1
僕は、十二月という月が一年の中で最も嫌いだ。冬至にむかって、日はますます短くなるし、寒さも増してくる。なによりも、一年のおわりという節目であることが、僕は嫌いだった。
子供の頃、まだサンタクロースを信じている頃は、クリスマスを指折り数えてはやる心をおさえるように待っていた。すぐに正月がくるから、冬はイベント続きのドキドキの連続だった。人が熱くなればなるほど、このところの僕はあまのじゃくのように萎えていく。大人たちはもちろん、僕のまわりでも、『年内』という言葉にこだわって、今年中にやらなければならないと意気込むから、なんだか気ぜわしい空気を僕自身も感ぜざるを得なかった。
「直樹、やっぱり来ないのか?」
十二月半ばの土曜日、授業がおわって帰ろうとしていた時、彰に声をかけられた。
「え? あ、うん。最後の追い込みだしさ、そんな気になれないもん」
僕は、そういうと席を立ち、彰の視線を背に感じながらそのまま教室を出た。
「気がむいたらさ、来いよ」
後を追ってきた彰に、僕は「ああ」と答えたが、出かけていくつもりは全くなかった。
浩一のアパートで、絵里香や彰ととともにクリスマスパーティーをしようという話が持ち上がったのは、今月のはじめ頃だった。絵里香は、卒業とともに出産をひかえていたし、浩一は、高校を中退してすでに板金工場で働いていた。彰は、芸大へと進む方向が決まっていて、僕だけが宙にぶらさがったまま、ふらふらし
ているようだった。
経済学部が僕の志望だった。それからのことは、大学生になってから考えればいい。最近は、そう自分にいいきかせていた。よくよく考えれば、十八歳の選択で
人生は大きく変わることを、僕はこの時さほど意識していなかった。大学の経済学部を出たからといって、医者になれるわけはないし、彰のめざすデザインだと
か芸術関係の仕事につけるわけはない。専門職につくには、そのための勉強を早いうちからしなければならない。大学受験という十八歳の今、いろいろな可能性
の中から、ある方向性のものを選択していることに、僕は全く気づいていなかった。
それに美紀とのこともあったから、僕はそんな陽気になっているやつらの前で、根掘り葉掘り聞かれるのが、まずいやだったのだ。
学校から解放されると、このところの僕は、肩が軽くなったようにリラックスできた。雑踏の中を彰や他の友達たちとつるんで歩くと、かえってひとりぼっちの
ような冷たい思いに襲われた。ひとりで歩いている方が、なんだか楽だったから、孤独を楽しむようにもの思いに耽りながら帰途につく日を繰り返していた。
家に着くと、ここでも『年内』にこだわる人たちがいた。僕の両親がそうだった。玄関を開けると、父の靴があった。僕は深い息をついて心の準備
をして、リビ
ングにむかった。 夏の誕生日以来の父だった。 折りたたまれた薄っぺらい紙が、エアコンの風に吹かれてわずかにゆれていた。
「お母さんとは、正式に離婚したから」
僕が坐ると、宣言するような父の短い言葉が待っていた。
「直樹は、とにかく大学のことだけを考えていればいい。授業料や生活費のことは、お父さんが一切面倒みるから、心配しなくていい。勉強は、ちゃんとしてい
るのか?」
夫婦の破局時にも、こんな日常的なことを問いかける父に、僕はだまったままうなずいた。一方母は、無表情のまま口を閉ざしていた。
「お父さん、僕、大学生になったら家を出たいんだけど……」
僕はこのところ考えていたことを、はじめて口にした。
「直樹!」
母がいきりたって叫んだ。
「こっちの大学に行くけど、少しひとりで生活したいんだ。なにからなにまで、ひとりでやってみたいんだ。もちろんアルバイトもするから……」
学生のひとり暮らしなんて、所詮、親のすねかじりだ。なにもかもひとりで、というのは社会人になって独立してから堂々といえることだ。それで
