1
八月に入り、セミの声とともに本格的な暑さがやってきた。高校に入ってからの僕は、塾通いをやめていたが、それでも夏期と冬期に行われる特別講座には出席していた。
志望校を決める目安にもなる、全国共通の模擬試験が行われた八月五日、僕は十八歳の誕生日をむかえた。
夏期特別講座が終わってから、息抜きに誕生日のお祝いをしてくれるという美紀。美紀を僕の彼女だとか、つきあうだとか、そんな自意識の薄いまま美紀と時間
を共有することが多くなっていた。
美紀は、僕と関係をもってからも、家庭教師としてのアルバイトは手をぬくことなかった。僕が勉強中に戯れを見せれば、美紀はそれを撥ねつけた。二時間とい
う決められた時間から解放されると、僕たちはそのまま食事に行ったり、美紀のアパートに向かったりした。当然のことのように美紀と肌を確かめ合い、自慰行
為の中でも鮮明に美紀の肌の感触が甦った。美紀とのことがあって以来、教科書や参考書を開いていても、頭の中は美紀のことでいっぱいだった。もっといえ
ば、美紀のなめらかな肌や、行為そのものの記憶をビデオテープのように幾度も巻き戻しては再生していた。この十日余り、身体にまとわりつく倦怠感に支配さ
れ、今まで詰め込んだ英単語や数式まで、記憶の彼方にかすんでいく思いだった。それでいながらも僕の中では、カタンカタンカタンと軋んだような音をたてな
がら、何かが回り続けていた。 僕は模擬試験の最中でさえ、美紀の幻像に集中力を削がれる思いで、マークシートを鉛筆で塗りつぶすのが精一杯だった。
チャイムとともに、部屋が騒々しくなった。僕の手から鉛筆は、机に転がった。即座に試験の難易度を話す声や、参考書で答えを確かめる人の姿が目に入った。
そんな中で僕は、鞄に慌ただしくペンケースをしまい込むと、いち早く部屋から立ち去った。
塾の階段を下りきったところで、唐突に「直樹」と声をかけられた。
「彰……。あれ? 模試、受けなかったのか?」
当然に彰も模擬試験を受けているものと思い込んでいた僕は、立ち尽くしたままその姿を見ていた。受験勉強と称しての寝不足のせいか、あるいは美紀とのこと
のせいか、彰を見定める僕の意識も、ぼんやりしていた。続いて階段を下りてきた人の勢いに押され足を踏みはずしそうになり、僕は彰に促がされた。
「これから時間、ある?」
僕はうなずいて、彰と肩を並べて歩き出した。僕たちは、例によってファーストフード店に入った。夕食には少し早かったが、セットメニューを頼んで、二階の
奥の席についた。
「試験、どうだった?」
「全然、できなかった。まずいよな、あの結果で合格圏内からはずれたりしたら……」
つぶやきながら、ちらりと美紀の姿がよぎった。
「彰はどうして受けなかったんだよ」
「僕? まあ、いろいろあってさ……」
含みのある言い方をして、彰はだまりこんだ。それから大きく伸びをして、深い息をついた。
「直樹、絵里香のこと知ってる?」
「絵里香? ああ、まあな」
束の間の沈黙のあと、彰は何を思ったのか絵里香のことを口にした。
「僕の家、絵里香の家と近いだろ? うわさってやつでさ……。絵里香、家にいないみたいなんだ」
「浩一のところか?」
絵里香に妊娠のことを打ち明けられたのは、もうひと月も前のことだ。なんだかずいぶんと昔のような気がした。
「さあ、どうかな。絵里香、どうするつもりかな」
「なんだ。わざわざ絵里香の話をするために、待ってたのか」
「いや、そうじゃなくってさ……」
彰は、ズズズッと音をたててコーラを飲みきった。
「僕、芸大、受けようと思うんだ」
宣言するように言い切った彰に、僕は息を飲んだ。
「……芸大?」
「うん。絵の勉強したくて……」
「……絵?」
僕は続けておうむ返しにつぶやいていた。
「ゆくゆくは、デザインみたいな仕事ができればって思ってるんだ」
彰の突然の宣言に、僕自身は奈落の底に突き落とされたようなショックを覚えていた。中学の頃から僕は、『いいこ』の仮面をかぶって、試験の点に一喜一憂し
ていた。不登校なんて、ちょっとひねたこともしてみたが、それでもまともな道に戻ってきた。わるぶってもたいしたことができるわけではなく、臆病に地道に
生きている。僕以上にその道を全うしていたはずの彰が、こんな宣言をしたのだから、ショックを受けない方がおかしいのかもしれない。
「……それでさ、父さんと大喧嘩。そんなわけのわからないことに金は一銭も出せないってさ」
彰は、結論をいうように続けた。
僕は、中学の頃の彰を思い出していた。試験結果はいつもトップクラスで、それでも結果が芳しくない時に、ナイフを振りかざして暴れたことがあった。そし
て、ナイフで小犬を切裂くなどという残虐なことも仕出かした。高校生になって美術部に入ると、彰は妙に明るく生き生きとしてきた。高校でも彰は優秀な方
