいだった。
「犬だったから、社会的制裁は受けなかったけれど……。本当は、そういう問題じゃあないよな」
ぼくは、なにも答えなかった。
犬の命だって、ひとつの命だ。あの犬が犠牲になったことで、彰はなにか気づいたんだと思う。
「たくさんあるな。ぼく、チョコレートなんかもらったことないからさ、こんなの見に来たことないんだ」
ぼくたちは、店の一角に設けられたホワイトデーのコーナーについた。
「高校生になったらさ、もらえるよ」
「そうかな」
「好きな子がいた方が、楽しくなるよ」
彰が照れたように、赤くなっていた。
ぼくは、ちょっと慣れてきたのかもしれない。そんなこともいえるようになっていた。
さやかとぼくの間は、手紙が行き来していた。消毒されてから、無菌室にもちこまれる便箋。
『直樹くんのところに届くまでに、雑菌だらけになっていると思うよ』
そんな書き出しとともに、さやかの描いたバイキンの絵もついていた。
「もしもし」
受話器を無造作にとったぼく。
「もしもし、直樹くん?」
「さやか?」
無菌室にいるはずのさやかの声だった。
「妹の綾香です。……ごめんなさい、お姉ちゃんじゃなくって」
「なんだ、綾香ちゃんか」
声が、そっくりだった。
「なんだって、なによ。失礼ね」
「ごめん、ごめん」
元気のいいところも、さやかと似ている。
「お姉ちゃんがね、すごーくうけてたって。ママがいってた」
「なんの話?」
「ホワイトデーのカードよ」
「見たの?」
ぼくは、大声をはりあげた。
「だって、仕方ないでしょ? 無菌室にもちこむため、消毒するんだから」
ぼくは、電話口で真っ赤になって、だまりこんだ。さやかにうけると思って、母のアイデアをかりて、クッキーにカードを添えた。さやかからのカードは、記
念にとっておきたかったから、ぼくは新しく『すき』のカードをつくり、『き』の字の右上に数字の2を書き入れた。
好きの二乗。
「直樹くん、いつもありがとう。さやかね、とっても喜んでるわ」
綾香ちゃんから、さやかのママに電話は変わっていた。
ぼくは、しどろもどろになっていた。
「移植の日まで、十日くらいでしょ。やっぱり不安なのね。また元気になったら、会いにきてあげてね」
緊張したまま、なにを話したかも覚えていず、電話をきった。
三月二十五日。
二時間ほどかけて、さやかの体内に骨髄液が入れられたそうだ。メスをつかう手術ではないとわかっていても、ぼくは春休みのこの日、さやかのママから結果
の電話がくるまでおちつかなかった。
さやかは、強運の持ち主かもしれない。五百から一万人。場合によっては、数万人にひとりといわれるドナーが見つかったのだから。確率からいっても、すご
いことだ。
きっとそんなことをさやかにいえば、屈託のない笑顔で『おこないがいいからよ』というだろう。または、『見つかる運命だったのよ』というかもしれない。
そして、もしドナーが見つからなくても『これがわたしの運命だったの』と淡々といいそうな気もする。
移植後、一週間ほどは高熱が続いたようだった。さやかのかわりに、綾香ちゃんが、ぼくに電話をくれた。熱は、三十九度から、高いときには四十一度を越え
たそうだ。
平熱の三十六度何分から三十八度台にあがったときのだるさを思いだし、さらにその倍のだるさや頭痛を考えると、さやかのことが頭からはなれなくなった。
「直樹、夏休みはまた軽井沢だな」
「そうよ、高校生になったら、勉強もたいへんだし、バイトもしてもらわないとね」
「新幹線代、お父さんのこづかいからとられたら、たまらないからな。男はたいへんなんだからな」
ぼくの様子を気づかってか、父や母はこんなことをいう。
夏休み。
さやかは、元気になっているのだろうか。
ゆびきりげんまん。
夏休み前に会おうと約束した。
ゆびきりげんまん。
さやかの声が、よみがえってきていた。
生着。
その連絡がきたのは、移植から十日後のことだった。生着とは、ドナーの骨髄液から、新たに血液がつくられるようになることをいう。ちょうどその日は、ぼ
くの高校の入学式だった。
満開の桜が、散りはじめていた。
5
ぼくは高校生になった。