も僕は、いろ
いろあったこの一、二年に決別するように、大きく環境を変えたいと思っていた。
「そうか。大学に合格したら、相談しよう」
母は、なにかを言いかけたが、諦めたようにだまりこんだ。
こわれた家族に、今さら話すことなどなかった。父もそう感じたのか、離婚届を手にすると立ち上がった。
「なんかあったら、力になるから。お母さんと別れたって、直樹の父親に変わりないんだからな」
玄関まで送ると、父はありきたりなことを僕にいった。
「お母さんのこと、頼むぞ」
僕がうなずくのを確認すると、父は僕たちから去って行った。
リビングに戻ると、母はそのままソファーに腰を下ろしていた。壁の時計の秒針の音が、やけに耳障りだった。
「見送らなくてよかったの?」
なにか話さなくてはと思って、僕は口をひらいた。父と離婚したといっても、僕たちの生活が昨日までと大きく変わるわけではなかった。父は、この一年余り、
この家にいないことが常だったからだ。
「直樹、お寿司でもとろうか?」
母は、そういうと以前よく頼んでいた近所の寿司屋に電話をいれた。
「直樹には、いろいろいやな思いさせちゃったね。一番大切な時期に……」
一番大切というのは、大学受験のことをいっているのだろう。でも僕は、四年前の中学二年の頃、不登校をしていた僕を、そっとしておいてくれたこと母に感謝
していた。あの頃、父や母が僕のことを責め立てれば、今、こうしている僕とは全く違った人生が待っていた気がしてならない。そういった意味で、僕にとって
は、あの頃が『一番大切な時期』だったように思う。大人への階段を上りはじめたばかりのあの頃、第一歩でつまづいたら、上る気力も勇気もなくなってしまっ
たかもしれない。今、僕はその階段の途中にいる。
今度は、僕が母を思いやってもいい年だった。それなのに僕は、自分のことで精一杯で、母のことは疎ましくさえ思っていた。
「ひとりで暮らしたいと思うくらいの年になったのね、直樹も……。いつまでも子供だ子供だと思っていたのは、お母さんだけだったのかもしれないわね」
僕は、久しぶりに母ともむかいあった。
一時間ほどして寿司が届けられると、母に呼ばれて再びキッチンへ行った。ほとんど毎日、母とも会話らしい会話もしたことなく、この一年余りを過ごしていた
僕だった。だから今さらなにか話そうとしても話すことなどなく、僕は今までのように無言で寿司を頬張っていた。いつものことでつけっぱなしのテレビの音
に、僕と母の間が救われていた。
「お母さんね、年明けから仕事に出ようと思って……」
突然母が、宣言するようにいった。僕は、喉につまりそうになった寿司を、慌ててお茶で流し込んだ。
「佐々木小児科。知ってるでしょ? 直樹も子供の頃はよくかかってたから……」
僕は、だまったままうなずいた。
以前母は、看護婦をしていた。僕が小学生の頃はかぎっ子状態だったが、中学になり父が単身赴任になったことをきっかけに、仕事をやめて家庭に入ったのだ。
「あそこの奥さんから声をかけていただいてたの。直樹がね、大学生になったらひとりで暮らしたいなんて言い出したから、それで決心がついた」
僕の家族は、夏の夜空を飾る花火のように、それぞれの方向に飛び散ろうとしていた。
「直樹、たまご好きだったわよね」
母は、急に思い出したように、たまご焼きの寿司を僕の器に移した。たしか小学校の頃は、父や母の分もこうやってもらっていた気がする。今になっては、たま
ご焼きなどどうでもよかった。母にとっては、僕はいつまでも息子なんだ。もっといえば、いくつになっても母の子なんだ。
「うん」
僕は、母からもらったたまごの寿司を口に入れた。
「今度から、お母さんの給料日にはお寿司にしようか」
なんだか画期的なアイデアを思いついたようにいう母を、きょうの僕は、微笑ましい思いで見ていた。