で、以前そんな人生とぼやいていたが、一流の会社に入るような道を辿るはずだと思っていた。中学時代を思い出していると、なんだかおかしくなってきた。
「なに、笑ってるんだよ」
「だってさ、まさか彰が芸大に行くなんてこと言い出すなんて、思ってもみなかったもん」
「そうだろ? 僕自身も驚いているんだから。でも、どうなるかわからないしさ」
僕たちは、顔を見あわせてにやっと笑った。
「直樹はどうするんだよ。名古屋の大学に行くんだろ? 綾香ちゃんだって、こっちにいるんだし……」
「……綾香ちゃんとは、……もう終わったんだ」
しばらく考えてもみなかった綾香のことを問われ、言いよどんだ。
「どうして?」
「どうしてって……。いろいろあってさ……」
彰は、「そうか」といったまま、それ以上聞いてこなかった。このところの僕は、的確なコメントが見つからないことが多い。ひとことでは説明つかなくて、説
明することすら面倒に思えてしまう。
彰と別れてから、アスファルトの照り返しで生ぬるくなった空気の中を、ぼんやりと歩いていた。青々とした街路樹が、日暮れにはまだ少し早い夏の陽を散らし
ていた。
中学の仲間は、それぞれに三年という時を生き、自分の道を歩きはじめている。ただ怠惰に日々を消化しているだけの僕は、逃れ切れない蟻地獄から這い上がろ
うとするような焦りだけが先走っていた。
家に着く頃には、夏の陽もやっと沈みあたりに闇が忍び込んできていた。僕は、ひとりで暮らす一軒家の広さも、たいして気にならないくらいになっていた。
「直樹!」
門のところで突然に僕を呼ぶ女の声に、一瞬、僕の身体は緊張した。
「なぁ~んだ。真波ちゃんか……」
鍵のかかった玄関前で、僕を待ち受けていたのは、あの川原での事件以来二ヶ月ぶりに会ういとこの真波だった。
「なんだって、なによ」
「いや、別に……。どうしたの急に?」
「おじさんに頼まれたのよ。まあ、厳密にいうと母が頼まれたわけだけど……」
僕は、ジーパンのポケットから鍵を取り出した。家に招き入れると、真波は両手にスーパーの買い物袋を持ったままキッチンに直行した。
「ちょっと、直樹! なによ、これは!」
「あ、いや……。ちょっと面倒で……」
コンビニで買ってきた弁当のパックや、菓子パンのビニール袋。ジュースの空缶や、使ったまま洗ってないマグカップなどが散乱していた。
「男だからできないっていうことは、理由にならないのよ」
「はいはい」
僕はいい加減に答えながら、リビングのソファーに腰をおろした。
「カレーつくるからね、一時間ちょっと待ってて」
「これから?」
僕は壁にかかっている時計を見た。七時半になっている。
「だって、しょうがないでしょ? 直樹、ちっとも戻ってこないんだもん」
「えっ? ずっと待ってたの?」
「そうよ」
真波は、じゃがいもの皮をむきながら答える。
「言ってくれれば早く帰ったのに……」
「驚かそうと思ったの」
真波は、僕に背をむけたままいう。たしかに、突然来て料理や掃除をしてくれれば、多少驚きはする。だが、深い感動を覚えるようなことでもない。僕自身の醒
めた心を感じながらも、真波のそんな気持ちは微笑ましかった。
「待てる?」
「ん? うん。さっきハンバーガー食べたから」
「ずるーい。私は、お腹ペコペコなのに……」
真波は、手も口も休むことなく動いている。僕は雑誌をページを翻しながら、真波の問いかけを適当にあしらっていた。
カレーの具を煮込む音が響いてきた。玉ねぎの甘みを含んだ湿気た空気が、リビングにいる僕にまでまとわりついてくる。真波は、カレー作りにひと段落したせ
いか、今度は散らかし放題だった後始末をはじめていた。
「真波ちゃんさ、まだあの男と続いているんだろ?」
真波の動きが止まった。
「えっ? あ、うん」
「どうするの?」
真波がまた慌ただしく動きはじめた。ゴミの袋は、大きく膨れあがった。
「……さあね」
真波はひとごとのように答える。
「別れちゃえば……。真波ちゃんには、もっとふさわしい男がいるだろ」
僕はいつだったか絵里香にいったことと同じことを、真波にいった。甲斐甲斐しく家事仕事をこなす真波の姿は、いい奥さんになれそうな感じに僕の目に映っ
た。
「いろいろあるのよ」
「いろいろね……」
僕は、先ほどの彰とのやりとりを思い出して苦笑した。僕だけではなく、みんな『いろいろある』らしい。ひとことでは語れない、ひとには話せないような『い
ろいろ』が……。片づけも終わったのが、真波は野菜サラダをつくりはじめた。母がどこかにしまいこんでいたランチマットも見つけてきて、テーブルには久し
ぶりに彩りが添えられた。 そんな時、チャイムが鳴った。
「誰かな? こんな時間に……」
ひとりごとのようにいい時計を見ると、八時四十五分をさしていた。僕が玄関のドアを開けると、真波より少し年上の女性が立っていた。