九クラスもあるのに、偶然にも彰と同じクラスだった。絵里香は、他のクラスで、浩一は他の高校に進学した。同じ中学出身の生徒もいたが、顔を知っている
程度だ。
また高校でも、群れをつくるため、みんながはたらき蜂のように、せわしく動きまわるのを感じていた。
学年でトップだった彰も、この高校では、上の中くらいの成績だった。ぼくの成績も、かろうじて上のグループに属している程度にかすんでしまった。入学直
後に行われた試験で、ぼくの存在が妙に不確かなものに感じられていた。
「やっぱりレールの上を走る列車だよ」
彰の言葉に、今のぼくは妙に共感がもてた。
「次の駅は、大学ってことかな」
中学生であるという立場が、高校生になっただけだ。電車通学になり、毎日の景色がいくらか変わった程度。
桜の季節が慌ただしく過ぎ去り、若葉のまぶしい季節になった。
ぼくが、こんなちょっと憂うつな気分になっているのは、さやかの経過が思わしくないことも原因になっているのかもしれない。さやかがぼくの前にいて、ぼ
くがこんな弱音をはいたら、『直樹くん、なにいってるの』とでもいわれそうな気がした。
骨髄移植をすれば、すぐにでもさやかは、どこにでもいる健康な女の子になるのだと、ぼくは信じていた。
移植後、ドナーから提供してもらった骨髄液が、患者の身体の方を異物と判断して攻撃をするらしい。その障害は、肝臓と皮膚に著しくあらわれるという。
『高校生活、楽しい?』
が、移植後にさやかから届いた第一号の葉書だった。短い電報のような言葉で、まるで小学校にあがる前の子供が書いたかと思うような字だった。
綾香からの電話によると、さやかは肝臓の機能を阻害されているらしかった。黄疸状態は顔だけでなく、白目の部分まで黄色くさせているらしかった。そんな話
をきくたびに、ぼくの不安はさらに増し、鏡で自分の白目の色をたしかめたりしていた。
『顔が、ぱんぱんにはれちゃって、とても直樹くんに見せられないよ』
『水の味もわからない、どんな味だっけ?』
渾身の力をふりしぼって書いただろう、二、三日に一通届くはがき。
ぼくは、授業をうけていても、通学の電車の中でも、いつでもさやかのことは、脳裏の片隅にあった。さやかに届くはずのない言葉を、ぼくは幾度もつぶやいて
いた。だが、便せんにむかうと、書く言葉すら見つからず、ぼくの返事はおくれがちになった。それでもなにか書いてやらなくてはと、ぼくはペンを手にした。
『ゆびきりげんまん』
ぼくは、そうひとことはがきに書いた。
夏休み前に会おうよ。
バイトでもしようかな、新幹線代の。
次は大阪に一泊旅行かな。
もう、スケベ! 直樹くんったら。
からかうなよ。
断片的に、さやかとの会話がよみがえった。
『ゆびきりげんまん』
数日後に、さやかから返事がきた。これも、子供が書いたかのようなたどたどしい文字だった。五月の下旬にさしかかったころで、もう梅雨に入ってしまった
のではと思うくらい、雨の続いていたころのことだった。
移植から、ちょうど二ヶ月目の五月二十五日。
「直樹くん?」
「綾香ちゃん?」
ぼくは、さやかとそっくりな電話の声を、もうさやかだとは間違わなくなっていた。
「お姉ちゃんね、たまに目も見えないみたいなの。……電気ついてるのにね、電気つけてっていったりするの。……もうだめなのかも」
綾香ちゃんの力ない言葉に、ぼくは決心がついた。
「ぼく、あした東京に行くよ」
「あしたって? 学校は?」
「いいよ、一日くらい休んだって」
今行かなければ、さやかにはもう会えないかもしれない。そんな思いに、ぼくはかりたてられていた。
ぼくの東京行きに、父も母も快く許してくれた。多分、ぼくと同じ思いがあったのだろう。
「これ、お父さんのこづかい?」
「夏休み、バイトして返してもらうからな」
父は、わざとぼくを元気づけるようにいった。それが痛いようにわかったから、ぼくも笑顔を見せた。
さやかと会うときに、いつも晴れている。ここ毎日のようにどんよりとしていた雲は、風にとばされ、水色の空が新幹線の窓を埋め尽くしていた。
病室をノックすると、さやかのママが顔を出した。夏に会ったときより、かなりやつれていた。それだけで、さやかの逼迫した容体がうかがえた。
病室に通された。