2
年越しは、軽井沢の祖父母のところでという話もあった。結局、僕の受験を気づかって、母とふたりのいつもの夜とほとんど変わらない大晦日になってしまっ
た。
「今年は、初詣、みんなと行かないの?」
年越しそばを食べながら、母にきかれた。
「うん、みんな、忙しいし……」
きのう、浩一から電話があったが、受験勉強を名目に断ってしまった。彰も来るという話だったが、浩一は僕の気持ちを悟ったのか、無理強いするようなことは
なかった。
「浩一くんも、三月にはパパでしょ?」
「えっ? あ、うん」
「直樹と同い年なのに、来年はふたりとも全然違う道を進んでいくわけか……」
僕は、母が離婚してから、意識して会話につきあおうという努力をしていた。浩一が父親になる頃、父のところにも赤ん坊が生まれるはずだ。僕の行動や選択の
ひとつで、結果的に人生が大きく変わることへの漠然とした恐ろしさを感じはじめていた。
「今度、浩一くん、連れて来なさいよ」
「そうだね。お母さん、しばらく会ってないもんな」
僕は、そういいながら席を立った。
除夜の鐘の音をききながら、年が明けたんだとぼんやり思った。水滴がついて白くくもったガラス戸を開けると、凍てついた新年の空気が一気に入り込んでき
た。家々の灯かりはともされていて、初詣に行くのか、普段はひっそりとしている住宅街も今はどことなく騒々しかった。
なんだ、なにも変わってないじゃないか。
年内にこだわりせかせかと動きまわっていた年がおわり、新しい年になった。だが、なにも変わらずにいたことに、僕はほっとしていた。まわりの人や世間の
流れのように、慌ただしく年末にあれもこれもと貪欲にこなしていかなければ、年が明けたら大きな喪失感に見舞われるのではないか、そんな不安から解放され
ていた。 ゆったりとした僕のペースで、新しい年の時間が流れ出した気分だった。
世間一般の正月休みがすむと、母は年末に宣言したとおり仕事に出た。母が慌ただしくなったことで、かえって僕とのふたりの生活のリズムが保たれていた。
一月末から、大学の入試がはじまった。もともと自宅から通えるところ、すべりどめにしても愛知県内という条件のもとに選んだ大学だったから、選ぶ余地もな
く僕としては第一志望校をめざして必死だった。 二月半ばまで、三校、試験があった。そのたびに、母は少し早起きして弁当をつくってくれた。
「ここまできたら、頑張れなんて言葉、いらないわね」
母は、そういって玄関先まで見送ってくれる。僕も、そんな母には、努めて笑顔で応えようと意識していた。
二月十四日。本命の試験がおわって帰宅すると、休みだった母が出迎えてくれた。
「直樹、いいもの、届いているわよ。多分……」
「いいもの?」
僕の受験のことなど忘れてしまったかのように、妙にウキウキしている母を訝しく思って、リビングに入った。
水色で小さな花柄模様がついている、大きめの封筒だった。ひっくり返して差出人を見ると、なにも書かれていなくて、僕は宛名を再度確認した。
「チョコレートじゃない?」
「チョコレート?」 僕はおうむ返しにいった。
「バレンタインデーでしょ? きょうは……」
「そうか……」
「もてるわねぇ、直樹」 昔のお調子者の母にもどったようで、僕をからかいはじめた。
「これは、お母さんから」 母は、毎年のことで、バレンタインデーにはチョコレートをくれる。
「着替えてくるから」
僕は、包みをもって慌てて部屋へとむかった。もしかしたら、美紀ではないか……。はやる気持ちをおさえながら、封を切った。チョコレートの包みを出した
時、カードが封筒から転がり落ちた。僕の心臓は、久々に苦しいほどの勢いで息づいていた。
僕は、ゆっくりとカードを開いた。『すき』という文字の『き』の上に『3』が書かれていた。