あのう、とほぼ同時にその女性も口を開いた。
「遅くにすみません。相沢といいますが、裕樹さんはいらっしゃいますか」
「父は、家にはいませんが……。あのう……」
突然訪れ、父のことを裕樹という名で呼ぶ女を、訝しげに思いながら答えた。女は父が不在であることを知ると、困惑した様子でだまり込んだ。
「あ、もしかして父の……」
その時、キッチンから真波が出てきた。
「直樹、どなた?」
「お父さんの……」
つきあっている人だとか、女だとか、愛人、彼女……などと頭の中には、それらしい単語が浮かぶが、言葉として続かなかった。
「あがっていただいたら? あ、私はこの子のいとこ。この子の父親は、私の叔父」 淡々と話すと、真波は相沢という女をリビングに招き入れた。
真波の入れたコーヒーにも全く手をつけず、女は膝の上に置いた両手でハンカチを握りしめている。
「あのう……、奥さんは?」
父がいないとわかったせいか、その女は母のことをたずねた。
「叔母はいないわ。心労でまいっちゃって、軽井沢の実家に帰ってるの」
僕の代わりに美紀が答えた。
「あ、私、どっちかっていうと部外者だから……。私に謝られても困るんだけど……」
真波は、そういいながら僕に目をやった。僕は当事者に入るかもしれないが、それでも父も母もいない席で、父の女と面と向かっているのは、なんだか変な話の
ような気がした。僕が一向に話す様子を見せなかったせいか、真波がまた口を開いた。
「で、御用件は?」
「……お腹に裕樹さんの子がいるんです」
僕は、女のこのひとことで、一瞬にして父への嫌悪感が高まった。母との決着をなかなかつけずに、三年余りも母を苦しめている父。そんな中で、女を妊娠させ
たという事実。胸くそわるいという言葉とともに、親父に唾でも吐き掛けたい気分だった。
「直樹!」
真波は、そんな胸中を接してか、僕の腕をつかんだ。
「それで叔父は、妊娠のことは知っているんですか」
真波の言葉に、女がうなずいた。
「でも、一週間も連絡がないんです。会社に電話入れても、休暇をとっているといわれるし……。裕樹さんは、産んでくれといってくれたのに……」
女は声をつまらせた。
僕は、母が救急車で運ばれた時のことを思い出していた。久しぶりに父と話した日のことを……。お父さんたちは、もう駄目だといった父。それでいいのか、と
僕にたずねた父。僕は、父の女を目の前にして、父との決別を感じさせられた瞬間だった。と同時に、それは父を親として慕っていた、子供の意識との決別でも
あった。
「直樹、叔父さんから連絡は?」
「あるわけないよ。第一、この家に帰ってくることだってないんだから。だいたいあんたが知らないのに、僕が知ってるわけないだろ」
最後は、女に対して吐き捨てるようにいっていた。父との決別を感じながらも、事実を認めかねている僕の心が最後のわるあがきをしていた。
2
相沢という女が帰ったあと、真波は冷めて薄く膜の張ったカレー鍋を再び火にかけた。カレーの香りが蒸気に乗って再び漂ってきたが、食欲を削がれたままテー
ブルについた。
「いろいろ大変ね、直樹も……」
真波は、沈黙の食卓にむかって、ぽつりとつぶやいた。一方で僕は、スプーンですくった山盛りのカレーを無言のまま口に押し込んでいた。重苦しい空気を裂く
ように、突然、電話が鳴った。氷の入った水を一気にのどに流し込んで立ち上がると、このタイミングにほっとしたかのような真波の顔が
あった。 電話が父からであることを確認すると、僕は即座に詰め寄った。
「どこにいるんだよ。さっき親父の女がやってきた。妊娠してるって……」
父は、一瞬、言葉を失ったらしかった。
「……迷惑をかけてわるかった」
父の言葉に、他人行儀なよそよそしさを感じた。無言でいる僕に、父は続けた。
「……お母さんと話し合うため、軽井沢に行ってきたんだ。今、名古屋駅についたところだ。これから家に行くから、直樹とも少し話し合いたいんだが……。い
いかな」
最後、父は遠慮がちにつけくわえた。
受話器を置くと、僕の様子を察してか真波が皿を洗いはじめていた。
「私、これで帰る。叔父さん、家に来るんでしょ? キッチンは一応、きれいになったし……。ゴミ捨て、忘れないでね」
真波が帰ると、二週間余りひとりで暮らしていてさほど広いと感じなかくなっていた家に、久しぶりに寒々としたものを覚えた。
時計が十時半をまわったころ、チャイムが鳴った。
「自分の家なんだからさ、鍵を開けて入ってくればいいじゃないか」
庭の植え込みに転がるガラスビンの中に、家の鍵があった。合鍵を作ってもよくなくす僕や父のためにできた、家族だけの秘密だ。
「なんか入りにくくてな……」
照れ隠しのためか、ニヤリと父は笑った。
夏のはじめのころ、浩一たちが襲った男のことを思い出した。父も、あの人と同じくたびれた親父の姿をしている。