消毒液くさいような、病室独特の空気がさらに強く鼻についた。
さやかだと、知らずに会ったら、ぼくは気がつかなかったかもしれない。さやかのはがきのとおり、そして綾香からきていいたように、顔はむくんで皮膚は黄
色になっていた。ママがさやかの耳元でなにかささやき、そこでやっとさやかは、ぼくに気がついたらしかった。
「な・お・き・く・ん?」
ひとことひとこと、命をけずってささやくような、言葉というよりも息がもれた。
ぼくは、だまったままうなずいた。
移植後、ぼくがさやかと会うのは、元気になったさやかだと信じていた。だから、さやかがよくなるまでは、さやかに会うつもりはなかった。よくなるんだか
ら、なにも病院にいる時に会いに行くことはないはずだ、と。
さやかのママに話しかけられて、高校のことや、絵里香や浩一のこと、そんなことを話した。さやかは、そんなぼくの話を楽しそうにきいているみたいだっ
た。
ぼくは、帰り際にいった。
「さやか、前のときの約束まだだからな」
さやかが、わずかにうなずいた。
ぼくは、さやかの左手の小指をとった。
指の先まで黄色くむくんでいた。
「ゆびきりげんまん」
さやかの瞳から、ひとすじ涙が伝った。
白い枕カバーに、黄色いしみができた。
涙まで黄色にするほど、さやかの黄疸はすすんでいた。
帰りの新幹線にゆられながら、なぜドナーなんか見つかったのだろうと思った。骨髄移植さえできれば、さやかは元気になると信じていた。だったら、期待な
んかもたせるドナーなんか現れなかったらよかった。もし、さやかが死ぬ運命にあるのなら、ドナーが見つかったことで、かえって悲しみが増す。
新幹線内での、字幕ニュース。
いじめによる中学生の飛び降り自殺。
放火による死亡。
文字は、冷酷に事実を語っていた。こんな世の中の狭間で生きるさやかを思い、やるせない気持ちになった。
「まもなく名古屋です」
アナウンスとともに、字幕が名古屋到着の知らせに変わった。ぼくは、人におされながらホームへと降りた。
六月一日のことだった。
汗ばむ陽気になり、ちょうど夏服へと衣替えになったその日の夜のことだった。さやかが亡くなったという連絡がきたのは……。
電話がさやかのパパの声だったから、ぼくはきく前に事実を悟っていた。
さやかが死んだ?
受話器をもった指先が、こわばり冷たくなった。目の前がむらさき色がかった暗闇におそわれた。身体中の血が足元にむかって、滝のように落ちるような感じを
覚えた。
ぼくは部屋にかけこみ、真っ暗な中にいた。
ぼくは、泣いた。
どこにもあたることができない、やるせない想い。ぼくの涙は、とまらなかった。
十四歳の夏、はじめて会ったさやか。不登校で卑屈になっていたぼくにとっては、まぶしすぎる存在だった。あの夏、友達の輪に入れずはじきだされたままの
ぼくにとっての、たったひとりの友達だった。
ぼくの初恋。ぼくが、はじめて好きになった女の子だった。
ディズニーランドで遊んだ春休み。
十五歳の夏。軽井沢のホテルの庭。あの川のほとりで、すべりそうになったさやかを抱きしめたぼく。さやかの髪がぼくの頬にふれ、好きだと告白したあの
夏。あのミントの葉のように、さわやかだった夏。
名古屋に来たさやか。名古屋港の遊園地で、はじめて見たさやかの涙。さやかの唇。
受験前の上野公園。青空の下、カップルや家族連れ、散歩のお年寄りがいる中、ぼくの頬にキスしたさやか。駆け出すさやかの前に、鳩がいっせいに飛び立っ
た。
さやかに会って、もうすぐ二年。
この歳月の重さを、ぼくは感じていた。
ぼくの涙が乾いたとき、『こうなる運命だったのよ』と、自分の死をもこう淡々と語るさやかの声がきこえた気がした。
さやかの死は、ひょっとしてという小さな覚悟はあったものの、あまりに突然であっけないものだった。
ぼくが東京のさやかの家を再び訪れたのは、夏休みに入ってからだった。新盆もすませ、さやかの家族も少しおちついた様子だった。
遺影の前に、ぼくは立った。
一年前、軽井沢で撮ったものだ。
ぼくは、お線香をあげた。渦を巻くように、煙は上っていった。
ゆびきりげんまん。
さやかの声がよみがえった。
「直樹くん?」
さやか?