「綾香ちゃんか……」
思ってもみない贈り主と、アイデアに僕は失笑した。
三年前のバレンタインデー。僕は、『すき』というカードをさやかからもらった。ホワイトデーには、『すき』の文字の上に『2』を書いて送った。当時、さや
かは骨髄移植のため無菌室という部屋に入っていた。どんなものでも消毒してから、無菌室に持ち込まれる。そのためさやかにあてたカードも、もちろん消毒さ
れたから、妹だった綾香の目に触れることがあったのだ。『すきの二乗』という意味のカードに、さやかはもちろん綾香までも、おおいにうけていた。
さやかの骨髄移植をした頃から、綾香と電話で話すようになったことを思い出していた。 その夜、僕は綾香のケータイに三ヶ月ぶりに電話した。
「……直樹くん?」
綾香は、電話に出るなり僕の名を呼んだ。いつ聞いても声はさやかにそっくりで、僕の心臓はドキンと息づいた。
「綾香ちゃんだろ? チョコレート」
「わかった?」
「わかるさ」
綾香は、だまりこんだ。僕もその沈黙の間、今、綾香はどうしているんだろうなどという思いが脳裏をよぎったが、口にすることはできなかった。
「……そろそろ大学受験でしょ?」
なにか話さなくてはと思ったのか、綾香が僕にたずねた。会話が途切れた時間、僕の心臓も息苦しいくらいに鼓動していた。
「うん。もう試験は終わった。きょうが本命の試験だったから。あした、すべりどめの発表だけど……」
「直樹くんなら、大丈夫だよ。本命、受かったら、また連絡して」
僕は、綾香と短い会話をかわした。
綾香が名古屋に来てからの日々。夏休みのおわりには、別人のようになっていた綾香。ホテル街で見かけた綾香。再び綾香に連絡をとった僕を、突っぱねた綾
香。そして、きょうのカード。電話での短い会話。 綾香は、どういうつもりなんだ?
平生よりも、かなり速い僕の心臓の鼓動。贈り主は美紀からだと思い込んでいた僕の、思いがけない結末だった。 すべりどめは、無事合格していた。
家に戻ってまもなく、電話が鳴った。心配した母がかけてきたのかと思ったが、美紀からの電話だった。 結果報告をすると、美紀は安堵した口調でいった。
「これでひと安心。あとは、本命の結果を待つのみ……か」
「美紀さんも、これで責任果たしたって感じだろ?」
「まあね。……ところでさ、直樹くん、これから出てこられる?」
美紀の言葉に、僕は驚いてだまりこんだ。
「今、近くの喫茶店にいるのよ」
家庭教師のバイトは、一月いっぱいでおわっていた。僕は、ひょっとしたらもう美紀とは会えないんじゃないかと、そんな気でいた。
僕は、きのうの綾香のことも忘れて、家を飛び出していた。喫茶店に入ると、美紀は軽く手を上げて合図してくれた。息をきらして坐る僕を見て、美紀は笑っ
た。
「走ってきたの?」
「えっ? うん。待たせちゃわるいと思って……」
美紀にいわれるまでもなく、そんな自分がおかしくなって、僕もにやりと笑った。
「受験から解放されたせいか、いい顔になったわねぇ。笑っている直樹くんの方が、カッコイイと思うけどな」
そういうと美紀は、煙草をもみ消した。
「直樹くんに渡したいものがあったの。一日遅れちゃったけど……」
美紀は、バッグから包みを取り出した。
「バレンタインのチョコレート」
「僕に? 義理チョコ?」
今さら美紀がこんなことをするのを胡散臭く思ってたずねた。
「もっと素直になりなさいよ。半分愛情、もう半分は同情かな」
「同情って?」
「ひとつももらえなかったらかわいそうじゃない」
こんなことをいう美紀は、以前の美紀と変わらなかった。
「僕、ちゃんともらったよ」
「まさかお母さんからっていうんじゃないでしょうね」
「別にもうひとつ……」
僕は、綾香にもらったカードのことを思い出していた。
「誰よ? あ、あの写真の子?」