リビングに入ると、父は、ソファーに深く凭れるように腰をおろした。
「ビールでも飲む?」
僕は、父が哀れに思えてそう声をかけた。
「置いてあるかの?」
「たしかあったと思うよ」
キッチンに行って、冷蔵庫を開けた。クーラーのきいた部屋よりも、さらに冷たい空気が流れ出た。缶ビールとグラスをかかえ、なにかつまみになるものはない
かと探したが見つからず、スナック菓子の袋をかかえてリビングに戻った。 グラスにビールを注いでいると、父が口を開いた。
「直樹、おまえのグラスも持ってこい」
「え? 僕? 未成年だよ、僕」
「いいから」
僕は、キッチンに戻り、グラスをもうひとつもってきた。父は、僕のグラスにビールを注ぎおわると、カチャリとひとりで乾杯をし、一気に飲み干した。僕は取
り残された気分で、泡のたったグラスを見ていた。
「誕生日だったろう、きょう」
僕の誕生日を覚えてくれたのは、模試の前に電話をくれた美紀だけだと思っていた。
「覚えてたの?」
父は、ポケットから財布を取り出した。
「昔のように、なにか買ってやればいいんだが……。お父さんには、もう直樹がなにを欲しがっているかなんて、わからない。それにこんな生活しているから、
たいしたことはしてやれないから、これで好きなものでも買ってくれ」
僕は、父から無言のまま一万円札を受け取った。三年前のことが、鮮明に僕の中で甦っていた。東京にいたさやかと会うため、僕は、幾度か上京したことがあっ
た。その度に父は、旅費とは別にこづかいを渡してくれた。『男は資本がなくっちゃな』とか『男はたいへんなんだぜ』などといいながら……。
そのころの父となんら変わらないと、くたびれた親父顔の父から感じ取っていた。
「お母さん、半狂乱のようになっちゃってさ……」
父の言葉で、僕の回想が突然こわされた。
「妊娠のこと、話したの?」
父はわずかにうなずいた。
「電話ではさ、直樹が大学を卒業して就職するまでの養育費と、お母さんがひとりで生活していけるだけの最低の費用は月々払うと話ができていたんだ」
父が母と別れて、相沢という女と一緒になって生活するということは、金銭的にも厳しい選択だ。今まで少なからずあったろう愛情や家族の絆は、
現実問題とし
てお金で清算される。
「妊娠のことを話した途端、お母さんは、絶対に別れないと言い出した……」
「そりゃ、そうだろ。僕だって、あの女が来た時は、冗談じゃないって思ったよ。いい加減、僕たちをふりまわすのはやめてほしいって。お母さんにとっちゃ
さ、女がいて妊娠までしたなんていわれたら、二重に裏切られた気分だったと思うよ」
「二重か……。だまったままでいてもよかったんだけど、あまりに不誠実な気がしてな……」
缶ビールがカラになっているのに気づき、再び冷蔵庫から取り出してきた。父は、飲めと目で合図するようにいい、僕はグラスの三分の一ほどを口にした。浩一
のところで幾度か口にしていたけれど、口に広がった苦さは、今の状況になんだか妙にあっていた。
「話さないですむことは、話さない方がいいんだよ」
「そうだな……。直樹、ずいぶん大人になったな」
久しぶりに見る父のおだやかにまなざしに、恥ずかしくなって目をそらせた。
「お父さん、どうしてあの人のこと、好きになったの? お母さんやこの家に、不満があったの?」
たずねるつもりもなかったひとことが、僕の口からこぼれ落ちた。
「そうじゃない」
父は、強く否定して、しばらく口を閉ざした。壁にかかった時計の秒針が、夜更けの時を刻んでいた。
「お父さんの心の隙間に、すっと入り込まれたんだろうな。……そしたら、妙に彼女といると安らいだ」
掛け違えたワイシャツのボタン。そんな些細なことが引き起こした結果なのだ。
以前さやかは、白血病になった自分のことすら、運命だと淡々と語っていた。もう僕の家族が、どうにもならない状況であることを、この現実を認めざるを得な
い。僕の人生に起こりうる、ひとつの節目なのだと、僕自身やっと認めようとしていた。
「あの人って何歳?」
「……二十九」
父よりもひとまわり以上の年下であることに照れたのか、父は言い澱みながら答えた。
あの女の姿に、真波が重なった。いろいろあるのよ、という真波の声が響いてきた。あの女にとっても、『いろいろある』のに違いない。
「お父さん、あの人、心配してたよ。連絡がとれないって……。早く行ってあげたら」
「そうだな」
父は、僕のひとことで腰をあげた。父が来て、一時間近くたっていた。玄関で父を見送ったあと、再び僕は、ガランとした家に置き去りにされ
た。父にとって、この家は居場所ではなくなっていることに気づいた。父からもらった一万円が、クーラーの風にふかれてテーブルから床へと舞い落ちた。
僕の誕生日の翌日は、家庭教師として美紀が来る曜日だった。
