かき餅おばあちゃんと僕。
我が家は、母、僕、妹の三人暮らしでした。母子家庭。洋服のデザインをして働いている母に養われ、僕と妹は育ちました。おそらく我が家はそんなに裕福な家庭ではなかったはずですが、貧乏な思いをしたことはあまりありませんでした。(おなかがすいた思いはたくさんしました。貧乏ではないというよりも武士は食わねど高楊枝的な雰囲気です。)なぜかというと、友達と街に遊びに行くときにお小遣いなどがもらえると思うのですが、母親は少し多めにお金を僕に渡すのです。「一緒に遊んでいて、お金がない子がいたら、あんたがその子に何かおごってあげなさい。」と、日ごろから言っていました。 この精神は恐らく、祖母からきているものだと思います。祖母は母や叔母や僕たちが物心ついたころから事あるごとに同じ話を、悲しそうに懐かしそうに楽しそうに、そして嬉しそうに話すのです。かき餅のおばあちゃんの話です。 祖母は母を三歳の頃に病気で亡くしています。父親は、しばらくすると再婚をしました。再婚相手は二十代の若い女性でした。彼女が祖母の継母になるのですが、今でいえばニュースになるレベルの虐待を受けていました。その虐待の痕は今でも祖母の頭に傷として残っています。「躾」と称して頭にお灸を据えて、熱いと言っても痛いと言っても決して外してくれなかったそうです。祖母の頭には、直径三センチほどの円形のやけどの痕残っているのです。暴力的な虐待だけではなく、食事を与えないという虐待もありました。継母に新しい赤ちゃんができてからはそれが顕著になり、まともな食事は与えられないようになりました。いつも公園に一人で行って、空腹を忘れるように雑草を食べてみたり水を飲んでみたりしていたそうです。祖母が四歳の頃の話です。すると近所に住んでいたおばあちゃんが、公園にいる祖母に向かっておいでおいでと手招きをしたそうです。とぼとぼ歩いてそばに近寄っていくと、そのおばあちゃんは、自分の着物の懐の中で温めたかき餅を祖母に食べさせてくれました。祖母はそれを夢中で食べました。硬いかき餅だったけれど、おいしくておいしくてご馳走だと思った。と話していました。それから何度かそのおばあちゃんは祖母を見つけると手招きをしてかき餅をくれたそうです。その後、虐待が発覚して祖母を親戚が引き取り、その家を離れることになりました。かき餅のおばあちゃんはその後どうなったのかはわかりません。昭和の初めごろに栄養失調や風邪で亡くなる子供は今の比ではなかったでしょう。現在でも虐待でなくなる子供はたくさんいます。昭和の大変な時代に、虐待を受けながらも、今も生きている祖母の命には、かき餅のおばあちゃんのおかげもあると思っています。名も知らぬ、そしてもう昭和初期で亡くなっているであろうそのかき餅のおばあちゃんから祖母へ贈られたその恩を、祖母は母に事あるごとに伝えました。私は助けてもらったから、困っている人を助けなさい。そして母は僕に同じようにそれを託したかったのだろうと思います。僕は故郷から遠く離れた場所で暮らしていますが、かき餅を見ると、顔も見たこともないそのかき餅のおばあちゃんの存在をとても暖かく感じる時があります。そのおばあちゃんにはありがとうを言えません。だから、人にやさしくしなきゃなぁ、としみじみと思ってしまうわけです。名前も知らない、かき餅のおばあちゃんのお話でした。【送料無料】うさぎ 徳用生かき餅500g×10袋入