「……の妹」
美紀は二本目の煙草に火をつけた。
「まだ、そんな面倒くさいことしてたの……。まあ、直樹くんらしいけどね」
美紀は、ふうと息をはきながら笑っていた。
「僕、今でも美紀さんのこと、好きだと思う。でも、さやかのこともまだ忘れていない。それなのに、綾香ちゃんのことでも、もやもやしている……」
「だから、最初にいったじゃない。人の心は、数学と違うって。割り切れないのが、心だってば……。数式どおりに計算しても、必ずしも同じ答え
がでるわけ
じゃないの。私だってねぇ、直樹くんのこと、嫌いになったわけじゃないし……。今でもいいなぁっていう気持ちは、残っているのよ」
「だったら……」
そういいかけて、僕は口を閉ざした。だったら、僕が会いたいと望んだ時に会ってくれてもよかったのではないか。僕の戯れすら拒絶した美紀を、冷たいと感じ
た瞬間を思い出していた。
「でも、どこかで節度は大切なのよ。仮にね、直樹くんとわりきってつきあうにしてもよ、直樹くんにはできないでしょ?」
美紀は、頬杖をつきながら僕に語った。
「いいのよ。マイペースでいけば……」
美紀の言葉が、僕の心にしみた。
「あ、いつ東京に行くの?」
僕と、急に思い出してたずねた。
「来月の二十日頃かな……。その前に、本命の大学、結果の報告してきなさいよ」
僕と美紀との時間も、夜桜を見に行った日からかなり流れ去ったことを、ぼんやりと思っていた。
二月の末。第一志望の大学の合格発表があった。僕の受験番号を掲示板で見つけた時は、目の前に明るく開けた大地が広がったような感覚を覚えた。模擬試験で
もギリギリだったから、駄目だろうかでもひょっとしてという自問自答を、発表まで繰り返していた。
「その様子じゃ、合格みたいだな」
背後からポンと肩をたたかれた。
「彰……」
彰にとっては、なんの関係もない合格発表だった。僕が来る三十分も前から待っていてくれたことを知ると、熱いものが僕の内部でわき上がってきた。
「ここ二ヶ月くらいピリピリしていたから、気になってたんだ。なんか僕が志望校をかえてから、話し相手にもなってやれなくて……」
「ごめん。心配かけて……」
浩一たちとのクリスマスパーティーや初詣も断り、ひたすらにカメのように自分の甲羅に閉じこもっていた僕。僕は、三年前の高校の合格発表も彰と見に来たこ
とを思い出していた。大学に合格したということは、人生の通過点に過ぎないこと。三年前と違い、今の僕にはわかっていた。
夫婦というには若すぎるけれど、結婚して新しい人生を歩み出す浩一たち。京都の芸大に進む彰。それぞれがそれぞれの道を歩き出していた。僕は、高校の三年
間という時間の流れの重さを、これから四年間過ごす大学の前で、思い知らされていた。ここ一、二年、自分の殻に閉じこもって、生きてきた僕。喜怒哀楽の情
も心の奥底に押し込んで、無表情な仮面をつけていた僕。甲羅から手足を伸ばした僕は、カメのようにゆっくりのんびりとマイペースに歩いていこう。やっとそ
んなおだやかな気持ちになっていた。
「浩一がさあ、卒業式の日に卒業祝いをしてくれるっていってた。絵里香も、そろそろだしさ……」
臨月をむかえた絵里香の姿を思い出していた。僕は彰とともに歩き出した。まもなく三月をむかえようとしている風は、心なしかぬくもりがあった。 3
三月六日、僕は高校を卒業した。仰げば尊しも蛍の光も、小学校から数えれば三度目で、ありきたりの歌だった。それでももう二度と高校生という時には戻れな
いことを思うと、なんの未練も執着もないはずだった高校生活に、僕の胸はしめつけられた。
卒業式があと、最後のホームルームもおわった。待ち合わせでもしない限り、もう会うこともないかもしれない。そう思うと、単なる同じクラスというだけでほ