「どうだったの? 模試は? できた?」
会った瞬間、当然の質問のように美紀はたずねてきた。僕は、無言のまま首を振った。
「難しかったの?」
「……まあね」
「なにが、まあね、よ」
美紀は、僕の頭を軽くコツンと叩いた。
「だってさ……。集中できないんだもん。美紀さんのことが、頭ん中、チラチラしていて……」
僕は、椅子から立ち上がり、傍らにいる美紀を抱きしめた。勉強なんてどうでもいいや、そんな気分だった。キスしようとすると、美紀は僕の腕の中で抗った。
「担当、代わってもらおうか?」
えっ? と、僕は息を飲んで美紀を見つめた。
「こんなことしていたら、受験、失敗しちゃうよ。家庭教師に来てもらて成績が落ちた、なんていわれたら……。この二時間には、プライベートなこと、もちこ
まないで」
突き放すような美紀の言葉で椅子につき、英語のテキストを開いた。
「直樹くん? 怒っちゃった? もう、子供なんだから、ふくれちゃって……」
息が僕の顔にかかるくらいに、美紀は僕を覗き込んだ。自尊心をひどく傷つけられた気分だった。
大学生である美紀と、高校生の僕。年の差、四歳。僕たちの生活に接点はなく、美紀と一緒にいられる時間も限られていた。僕の知らない時間、美紀がどこで誰
とどんな感じに過ごしているのかさえわからない。美紀のことを想えば想うほど、熱くなりそして空回りする僕の気持ち。そして想いに比例して、どうしようも
なくもてあます男としての僕自身。
「いい、はじめるわよ」
だまったままの僕に、美紀はいった。美紀にきつくいわれたせいか、久しぶりに集中して勉強していた。
「It is no use crying over spilt milke 意味、わかる?」
「こぼれたミルクを泣いても無駄だ」
「そう、覆水盆にかえらず、ね」
こぼれたミルクがどうにもならないことは、一目瞭然だ。せいぜい慌てて布巾で拭くくらいだ。それが日本のことわざになると、妙な重さが加わる気分だ。どう
にもならないんだという諦めが、『覆水盆にかえらず』の根底にあるようだ。
「どうかした?」
「……やっぱり親父たち、駄目らしいんだ。きのう、親父の女がきた。妊娠してるって……」
僕は、ついプライベートなことはもちこむなといわれたことも忘れて、美紀に話していた。
「大変ね、直樹くんも……。ちょっと休憩しようか」
美紀は、いつものように灰皿を取りに行った。
「あれ? 写真は?」
「えっ? ああ……。美紀さんにわるいから、しまった」
三年余り棚のすみに置いてあったさやかの写真は、机の引き出しにしまわれていた。
「もういいの?」
いいもわるいも、死んでしまった人が生き返るわけではない。
「それにその写真の妹さんは? 直樹くんのこと、好きなんでしょ? その彼女……」
「綾香ちゃんとは、もう終わったよ」
美紀は、ふうと息をはいた。僕の部屋が、また美紀の香水と煙草のまじった香りにつつまれていく。
「いいのよ、直樹くん。私にそんな気を使わなくても。私と、こういう関係になったからって……」
「どうして?」
「だって、来年私は就職して社会人だし直樹くんは大学生。四歳っていう年の差は変わらないのに、状況はどんどん変わっていくもの」
「前の彼氏のこと、忘れられないの?」
美紀と同じ空間にいて、時を共有しているはずなのに、突然に大きな不安に襲われた。
美紀は笑いながら、また息をはき、煙草をもみ消した。
「僕、美紀さんのこと好きだよ」
僕が『好き』だといった人は、三人目だった。さやかにはじめて口にした、息苦しくせつない想い。綾香との関係のぎこちなさをなくすために口にした、重みの
ない言葉。そして、美紀には、僕の不安がそういわせていた。
「ありがとう、直樹くん」
美紀は、僕にキスした。口の中で、ニコチンが広がっていった。
勉強がおわると、僕はいつものように美紀を駅まで送って行った。次の日曜日には遊園地に行こうと約束しながら、美紀は「ちゃんと勉強するのよ」というひと
ことを忘れなかった。
「直樹!」
地下道の入口で、僕を呼ぶ声がした。
「お友達? きょうは、ここでいいから。じゃ、おやすみ」
美紀は、浩一たちに軽く会釈をすると、ひとりで階段を下りて行った。
「直樹、誰だよ。今の……」
あの事件以来に会うのに、浩一は、全くわるびれた様子がなかった。
「彼女? もしかして年上? 綾香ちゃんは?」
質問を連発させたのは、夏休み前、妊娠の話をきかされて以来の絵里香だった。
「その様子だと、なんとかなったみたいだな」
「雨降って、地固まるよ。ね、浩ちゃん?」
「なに? それ」
「だから、いろいろあったけどかえっていい結果になったってこと」
「ん? まあ、そうだな」 浩一は、にやりと笑った。
「オレ、高校やめて働くことにしたんだ。赤ん坊できちまったしさ……。無理して高校を卒業しようとしたから、いろいろあったんだよ」