ドキンして、ぼくは顧みた。
「綾香ちゃん?」
ドキン。
再び、ぼくの心臓は息づいた。
さやかが亡くなる前に電話で話していたけれど、会うのは一年ぶりだった。
今年、中学二年のはずだった。
ぼくがはじめて会ったときのさやかに、似ていた。
「どうしたの?」
「いや、さやかに似てるって思ってさ」
「だって妹だもん」
そういうと綾香は、仏壇の横に歩み寄った。
「直樹くん、これ」
綾香が手にしたのは、さやかの誕生日にあげたうさぎのオルゴールだった<。
「お姉ちゃんがね、もしもわたしが死んだら直樹くんにあげてって」
ぼくは、オルゴールを手にして、ねじをまいた。陶器でてきたうさぎは、バイオリンをひくかっこうで、ぐるぐるとまわっていた。
「ずっとそばに置いてあったの、お姉ちゃんの。お姉ちゃんって、幸せよね。死んじゃっても想ってくれる人がいて」
写真のさやかは、笑っていた。
死は、さやかにとっては無だったかもしれない。でも、残された者にとっては、さやかの死は無ではない。悲しみや悔やみ、懐かしさ、そして癒し。長い時間
をかけて、いろいろな感情に取り巻かれる。
「今年は、軽井沢、行かなかったの?」
「えっ?……あ、うん」
ぼくは、二年続けて世話になった祖父母の顔を思い出した。
「うちもなの、お姉ちゃんのことがあったしね。来年は行く?」
「来年? 綾香ちゃん、来年は受験生だろ?」
「だって、お姉ちゃんだって受験生なのに行ってたんだよ」
「そうだな」
ぼくは、受験というものの圧迫感にさいなまれていた時期を懐かしく思い出した。
「じゃあ、行く?」
「えっ?」
「綾香!」
たしなめるように、さやかのママが顔をだした。
帰る時、買い物があるといって綾香も着いてきた。そして、新幹線ホームまで送ってくれた。
「直樹くん、約束よ」
「約束?」
「来年の夏の話……」
「軽井沢か?」
「うん」
綾香は、あどけない笑顔でうなずいた。
約束……。
ゆびきりげんまん。
さやかの声が、またぼくの耳元で響いた気がした。
「わかった? 直樹くん?」
ぼくは、うなずいて苦笑した。
ゆびきりげんまん。
さやかとの最後の約束は、果たせなかった。さやかの折れそうなくらい細い小指の感触を、ぼくの小指が覚えていた。多分、忘れないだろう。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる
夏休みが終わった。あいかわらずアスファルトの照り返しや、冷房の吹き出しで、どんよりとしたなま暖かい空気が、夜になっても澱んでいる。だが、さわさ
わと街路樹をゆらす風の音。チリリンと風鈴を鳴らす風。
残暑とはいうものの、秋が忍び寄ってきているんだなと感じる。
高校の古典の教科書にも、古今和歌集にある藤原敏行のあの歌が載っていた。
歌のせいか、さやかの誕生日が近づいたせいか、やはりぼくの心に、さやかの姿は刻み込まれていた。
学校帰り、たまに彰とファーストフード店に寄って、ハンバーガーをぱくつく。そして、廊下で絵里香とすれ違うと、『浩ちゃんがねぇ』とのろけ話をきかさ
れる。そして、浩一からも、たまに遊びの声がかかった。
また綾香ちゃんからは、たまに電話がかかってきたり、手紙が届いたりする。
そうやってぼくたちは、前にむかって生きている。
さっと風が、ぼくを通り抜けていった。
学校帰りの、それでもまだ日の高い空は、雲ひとつなかった。
まぶしいくらいの水色の空だった。
ゆびきりげんまん(完)
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