とんど口をきいたこともない連中ですら、名残惜しい気がした。 絵里香に呼ばれて、僕と彰は教室を出た。
「いつ産まれるんだよ」
大きなお腹をかかえて、えっちらおっちら歩く絵里香の足取りが、僕には不安でならなかった。
「さあ。そろそろじゃない? まな板の上の鯉って感じで……」
当の本人が、デーンと構えているんだから、僕がおどおどするのもおかしな話だ。校門には、浩一が迎えに来ているはずだった。
僕たちが三人並んで歩いている時だった。
「直樹くん……」
突然に僕は名を呼ばれた。
「綾香ちゃん?」
四ヶ月ぶりに会う綾香だった。僕の心臓が痛いくらい息づいた。さやかに似ているからか、突然現れた綾香に驚いたせいか、僕自身、よくわからなかった。
「なんか、ますますさやかちゃんに似てきたっていうか……。さやかちゃんより大人になったっていうか……」
絵里香の言葉に、綾香はおだやかな笑みを見せた。綾香の髪は、再び黒く染められ、化粧も施されていなかった。四月に校門で待っていた綾香しか知らない絵里
香には、いくらか大人びたという感じに映ったのだろう。
「学校は?」
「やだ、直樹くん。あたしのところは、きょうから春休みだってばぁ」
「綾香ちゃん、これから卒業祝いのパーティーやるんだけど、一緒に来ない?」
絵里香が気をつかったのか、そう声をかけた。
「いえ。きょうは、直樹くんに渡したいものがあったから来ただけで……」
そういうと綾香は、僕に包みを差し出した。
「卒業と合格祝い」
僕は、だまったままそれを受け取った。綾香は、僕たちに軽く会釈すると立ち去って行った。
「直樹、どうなってんだよ」
浩一に肘で突つかれた。
「えっ?」
「年上の彼女はどうなったんだよ。ふたまたかけてんのか?」
「いろいろあってね」 僕は、浩一に説明できるほど心の整理はできていなかった。
浩一のアパートで卒業祝いと称したパーティーがおわり、家に帰ったのは、十時近くだった。
「随分もりあがったのね」
母は、そういいつつ僕には無関心そうにテレビを見ていた。僕と母だけの生活も、おちついてきた頃だった。僕は父に宣言したように、四月からは大学の近くの
古い木造アパートでひとり暮らしをはじめる。合格発表の翌日に、父と不動産屋に行って、決めてきたことだった。今後の生活にも慣れようとして、わざとそん
な態度をとるのかもしれない。
部屋に入って、綾香からもらった包みを開けた。小さな箱に入った軽いものだったが、振ってみても想像がつかなかった。包みを開け、箱から取り出したもの
は、砂時計だった。青くぬられた木製の囲いの中で、黄色の砂が音もなくガラス管の中を滑り落ちている。
綾香にせがまれて砂時計を買ってやったのは、もう一年近く前のことだった。ようやく僕と綾香の時も、流れはじめたようだった。
卒業式から十日後。絵里香が男の子を産んだと、浩一から連絡がきた。その二日後、父から女の子が生まれたという連絡がきて、僕は父の女の人が入院している
病院に出かけた。
僕と同い年の浩一が父親になり、僕には異母兄弟が生まれたことを考えると、なんだか不思議な気分だった。そして四十半ばで、再び新米パパのようになってし
まった父は、『くたびれた親父』などとはいってられないくらいの張り切りようだった。
ちょうどその頃、美紀も東京へと旅立って行き、僕は名古屋駅まで見送りに行った。
僕の身近なところでふたつの命が誕生し、美紀とはもう会うことがないかもしれない決別をむかえていた。そして、彰も四月早々には京都に旅立つ準備に忙し
い。
人生には、予期もしない接点がある。全く無関係の人と、ほんの一瞬、時を共有することがある。そんな一瞬から、思いも寄らなかった展開を引出す可能性があ
る。
僕と綾香は、二日に一度くらいの割合で電話をしていた。僕は、その日綾香に会わないかといってみた。一時間後、僕たちは川原の土手を歩いていた。