浩一の茶色に染まった長髪は、短く切られていた。
「あたしは、なんとか高校くらい出といた方がいいって思うけど……。浩ちゃん、勉強きらいだし……」
「絵里香はどうするんだよ」
「卒業するよ。三年生なんて一月いっぱいだもん。予定は三月だし……。でも、親がねぇ」
絵里香はちらっと浩一を見た。
「うちの親父はいいっていうんだけどさ……。こいつの家がさ。ま、わかんなくないけどよ。夏休み中にはなんとかして、次は絵里香の学校がなんていう
か……」
「よかったな、絵里香」
僕は、春先からの絵里香の様子を思い出していた。僕たちは、三人並んで歩き出した。
「絵里香は、今、浩一の家にいるのか」
「そうよ。だって、勘当状態だもん」
そういいながらも笑顔だった。
「で、直樹の方は? さっきの女は? 彼女か?」
唐突に、話題が美紀のことになった。
「……まあね」
「で、どうなんだ?」
えっ? と僕は、浩一を見た。
「だからよ……」
こんな浩一は、三年前からちっとも変わっていない。男と女にかけては、僕よりもかなりませていて、いつだって浩一には発破をかけられていた。
ああ、と僕は小さな笑いを浮かべた。その瞬間、浩一が僕の背中を叩いた。
「痛いな~。もう……」
「お祝い」
僕の耳元で、浩一は囁いた。絵里香は、わけがわからずきょとんとした顔をしていた。
「直樹くん、綾香ちゃんはどうしたのよ」
「いろいろあってさ……」
僕はここでも『いろいろある』という言葉ですませてしまった。
「そうだよ。男は、いろいろあるんだぜ。絵里香」
浩一が僕の言葉をうけてそう続けた。
アパートに着いて別れようとすると、浩一がさっと僕のところに歩み寄ってきた。
「これ、いとこに返しといてくれ」
そういうと絵里香の肩を抱いて、階段を上って行った。僕の手に押し込まれたのは、くしゃくしゃになった一万円札二枚だった。
3
夏休み最後の日曜日、僕は、名古屋駅の新幹線ホームにいた。二日前、突然に綾香の親父さんから電話がきて、時間をつくってほしいといわれたのだった。
名古屋までわざわざ来る用件というのが思い当たらず、僕は困惑していた。さやかのことで今さら僕に用などあろうわけもなく、そうかといって綾香のことを問
いただされるほど、無茶はやっていないつもりだった。
会うのは、三年前の夏に軽井沢で一緒に食事をして以来だった。新幹線ホームに降り立ったその姿は、髪に白いものが増えた程度で、おだやかな気品のある雰囲
気もそのままだった。
「すっかり見違えてしまった……」
僕は、軽く会釈をした。
「三年前は、まだほんの子供だと思っていたのに……。さやかも生きていれば、直樹くんと同じ高校三年か……」
そういう親父さんの目は、過ぎ去った日を懐かしむように遠くを見ていた。突然にどうして呼び出しをくらったのかわからず、僕はだまったまま立ち尽くしてい
た。
「近くの喫茶店にでも案内してくれないかな……」
親父さんの言葉で、僕たちは階段を下りはじめた。人ごみをかき分けるように進み、改札を出た。駅構内でも人の流れの勢いに飲まれながら、喫茶店に入った。
「コーヒーでいいかな」
親父さんの問いかけに、僕はうなずいた。親父さんは、氷の入った水を一気に飲むと、深い息をついた。
「なにから話していいのか、わからなくてね……」
言い訳がましくそう口をひらいた。
「綾香のことなんだがね……。こっちに来てから、綾香と会ったりしているのかな……」
さやかが亡くなってからのこと、綾香との電話や手紙のやりとりは、親父さんだって承知していたはずだ。綾香が名古屋の高校に来ている以上、当然会うこと
だってあるとわかっているはずだ。僕との関係がぎくしゃくして駄目になったということを、綾香は親父さんに話していないんだろう。
つい最近まで、子供じみた綾香の態度に僕はうんざりしていた。だが綾香も、なんでも包み隠さず話せる子供でもなくなった年頃だったのだと、あらためて気
がついた僕だった。
「最近、綾香と会った?」
僕がだまりこんでいたせいか、再び問われた。
「夏休みなのに、帰ってないんですか?」
逆に僕がたずねると、親父さんは前髪をかき上げる仕草をしたまま額に手をあてて、ため息をついた。
「綾香には四月以来、会ってないんだ」
親父さんのつぶやきに、三年前には全く感じられなかった綾香の家の暗さに気づかされた。ちょうどその時、コーヒーが運ばれてきた。親父さんは、ひと口す
すってから、話を続けた。
「綾香が名古屋の高校に行くといったのも、家から逃れたかったからだ。……それに、直樹くんがいたからだと思う。直樹くんに、憧れや恋心みた
いなものだっ
て、もちろんあったろうから」
僕は、ほんの一瞬だけ垣間見せた綾香の一面を思い出していた。
「あんな家……」
と顔をしかめた綾香に、もう一歩踏み込めなかった僕自身を、今さらながらに情けないと思った。綾香に対して妙に兄貴面を意識していながらも、僕の行為は、
とうてい及ばないものだったことに気がついた。
「なにかあったんですか」
「さやかを亡くしてから、結局私や妻は、綾香とさやかを比べることが多かったんだと思う。親の私がいうのも変な話だが、さやかはあまりにもよくできた子
だった。白血病で苦しみながらも、前向きで明るく素直な子だった。綾香は反抗期と重なってか、感情がすれ違ったりぶつかったり……。そのうち綾香の顔を見
るだけで、小言をいってしまったり……。綾香のことを想う気持ちが、いつも裏目にでてしまう。昨年の夏、あの子が名古屋の高校を受けたいといった時は、正
直いってほっとした」
親父さんは、一気にそこまで話すと再びカップを手にした。綾香の無邪気でわがままなその姿の奥に、親父さんが話したような一面があったことを汲み取ってや
れなかったことが、僕の身に重くのしかかってきた。
「学校からは、ちょくちょく連絡がきていたんだ。授業にでなかったり、服装の乱れとか、早々に注意がきた。義務教育ではないにしても、女子校だけあってそ
れなりに厳しく指導しているらしいんだ。寮からも電話がきた。夏休みになってから、無断外泊がある、と。実家に戻っているかと、問い合わせがきたんだ。金
がなくなれば、綾香から妻には連絡があったし、ケータイを持たせていたから妻は、たまには電話をしていたらしいんだが……。綾香が家にいた時のようないざ
こざが起こるのを恐れて、腫れ物をさわるように扱ってきた私たちがいけなかったんだ、と思っているんだがね」
親父さんは長い話を終えると、残りのコーヒーを飲み干した。
「綾香ちゃんとは、夏休みがはじまった頃からいろいろあって、会ってないんです」
「そうか……」
親父さんは、落胆した様子で椅子に深く凭れるように腰掛けた。
綾香に決定的な打撃を与えたのは、僕のような気がする。綾香の心をもう少し気を使ってくみとってやれば、おだやかに構えてやっていれば、と悔やまれた。自
分のことだけで精一杯だった僕自身の未熟さすら、恨めしく思えてきたのだった。
「僕、綾香ちゃんのケータイに連絡してみます」
僕に会えば、なんらかの糸口がつかめるのではと思っていたらしい親父さん。肩を落とした様子に対して、罪悪感を覚えたからだった。
「……もしもし」
「綾香ちゃん?」
「……直樹くん?」
束の間の沈黙のあと、綾香がたずねるようにささやいた。僕は、うんと答えたままだまりこんでしまった。四月に綾香が名古屋に来て以来、僕から連絡をいれた
ことが数えるくらいしかなかったことに気がついた。
沈黙の間、テレホンカードの度数が、瞬くうちに減っていく。僕は、その勢いにせかされるように口をひらいた。
「これから会えないかな……」
えっ、と息を飲んだような声とともに、綾香はだまったままだった。
「公衆電話からなんだ。カードがもうすぐ終わっちゃうから……。どこに行けばいい?」
「寮に戻るところ」
「じゃあ、寮の近くに行ったらまた電話する」
僕は、用件だけいうと電話を切った。ピピッという音とともに吐き出されたテレホンカードの度数は、あと三十円分残っていた。テレホンカードにせきたてられ
なかったら、僕は一度こじれた綾香と、まともに話すことなどできなかったかもしれない。カードに感謝する思いで、財布の中に納めた。
「寮で待っているっていうから……」
僕は、親父さんを促がし、喫茶店を出た。地下鉄に乗ってから寮に着くまで、親父さんは無言のままで、僕にとってはそれがかえって楽だった。
寮の近くの公衆電話から電話すると、綾香は「すぐに行くから」とだけ短く答えた。時間をおかずして門のところにやってきた綾香の姿を見て、僕は愕然とし
た。親父さんも、一瞬、言葉をうばわれたように立ち尽くしていた。綾香にとっても、父親が目の前にいるという事態に息を飲んだようだった。
「どういうこと? 直樹くん」
綾香は、僕に詰め寄った。
綾香の髪は、金色に染められていて、『ガングロ』といわれるように、顔は不自然に日焼けしていた。唇には白っぽい口紅が施されている。雑誌や街角で見かけ
驚くこともないが、自分の身近にいた人にされると、言葉を失う。
「どうしてパパがいるの?」
綾香は、ミニスカートからすらりとした脚を出していた。流行の厚底サンダルを掃いて、一歩一歩、僕に近寄ってきた。
「綾香、家に帰るぞ」
突然、割って入るように親父さんが、綾香の腕をつかんだ。
「こんなことさせるために、名古屋の高校に行かせたわけじゃないぞ」
親父さんが手をあげた瞬間、僕はとめにはいった。その間に綾香は身を翻すと、寮にむかって駆け出して行った。
「申し訳なかった。あんな姿を見たら、ついカッとしてしまって……」