「卒業式の日、綾香ちゃんを見てびっくりした」
「どうして? あんな格好やめたから? お姉ちゃん
に似ているから?」
「う~ん、両方かな……」
僕たちは、つぼみが赤く色づいてきた桜の木の下に腰をおろした。綾香といると、僕の心臓はせわしく活動しはじめる。綾香のせいか、さやかの姿を重ねている
せいか、今でも僕にはよくわからなかった。
「卒業したの。ああいう格好するのも、援交も……」
「卒業か……」
「そう。それに直樹くんに、ああいうタイプってあわないでしょ?」
中年の男とホテルに消えた綾香の姿がよぎった。今の綾香からは想像もつかないが、それでも紛れもない事実であることを、僕の目が見ていた。綾香に会うと、
声をきくと、素直に息づく心臓の鼓動を感じる反面、援助交際をしていた綾香を冷ややかな目で見据える僕がいた。愛情を仲立ちとしたセックスではなく、ただ
金をもらうため、投げやりな思いで男に身を委ねていた綾香を、心のどこかで完全に受け入れられない僕がいた。
「そうだな。まあ、それに、わざわざ肌なんか焼くと十年後悲惨な思いするぞ。しみやそばかすになって……」
僕は脳裏をよぎった思いをふりきるように、綾香を揶揄した。
「十年後のあたしと一緒にいるつもり?」
「そうだな。えっちらおっちら、マイペースに歩いて行ったら、十年くらいあっという間に過ぎちゃうかもなぁ」
そうはいっても、十年後の僕の姿は霞がかかったように見えてこない。
「ね、直樹くん。砂時計、気に入った?」
僕が十年後に思いをはせて、ぼんやりと川の流れに目をやっていると、綾香が突然に話題をかえた。
「えっ? ああ。なんかさ、時間って流れているんだなって……」
その時、受験勉強のために詰め込んだ『方丈記』の一節が浮かんだ。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
「ねぇ、直樹くん。四月から、あたしの勉強みてくれない?」
また綾香に現実に引き戻された。
「勉強?」
「あたし、結構さぼっていたから、わかんなくなっちゃって……」
「来月から、アパート暮らしするんだ。週に二度くらいだったら見てやるぞ」
「ほんとに? 行ってもいいの?」
綾香が無邪気な笑顔できいた。こんな綾香を追いつめるのに、僕も荷担していたのだろうか。僕は過ぎ去った日々を思い出していた。
「あたしね、砂時計、歯磨きの時、毎日使ってた。直樹くんのこと思い出して……」
「歯磨きに使うなんてムードがないっていったの、綾香ちゃんだろ?」 綾香は肩をすくめて、えへへと笑った。
さやかを介して、滞っていた僕と綾香の時間。やっと今になって、流れを取り戻した。川の流れのように絶えることなく、砂時計のように音もなく流れはじめて
いた。
「直樹くん、これ……」
綾香は、思い出したようにバッグからごそごそと何かを取り出した。
「お姉ちゃんの日記。直樹くんがもっていた方がいいと思うから」
本のように分厚いノートを、綾香は差し出した。
「お姉ちゃん、本当は自分と一緒に燃やして欲しかったって思っているかも……」
「そうだな」
僕は、さやかの日記を受け取った。多分、僕はこの日記を燃やすことなどできないだろう。もうしばらくは、机の引き出しの奥にしまい込んで、思い出をつまみ
食いすることだろう。
「直樹くん……。桜が咲いたら、またここに連れてきて」
綾香は、つぼみがふくらみはじめた桜の木を見上げた。
「……三月の末には咲きそうだな」
僕は青い空を鋭く貫いている枝をちらりと見た。それから、肩に腕をまわし綾香を抱き寄せた。風が綾香の髪をなびかせ、僕の首元をくすぐった。
砂時計(完)
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