綾香の親父さんに、なんともやるせないものを感じていた。喫茶店で話した時には、どんな状況であるにせよ、綾香を心配する親の想いが、他人の僕ですらわか
るほどあふれていた。実際に綾香に会うと、その愛情が反動となって裏返ってしまう。かえって綾香の心を閉ざさせてしまう結果となった。僕の脳裏に、父の姿
がよぎった。
「これから寮監先生と、学校の先生に会ってくるから……。きょうは、わざわざ来てもらって本当に申し訳なかった」
親父さんは僕に頭を下げると、そのまま寮の建物に入って行った。
その夜、綾香のケータイに電話を入れたがつながらなかった。電源が切られていた。
綾香を呼び出したのは、結果的に親父さんに会わせるためだったことを思うと、かえって僕は綾香を裏切る行為をしたのではないかという思いに苛まれていた。
カタン、カタン、カタン。
僕の中で、また何かが空回りをはじめた。しばらくは美紀に熱くなっていて、さやかのことは封印されていたはずだった。さやかの姿が綾香に重なり、先ほど
会った綾香の変わり果てた姿が甦った。
夏休み最後の日、母が実家から戻ってきた。約ひと月半ぶりに会う母は、生気を吸い取られたような青白い顔をしていたが、それでも二学期がはじまることを意
識していたらしい。父の女が妊娠したということも、父とどうするかということも、僕の前ではいっさい口にしなかった。母は、僕がひとりでこの家で過ごした
夏休みがなかったように、帰った日から以前と同じ様子で家事仕事をこなしていた。
僕は敢えて母と話すこともないまま、久しぶりに母の手作りの食事をし、食べおわると以前のように部屋に閉じこもった。 二学期がはじまった。
妙に晴れ晴れとした顔の彰が、すでに教室にいた。芸大進学の件、親父さんと話がついたのかとたずねる間もなく、始業式のため体育館にむかわなければならな
かった。整列している生徒の中で、絵里香の姿があることを確認でき、僕はひそかにほっとしていた。きょうから九月といっても、体育館の中は妙に蒸し暑く、
夏休みの生活の影響か、坐り込んだり貧血を起こして倒れる生徒もいた。 帰り道、僕は彰と並んで歩いていた。
「親父さん、許してくれた?」
気になっていたことを、僕はまずたずねた。
「いや、許してはないだろうな。……多分。ただ、もうこんな話したくないって感じでさ、ほとんど口をきかなくなっちゃって……。駄目だってい
わなくなっ
たってことは、どこかで諦めたのかなって思ってさ」
「なんだ、あんまりすがすがしい顔してるから、許してくれたんだと思った」
彰のそんな状況に、どこかでほっとしている僕がいた。長い人生のレールで、みんなが次々に自分の行き先を決めた列車に飛び乗って行ってしまう。僕だけが置
き去りにされて、みんなが去ったあとを、一歩一歩、歩いている気分だった。
「まさか。でも、僕の中で気持ちの整理ができたって感じでさ」
僕たちが駅にむかって歩いている時だった。
「直樹く~ん、彰く~ん!」 背後から僕らを呼ぶ声がした。
「絵里香……。走ったりしちゃ、駄目だろ」
思わず僕は、絵里香を諌めた。
「走ってなんかないじゃない、こんな程度」
絵里香は、笑顔で応えた。
「絵里香の方もなんとかなったみたいだな」
僕の言葉に、絵里香はえへへと笑った。
「まあね。お母さんは、諦めたって感じで、お父さんはしかめ面。それでも学校の許可もとれたし、卒業までは家から通うってことになって……。そうそう、
きょう、予定ある?
久しぶりに浩ちゃんのところ、来ない? きのうバイト代入ったっていってたから、なんかおごってもらえるわよ。浩ちゃんも、きょう正式な退学手続きとった
し……。あとは、バイトじゃなくって就職
探しするっていってた」
浩一や絵里香こそ、自分たちの道を歩きはじめたようだ。
「直樹、寄っていくか?」
「そうだな」
「じゃ、決まりね」
中学生の僕らに戻った気分だった。
電車を降りて、三人で並んで歩いていた。青々とした銀杏並木が、風に吹かれてざわついた。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる
古今和歌集にある藤原俊行の歌を思い出した。『さやか』という名をこの歌からとったと聞いて以来、この時期になると決まって思い出すのだった。
アスファルトの照り返しで、生ぬるくなった空気をかき上げるような風が通り過ぎていく。さやかの幻影が、綾香へと変わった。あれ以来、綾香のケータイは電
源が切られているのか、僕が何度電話しても連絡をとることができなかった。 さわさわと音をたてる銀杏の木を、僕は見上げた。
「直樹くん、早く」
絵里香に咎められ、また歩き出した。まだ残暑が厳しいながらも、僕は忍び寄る秋を風に感じていた。
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